しとしとと雨が降り出した。
真夏の熱気を冷ます恵みのものではなく、ただ湿気を増幅させるだけの不快感満ちた地獄の雨だ。傘も必要ない勢いではあるが、それでも夜道を歩けば後悔するくらいにはシャツもハーフパンツも濡れてしまう。
むわっと立ち込める不快な湿度から逃げるように早足でバッティングセンターへ向かい、自動ドアをくぐると、
「アンタ、ちょいといいかい」
濡れた身体を一気に冷やす冷風と受付窓口から顔を出した店長へ迎えられる。何か言いたげな顔で手招きをされるのだから、なにを言われるのだろうか。
首を傾げつつも──何となく事情を察しているのだろうと踏んで歩みを寄せる。
「こんばんは」
「あぁ、どうも。アンタ、どうだい」
「ど、どうって言うと……?」
「あの娘とだよ。少し前と比べると……なんて言うんだい。随分見違えたというか、向き合って見えるもんだからね」
「まぁ……そうですね。そう見えてるってことは先輩をちゃんと見れてるのかなって思いますけど」
「そうかい。アンタらの話はちらほら聞こえるけど……」
はぁ。
溜息を一つ。
言葉を選んでいるのかどうなのか。煙草へ火をつけて数秒、紫煙を吐き出してようやく次ぐ言葉がやってくる。
「アンタが折れたらダメだよ」
「わかってます。一番辛いのは先輩ですから」
「ネガティブな感情。不安や恐怖ってのは簡単に人に伝染するもんさ。それで心を病む人間だっている。アンタはそうなったらダメだよ」
念入りに極太の釘を刺される。
先輩からもいつも通りでいてほしいと言われているし、僕もそう強く決意した──しかしいざ、第三者から言われると背筋が伸びる思いだ。
決意が覚悟へ変わる様な。
確固たるものへと変わっていくのを感じてしまう。
「いいね、アンタ次第だよ」
「わかってます」
力強く頷く。
自然と拳を握る手も硬いものになっていた。
「遅かったね」
エアコンの風邪にすっかり汗も引いたころ。
店長との話を終えていつものベンチへ腰を下ろすと、すっかり待ちぼうけだったのだろう。両ももへ手をついて退屈そうに欠伸を噛みしめる先輩がこちらへ向く。
「店長となに話してたの?」
「大したことじゃないですよ」
「教えてくれないと」
「いや、本当に大したことないので別にいいですけど……」
「じゃあどうぞ」
「えっと……じゃあ」
咳ばらいを一つ。
「先輩との話が聞こえてたみたいで……いつも通りでいろって言われただけですよ」
別に肩肘張る話題でもなし。
僕自身も自覚していたことであり、それを再認識しただけのこと──変わったのは僕の決意が覚悟へ変わっただけ。先輩へ対する接し方はなにも変わらないだろう。
それを先輩も理解しているのか、「そっか」と一言相槌を打つだけ。
「先輩?」
「ん?」
「いや……濡れちゃいますよ」
なにか話題が生まれる代わりに、先輩の頭が僕の肩へ寄っていた。汗は引いたがまだシャツは雨に濡れたまま。
「別にいいよ」
「そ、そうですか?」
「温めてあげてるの。寒いでしょ?」
上目遣いで僕を見つめ、もぞもぞと自然に手が繋がる。
雨に濡れるよりも冷たいその手を握り返すと、甘えるように肩へ頬を寄せる。どこかむず痒いが愛おしい、かけがえのない時間。
あとどれくらい過ごせるかわからない幸せな時間。
そう考えると自然と目頭が熱くなり、誤魔化すように正面へ広がるバッティングゾーンを見つめる。
「先輩は冷たくないんですか? 全然濡れてるのに」
「タオルとかないから仕方ないよ。それとも彼女の温もりはいらない?」
「……丁度今欲しかったやつです」
「じゃあ貰っときな」
今のうちにさ……。
その終わりを予感させる言葉がますます僕の胸の内をざわつかせる。
しかしここで泣くわけにはいかない──こんなことで泣いてはダメなんだ。
いつも通りでいなくてはならない、それがきっと隣にいる僕の役目なのだから。
「雨、強くなってますね」
「夏休み中だもん。帰りが遅くなっても、ねっ」
「まぁそうなんですけど……」
