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第68話第68話『8月5日 それでも世界は回ってる』

「例えばわたしがいなくなっても……世界は何も変わらないんだよね」

 今日も今日とて変わらずいつものバッティングセンターへ足を運び、ベンチへ腰を下ろしたところで先に来ていた先輩がそんなことを口にする。

 病気であると知らされてからと言うもの、それまで見せていた元気ではつらつでどこかミステリアスな雰囲気は一切鳴りを潜めていた。代わりに顔を出したのは儚く、触れれば崩れてしまいそうな繊細さ。

 残された時間を前にネガティブになっているかと思ったが、先輩へ目をやると落ち込んでいるような様子はない。自暴自棄ともまた違う、精力に満ちた眼差しに明確な意味、意図があるのだと察する。

「キミはどう思う?」

「そうですね……そんなことないですよ、って言われたいわけじゃないですよね」

「さすが。そうだよ」

「実際そんなことないって言いたいところですけど……そうですね」

 少し考えたくて顎へ手を当てて俯く。

 まだ外の熱気を払いきれず、暑さで考えをまとめられずにいると先輩がその間を埋めるように口を開く。

「世界は変わらないけど、キミとかわたしの家族の世界だけは変わるじゃん。なんかすごく不思議だなって思うんだよね」

「家族とかは当たり前ですけど、僕とか友達とか……関わった人の心に残るから当たり前だと思いますよ」

「まぁそうなんだけどさ。なんだろう……」

 うーん……。

 ぼうっと天井を見つめながら足をパタパタ遊ばせる。冬用セーラーのスカートから伸びる黒タイツ越しの細い足をつい目で追いかけてしまう。それが思考を停止させ、ますます考えが上手くまとまってくれない。

 それに──先輩が何を言おうとしているのか。

 ただ漠然と自分が居なくなった後の世界に思いを馳せていたり、心配に思っているようには思えない。イマイチ要領を得ることができていない。故にどんな言葉を返せばいいのか見えてこない。

「わたしが居なくなったらわたしはどうなるのかなって思うわけよ」

「……は、はぁ」

 余計わからなくなったかもしれない。

 先輩が居なくなったあとの世界で先輩はどうなるのか……?

「ど、どういうことですか?」

「うーん……なんて言えばいいのかなぁ。自分でも何が言いたいかイマイチわかってないというか、なんだろう」

 そうしてますます考え込む姿が何故か面白くて笑ってしまった。

「笑うとこかなぁ」

「すみません。なんか……こうしてると病気なんだって思えなくて」

「そう? まぁ変に意識されても困るけどね」

 先輩もさらっと流してくれるからこそ、この時間が悲しみや苦しみに満ちたものではないのだろう。忘れてはいけないことではあるが、意識し続けていいものでもない。

 先輩は言っていた。

 僕には普段通りいてほしい、と。

 意識的か、無意識的かはさておき。この時間が尊いと感じられているならば、きっと普段通りで居られている証明なのかもしれない。

 その上で改めて考えてみる。

 先輩が居なくなった後の世界を──。

「もし……」

 居なくなるのは決まっていることなのに、「もし」なんて言葉を使ってしまうあたり──もしかしたらまだしっかり受け止めきれていないのかもしれない。

 もしくは祈りのようなものなのか。

「もし?」

「あぁ、すみません。もし先輩が居なくなったとしても……先輩が残したものはありますからね。完全になくなるなんてことはないと思いますよ」

「そうかな。そうだといいな」

「他の人はさておき……少なくとも僕は先輩を忘れるなんてことはできないと思いますからね。先輩も忘れられなくするって言ったじゃないですか」

「そうだね」

「なら……先輩が居なくなっても。少なくとも僕の世界では居なくなることはありませんから」

 抽象的な話題。

 話がかみ合っているのかすらもわからない──ただそれでも言いたいことは言ったつもりだ。

「それを聞くと……なんかちゃんとしたものを残したくなるなぁ」

「ちゃんとしたもの、ですか……」

「うん。例えばキミが欲しいものとか」

 なにかある? と言いたげに僕を向いては小首を傾げる。

 しかし急にそんなことを言われても困るくらいには物欲がない人間だ。

「そうですね……欲しいもの」

「とりあえず言ってみて」

「え、えぇ……じゃあなんかジュースとか飲み物ですかね」

「それだけ?」

「今丁度喉乾いてるので……」

「つまらない」

「自覚はありますよ」

 しかしそれ以外出てこないのだから仕方ない。

「じゃあ一緒に買いに行く? 先輩として奢ってあげよう」

「やった、あざます!」

「はいはい。じゃあ行こうか」

 そうして二人立ち上がった途端、先輩に腕を抱かれる。

 手を繋ぐ以上の深い繋がり──漫画やアニメで見たことはあるが、現実になるとは思っていなかった。しかしいざ胸を押し付けられても自然と興奮も滾りもない。

「欲しいものもう一つありました」

「ん?」

「こうして感じる先輩の体温です」

「じゃあしばらくこうしててあげる」

「ありがとうございます」

 興奮や滾りよりも求めているもの。

 それはここに先輩が確かに居るという実感。

 どうやら僕はそれだけを欲していたらしい──いざその時が来たとしても、ここに確かに先輩がいたということを忘れないために。


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