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第73話『8月10日 先輩と食べる雑飯』

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 それは家を出る一時間ほど前の事だった。

 父さんと一緒に無言の気まずい夕飯を済ませた頃にスマホがチャットを受信した。相手は先輩からであり、


『お腹空いたー」


 届いたものは絵文字などの飾り気が一つとして存在しないシンプルな一文だった。まだ夕飯食べてないんですか、と返信すると間もなく返ってくる。


『早めの夕飯だったからなんだよねぇ~。お腹空いたなぁ~』


 今度はスタンプ付きの愛らしい内容。

 そしてわざとらしい空腹アピール──これはもう作って来いと言う事なのだろう。幸いなことに食事を済ませた途端、父親は風呂へ行ってしまった。上がったとしても寝室に一直線だ。今日はもう顔を合わせることもないだろう。

 そう踏んでキッチンへ足を運び、冷蔵庫を開くのだった。


   2


 そうして突然の空腹アピールによって夜食を作ってバッティングセンターへ到着したのは一時間と少し経過してから。

 肩から下げている生地が薄いトートバッグ越しにひんやりと保冷剤が感じられて陽が沈んでも下がることのない気温が幾ばくかまともに感じられた。

 そして──。

「あっ、ご飯来た!」

 開口一番、僕を見るなり「待ってましたと!」とニコニコ笑顔で迎えられる。

「ご飯作ってきてないかもしれませんよ」

「キミはそんなことしないって信じてるよ、カバン持って来てるし」

「こ、これは……あれですよ。あれ」

「あれ?」

「えっと……」

 先輩の隣へ腰を下ろしてバッグの中身を漁る。

 そうしてまず一つ目のタッパーを取り出す。保冷剤のおかげでキンキンに冷えており、触ってるだけで気持ちいい。

「やっぱり作ってきてるんじゃ~ん。さすが、わたしの彼氏!」

「男飯ですからね、期待されるとちょっと……見た目とか酷いですよ」

「平気、平気。だって背徳の味、教えてくれるんでしょ?」

 タッパーを受け取りつつ、ご機嫌そうな笑顔を浮かべる。

 それだけで作ってきてよかったと思えるのだが──本番はこれからだ。

「なに作ってきたの?」

「これは普通の白米ですね」

「ご飯だけ食べるの?」

「一旦これをレンジでチンしてきてください」

「う、うん? いいけど……」

 小首を傾げたのも束の間、タッパーを手に立ち上がるころには好奇心旺盛な眼差しへと変わっていた。とたとたと受付へ小走りで向かっていくのを聞きながら、バッグから大事な材料を二つ取り出す。

 それから待つこと数分。

「これでいいの?」

 セーラー服の袖をミトン代わりにタッパーを掴んだ先輩が戻ってきた。

「中見たけど本当にご飯だけなんだね」

「まぁ夜食なんで。特に僕みたいな引きこもりは好き放題冷蔵庫の中身を使うわけにはいかないんですよ。なので材料は必要最低限です」

「それでここからどうするの?」

「簡単ですよ、材料はこれ二つです」

 準備していたものは二つ、バターと醤油だ。

 一切れずつカットされている利便性抜群のバターをご飯の中央へ落とし、醤油をぐるっと回しかけるだけ。

 手抜き飯──と言うか、料理と呼べない男飯。

 バター醤油ご飯だ。

「バターが溶けるまで混ぜたら完成です」

「へぇー。組み合わせ的に絶対おいしいよね」

 割りばしを差し出すと、切るようにタッパーのご飯を掻き混ぜる。次第に温められたご飯の熱に溶けたバターの香りがふわっと広がり、香ばしい醤油と合わさって食欲を刺激するものへと変わっていく。

 その頃には腹ペコ先輩の顔も期待に変わっていた。

「じゃあ……頂きます」

「ど、どうぞ……。多分想像通りの味だと思いますけど」

「すっごいいい匂い。お腹空かせてよかった~」

 そうしてバター醤油ご飯を一口。

 確かめるような小さな一口ではあったが──次の瞬間、先輩の目が歓喜に見開かれる。

「お、美味しい!」

「よ、よかったです。まさかそんな大喜びされると思いませんでしたけど」

「この時間に食べるからなぁ。このカロリーが沁みるよ」

「罪悪感って調味料ですよね」

「わかるわかる~」

 ふふ。

 楽し気に箸を進めるが、今回持ってきたのは一食分にも満たない量。あっという間に間食してしまい、名残惜しそうにタッパーを見つめていた。

「夜食だからがっつりってわけにはいかないけど、もう少し欲しいかも」

「ありますよ」

「ほんと!?」

「先輩がどれくらい食べるかわからなかったので少なめにいくつか持ってきたんですよ」

 そしてトートバッグから二つ目のタッパーを取り出す。

「今度はこれをどうぞ」

「これは?」

「うどんですね。茹でてきたので後は調味料さえあれば食べられます」

「お、おぉ……暑いしおうどん丁度いいよね」

「まぁあっさりした夜食なんて邪道なのでそうなりませんけど」

 続いて明太マヨネーズのチューブを取り出す。

「材料はこれだけ?」

「えぇ。ここに海苔とか胡麻があるといいんですけど、家に無かったもんで」

「どれくらいかけるの?」

「好きなだけ」

「す、好きなだけ……!?」

 マヨボトルを手にキラキラ目を輝かせる姿が面白くてつい笑ってしまう。

「こんなハイカロリーなものを好きなだけ!?」

「それが男の夜食ってやつです」

「そ、そっか……そうなんだ。凄い悪いことしてる気分」

「まぁ誰も見てませんから」

「そうだよね! いざ!」

 タッパーへ明太マヨネーズをおそるおそる絞り始める。

 明太子とマヨネーズが合わさった濃厚な匂いに見ているこちらまでお腹が空いてしまう。しかし好き放題懸けるという禁断の行為が初めてなのか、おそるおそるチューブを絞っている。

 そうしてうどんが鮮やかな明太子色へ染まった頃。

「ふぅ……や、やってやった!」

 得意げな顔で先輩が僕へボトルを差し出した。

「大袈裟ですね」

「マヨネーズかけ放題なんて家では無理だからさぁ。あとはこれを混ぜればいいんだよね」

「ですです」

「これ絶対おいしいやつ……!」

 箸でめちゃくちゃにうどんを混ぜて一口。

 男と違い控えめに麺を啜った途端、バター醤油ご飯以上の歓喜に満ちた笑顔が降ってくる。

「美味しい……これこそ深夜に食べたいやつだよ」

「わかります。身体に悪いのに求めてる感じ……僕はこれをキッチンで立ったまま食べてますよ」

「立ったままなんて悪いごはん……!」

「多分お兄さんもやってるんじゃないですかね」

「どうかな? たまにカップ麺食べてるのは見るけど」

 一口、また一口とうどんを啜る。

 もう夢中で止まらないと言った具合だ。

 とてもつい最近まで食欲が落ちていたとは思えない──病気とは思わせない食べっぷりに見ているこちらまで嬉しくなってしまう。

 そしてあっと言う間に完食するするのだから、本当にお腹が空いていたのだろう。

「美味しかったぁ~」

 ふぅ。

 満腹なのかベンチへ深く寄り掛かってぼうっと天井を見つめる。

「今日はこれだけですけど、第二弾も期待しててください」

「楽しみ~! でも今日は満腹だよ」

「なによりです」

 男飯がここまでハマると思っていなかった──けれど、もし先輩と一緒に暮らす日があったならば。何気ない深夜にこんな風に食事することもあったんだよなと夢想して、少し胸が痛くなったのは言わないでおこう。

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