次第に店内BGMが曖昧になり、きっと傘があっても濡れてしまう強さだろう。もう少しここに居てもいい──帰らなくていい、雨がそう告げてくれてるみたいだ。
ただ会話と言う会話はない。
肩へ寄り添って、手を繋ぎ、時折目が合う。
気まずさを感じることのない穏やかな時間だ。
「ねぇ」
それが果たしてどれくらい続いただろうか。
繋がった手を一際強く握られた。まるでこっちを向いてよと言いたげに。だから油断したら泣いてしまいそうな目を強く綴じ、数秒の間を置いて先輩を見つめる。
眠いのか、はたまたこの時間に溶けているのか。
細くなった瞳と交差する。
「わたしが居なくなる前に……あとどれくらいなにかあげられるかな」
笑顔はない。
水溜まりに足を沈めたような静かな声が雨音の隙間で揺蕩う。
「わたしが居なくなる前に全部あげたいな。わたしはキミになにが残せるのかな」
「今も体温貰ってますよ。一緒に居る時間も」
「それだけじゃなくてさ……キミの中で永遠になるのものを残したいんだ」
「思い出がありますよ」
「ううん。それだけじゃなくて……特別なもの」
甘くか細い声がすぐ耳元をくすぐる。
ドキドキしているのは先輩が近くにいるからか、その声があまりにも愛おしいからなのか──それとも僕自身なにかを期待してしまっているのか。
わからない。
ただ身体が熱くて、繋いだ手が湿っている。
「キミが一生忘れないもの……なにがあるかなってずっと考えてたの」
「そ、そうですか」
「うん。それでようやく思いついたんだよね」
生暖かい吐息が首筋を舐める。
先輩の状況を──今この時間がどんな意味を秘めているのか。全て理解しているつもりなのに、男心をくすぐり、煩悩を煽るその声が脳を揺さぶる。
なにを言おうとしているのかはもうわかっている。
「初めて……とか」
「せ、先輩それは……」
「わたしの初めてをキミに捧げたら……一生残るかな」
「初めてって……」
ごくり。
期待してしまう。
緊張と興奮で口内がカラカラに干上がっていく。
求めてしまってもいいのだろうか──先輩の事を。その全てを。
「わ、忘れないと思いますけど……で、でも……」
しかしその一線を踏み越える勇気を僕は持ち合わせていないらしい。
素直に頷くことも、拒むこともできない。
「ストレートに言うと処女なんだけど。キミも男の子だから興味あるでしょ、そういうこと」
「そ、そりゃ……ありますけど」
「わたしも興味あるんだ。繋がるってどんな感覚なのかなって」
だから……。
とろけそうな甘い声が鼓膜へ咲く。
「わたしの初めて、貰ってくれる?」
そして縋る様な眼差しが向き、ドキッと心臓の鼓動が跳ね上がる。
それでも──。
「キミに忘れてほしくないの」
「きっと忘れないと思います……。それでも」
「それでも?」
「そんな理由ならいらないです」
欲望、煩悩がせめぎ合う中で自分自身と見つめ合った末に浮かんできた思いはそれだった。絞り出すような一言に先輩は眉を寄せて苦笑する。
「重かった?」
「幸せですけど……受け取ったらそのまま先輩が死んじゃいそうで」
「大袈裟だなぁ。そんなことないのに」
「そんな気がするだけと言うか……急いですることでもないなって」
「まぁ確かに幸せすぎて死んじゃってもおかしくないかぁ」
あははは……。
困り眉のまま力なく笑う。
そして念押しするようにその目が僕を見つめ直した。
「でもいいの? 彼女と初めて。嬉しくない?」
「そりゃ嬉しいですよ」
「そっか。それだけ知れればまぁいいかな……」
はぁ。
その溜息へどんな想いが込められているのかわからない。
しかし瞬きした頃には眉を寄せて困っていた先輩の顔は降りしきる雨を晴らす様に穏やかな微笑みを結んでいた。
「なんか愛されてるなぁ……」
「そりゃそうですよ。別に初めてをもらわなくても先輩を忘れる事なんてできないんですから」
「確かに。じゃあ今はいいかな」
繋いだ手を強く握り返される。
「でも欲しくなったらいつでも言って」
「言いにくいですね……」
「そう遠慮しないで」
ふふ。
そして先輩は楽しげに笑う。
まだまだ雨は止みそうになかった。