父さんから自転車を譲り受けてからと言うもの、夜になっても残る熱気を少しは無視することができるようになった。なにより家からバッティングセンターまでの所要時間が半分以下になったのだ。
今の僕と先輩の間で何より大事なのは『時間』である。
今まで引きこもってドブに捨ててきた時間が如何に大事なものだったのか気付かされる毎日であるが──それでも過ぎ去った時間が巻き戻ることはない。そして取り返すこともできない。
しかしそれでも無為に過ごしていた時間を挽回するようにペダルを回すのだ。
バッティングセンターの駐輪場へ自転車を止めて自動ドアをくぐる。
「お待たせしました」
「あぁー、うん」
ベンチまでの通りを一気に行き、先輩へ声をかけるも返ってきたのは空返事。ベンチへ深く腰を下ろして、その目は小さなスマホの画面をジッと見つめていた。
たまにある漫画ブームなのか。
隣へ座って覗いてみると、予想通り電子書籍に夢中の様子。しかし画面から先輩の顔へ目をやると──夢中と呼ぶには退屈そうな表情だ。一度そう思ってしまうと、捲るページも流しているようにしか見えない。
「面白いですか?」
「うーん……どうかなぁ」
「どうかなぁって」
「恋愛漫画なんだけどさ」
ふぅ。
スマホの画面をオフに、先輩が溜息を一つ。
そして漫画を読んでいた表情とは打って変わって、普段よく見るゆったりした微笑みへと変わる。
「主人公が好きだった女の子が不治の病で死んじゃうから、それまでの間に思い出を作ろうって漫画なの」
「へ、へぇ……奇遇ですね、今の僕と同じですよ」
「そうなんだよね~。だから面白さって言うよりも……キミはどうなのかなって気持ちで読んでたの」
「そうですか……それでなにかわかりました?」
「そうだねぇ……。漫画の中で主人公はその人が死んだらもう次、誰も好きになれないとか恋人を作らないって言ってたの。キミはどう?」
「僕ですか……僕はそうですね」
そこまで先の事は考えていなかったのが本音だ。
だから答えに困ってしまうのだが──悩む僕の姿を見る先輩は何故か嬉しそうに目を細めていた。
「な、なんです?」
「んー、きっとキミは先のこと考えてないんだろうなぁって思ったら嬉しくて」
「お見通しでしたか。でもなんで嬉しいんです?」
「この漫画の主人公は誰も好きにならないって断言しててさ。何と言うか……もう先の事に少しでも意識言ってるのが寂しいなって」
うまく言葉にできないんだけどね。
あはは、眉を寄せて苦笑する。
しかし次の瞬間には俯いてしまい、重なっていた目線が離れてしまう。
「キミのことを縛りたいわけじゃないんだよ」
「わかってます。でも……もしかしたら一生先輩を思い続けるかもしれませんね。逆に吹っ切れる可能性もありますし」
「先の事はわからないもんね」
「忘れることはありませんけどね」
「そっか」
「先輩はどうです? 一生思われたいですか? 先に進んで欲しいですか?」
意地悪な質問だったかもしれない。
ただ──先輩の心の奥底にある本音、思いを聞きたくなってしまった。俯く先輩はしばらく考えたかと思えば、ようやく僕と目を合わせる。
「キミも難しい質問するねぇ」
「すみません」
「ううん、わたしも意地悪な質問しちゃったし。でもキミからなんて」
ふふ。
楽し気に笑いながら、「そうだなぁ……」と天井を見つめる。
「忘れてほしくはないけど……囚われてほしくはないかなぁ。キミが幸せなのが一番だから、わたしのせいで不幸になってほしくないもん」
「不幸になりますかね」
「なるんじゃないかなぁ。わたしがきっかけでキミが前に進めないのは……きっと辛いと思うから」
そしてやはり笑顔は長続きしない。
眉を寄せて苦笑する。
「だからたまに思い出すくらいでちょうどいいんだよ。昔こんな娘と付き合ってたなぁって」
「そう簡単に忘れられませんよ、毎日思い出すと思います」
「それは幸せかも。でもやっぱり……それは良くないことかもしれないね」
「そうですかね……」
例え隣に先輩が居なくなったとしても──僕の中で忘れさえしなければ先輩は死なない。綺麗ごとかもしれないけど、それが今僕が思っている全てだ。
「先輩と付き合ってから……引きこもりだった僕が毎日外に出るようになって。楽しくて……。辛い事とか悲しい事もありますけど、先輩に教えてもらった感情が僕を外に出したんですから」
そして感謝してる。
あの日たまたま気まぐれに外へ出たからこそ、今の僕らの関係がある。一日早くても遅くても、一時間早くても遅くてもこうはならなかった。
あの日、あの時間が僕の人生を変えたんだ。
「だから忘れませんよ」
「そっか。なんかそう言われると嬉しいから……こうしよっか」
もぞもぞと僕の手をそっと握られ、肩へ頭が寄る。
「この先……わたしが隣に居なくなって。キミにも彼女ができるとするじゃない?」
「今は考えたくないですけど……」
「いいから聞いて」
強く手を握られ、渋々応じる他ない。
「なんですか?」
「難しい事じゃないからさ。もし彼女ができたらわたしに教えてほしいんだよね、ずっと聞いてるからさ」
「元カノに今カノの話をするんですか」
「そうだよ」
「それでさ……何年先かわからないけど。またキミと会えた時にわたしとその娘、どっちがいいか聞かせてほしいんだよね」
「なるほど……」
甘えるように身を寄せながらも、イタズラな微笑みにこちらまで笑ってしまう。そしてこれから先に背中を押そうとしてくれているのが寂しい。
二律背反の想いに胸が痛い──しかしきっと一番辛いのは先輩だ。
「先輩に話すなら……ちゃんとした人じゃないとダメですね」
「そうだよ、適当な人にキミは渡さないから」
「プレッシャーすごいですね」
「頑張って、わたしの彼氏なんだから」
「そうですね。でも先輩以上の人いますかね」
「どうだろねぇ~」
得意げに笑いながら僕の手を強く握るのだった。