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第72話『8月9日 ホームラン』

 果たして誰が最初に言いだしたのか。

 夏と言えば高校野球、甲子園と連想する人もきっと少なくないだろう。野球なんてほとんどした経験もなければ、見ることもない僕でも知っている常識だ。

 興味があろうがなかろうが、いつの間にかインプットしてあった常識。それに習ってか、

「ホームランが打ちたい!」

 いつものベンチでお菓子を摘まんでいた先輩が唐突に堅く拳を握って立ち上がったのだ。その目は冗談ではなく本気の輝きを放っていた。

 しかしどうして突然……。

 なにかきっかけがあるはずだが、今日も先輩は冬用セーラー服に黒タイツとクソ暑い夏なんてお構いなしの格好。つまりはいつも通りで野球にハマりそうな要素なんて見当たらない。

 だが先輩の事だ。

 理由なんかなく、思いついた衝動で突っ走るのが基本。

「急にどうしたんです?」

「今日のお昼ぐらいになんとなく高校野球見てたんだよね」

「やってみたくなったと」

「まぁざっくり言うとね」

 やはりだ。

 影響を受けて、その衝動で突っ走ろうとしている。

「でも素人にホームランなんて打てるんです?」

「だからだよ、挑戦することに意味があるんだからさ!」

「まぁそうだと思いますけど……」

 身体は大丈夫ですか?

 相変わらず心配になりそうな白い──雪のような肌をしており、身体の線も細い。活発に見えて残り僅かな寿命を燃やしている先輩を心配しそうになる。

 咄嗟に止めようと伸びた腕だったが、

「だいじょーぶ!」

 振り向いてVサインを見せる先輩の顔は心配するのが馬鹿馬鹿しくなるほどに澄んだ笑顔をしていた。途端に腕が引っ込み、どうしたらいいかわからない顔で苦笑する。

「気を付けてくださいね」

 結局身体は平気ですか? 何て質問は最後の最後まで言うことができなかった。

 ネットを超えてバッターボックスに立つ背中を見つめる。

 一球、二球と飛んでくるボールを簡単にバットへ当てるが快音は中々聞こえてこない。内野フライと言ったところだろう。

 無我夢中、我武者羅、一心不乱。

 さて、どんな言葉が今の先輩にあてはまるだろうか──スイングの一つ一つに魂を込めるような力強さが背中から感じ取れる。

 暑いだろう。

 汗がにじむその顔が見つめるのはバッティングマシーンのみ。途中でおちゃらけて僕の方を向いて笑ったりなんかしない。

 全身全霊。

 いや──違う。

「一生懸命なんだ……」

 こみ上げてきたその言葉を口にすると思った以上にすんなり馴染んでくれた。

 どうしてここまで一生懸命になれるのか──理由は明白だ。先輩は今まさに自分の命を燃やしてこの時間を過ごしている。

 終わりがわかっている中で、何とかその日々に彩りを与えようとしているんだ。

 きっとバイクに乗り始めたり、雨に打たれてみたり、後先考えずに思い付きで動いたり。それはきっと終わろうとしている日々を全力で生きているから。

 僕と付き合うことを決めたのだってもしかしたら……。

「ふぅ……ダメだ、全然無理!」

「えっ!?」

「見てなかった? ホームラン無理だって」

「あ、そ、そうですか……」

「お、落ち込むこと!?」

「い、いえ……」

 つい考えにのめり込んでしまっていたらしい。

 先輩の声へ我に返ることはできたが、出てきたのは空返事のみ。眉を寄せて困惑する先輩へこちらも苦笑で場を誤魔化す他ない。

「なんか見られてるなぁ~って視線は感じてたよ」

「そ、そうですか」

「キミ的にどう?」

「どうって言いますと?」

「ホームラン。打てると思う?」 

 結露が滴るペットボトルで両手の平を冷やしながら先輩が首を傾げる。

 実際ホームランの難易度はどれくらいなのか──僕はバットに当てるのが精一杯だったが、先輩の先ほどの打席は常に金属音が聞こえていたようにすら思える。

 僕よりは随分期待できるのが実情だろう。

「高校野球の影響受けたのはわかりましたけど、どうしてホームランにこだわるんです? 高校野球ってどっちかと言うと派手なプレイが少ないイメージですけど」

「あぁー。ここってホームラン打つとぬいぐるみ貰えるんだよね」

「それ目当てと……」

「そそ。店長も売り物じゃないから欲しいならホームラン打てって言ってたし」

「あぁ……」

「野球熱も上がってるし今が挑戦するときかなって」

 ふふ。

 ハンカチで額に汗をぬぐった先輩が再び腰を上げる。

 向かう先は言うまでもなくネットの向こう側で確かな熱を滞留させる勝負の場、バッターボックスだ。ネットをくぐる間際、先輩がこちらを向く。

「あと甲子園の時期だしわたしも夏に参加したいんだよ」

 先輩にとって最後の夏。

 高校球児と同じように──これが終わりの年なんだ。

「先輩、応援してますよ」

「おう。見ててよ、一発大きいの打ってくるからさ」

 得意げな顔でピースが向けられる。


 さて、そうして先輩の二打席目が始まった。

 今度は余計な思考に陥らないように気を付けたい。その一環として、ベンチから腰を上げてネットを前に先輩をジッと見つめることにした。

「近くで見られると……なんか照れるかもッッ!」

 病に侵されているとは思えない力強いスイングに白球が夜空へ吸い込まれんと打ち上がる。しかし視線の先、水平線よりも高い位置で掲げられているホームランプレートへは程遠い。

 途中で力なく落ちたかと思えば、再び白球が打ち上がる。

 一球、また一球──真剣な面持ちでバットを振り続ける先輩の姿を焼きつけたくて夢中で見つめ続ける。徐々に飛距離が伸び始めているが、それでも。それでもまだホームランには程遠い。

 そして。

「あとちょっとなんだけどなぁ~!」

 先輩のバットは初めて空を切った。

 スイングの勢いで身体がくるっと一回転。そのままバッターボックス内で尻もちをついてしまう。

「だ、大丈夫ですか!?」

 慌ててネットを避けて侵入しようとするが、目線だけで制されてしまう。

「ボールが来るから危ないって。それに……」

 乱れた息を繋ごうと呼吸を繰り返しながら、バッドを支えに起き上がる。その間にボールはさて何球キャッチャーネットへ吸い込まれたか。

 そんなのお構いなしに深呼吸を何度か繰り返した先輩がゆったりバッドを構える。

「さて……そろそろホームラン打っちゃおうかな!」

 自信に満ちた猫のような眼差しが笑っている。

 汗に額を濡らし、土ほこりでスカートを汚し、海風に長い髪を棚引かせ。ただただボールを待ち続け。

「フンッッッ!」

 今日一番力強いと共に快音が鳴り響いた。

 見る見るうちに深い夜空へ消えていく白球を僕は生涯忘れることはないのだろう──見てとばかりに振り向く先輩へ笑いながら、耳の奥へ残る金属音を。見えなくなった白球を追いかけるのだった。

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