そう言えば今年の夏はセミの鳴き声をほとんど聞いた記憶がない。思い返すと去年も一昨年も──ここ数年は夏の風物詩、暑さを倍増させるあの声とはご無沙汰かもしれない。
それは僕が引きこもりであり、過去を振り返ってみてもインドア人間だったからそう感じるのか。はたまた大人になるに連れて気にならなくなっていくのか。もしくは本当にセミが活動していないのか。地域的な問題なのか。
ポケットのスマホを使えば簡単に調べることはできるが、生憎今は自転車を運転中。近くに警察の姿はないが、事故るわけにもいかない。
それに何より先輩と話す話題ができた。
それが嬉しくて立ち漕ぎで海沿いの道を一気に走り抜けた。
そうして駐輪場へ自転車を止めて早足で自動ドアを抜けていつものベンチへ。
今日も夜空を閉じ込めたような長い髪の少女──先輩が一足先に僕を待っていた。
「どうも」
「ん、待ってたよ」
隣へ腰を下ろすと、先輩はなにやら熱心にスマホ画面を見つめていた。
また昨日みたいに漫画を読んでいるのかどうか、肩を寄せて覗き込んでみるとふと目線が重なった。
「人のスマホ覗くなんてえっちだなぁ」
「そ、そうですか!?」
「気になる?」
「まぁそりゃ……」
「ヤキモチかな?」
ふふ。
僕を見て楽しそうに目を細めたかと思えば、スマホの電源をオフにする。背凭れへ寄り掛かり直し、改めて僕へ向いた。
真っ直ぐ僕を見つめる先輩が何を切り出すのか楽しみに待っていると、
「蝉って一週間くらいの命らしいけど、地中では何年も生きてるんだってね」
「えっ……あ、あぁ。そうですね」
やってきたのはまさかのセミ。
つい噴き出しながらの相槌になってしまう。しかし道中で同じことを考えているのがおかしくて笑いが止まらない。
もう完全に変なスイッチが入ってしまったらしい。
笑いが止まらずにいる一方で先輩が戸惑いに一歩距離を置いたような顔をしている。
「そ、そんなに面白い事言った!?」
「違うんです。僕も今日来る途中で蝉のこと考えてて」
「へぇー。キミもセミの寿命気にしてたの?」
「いえ……最近セミの鳴き声聞かないなって」
「あぁ……言われてみればそうだね」
目を閉じて耳を澄ませているのか。
数秒の沈黙の後、「確かに」と頷く。
「暑いと活動できないとかなのかな……」
「なんですかね……」
「人間と一緒だ」
「でもそうなると……地上には出てくるんですかね?」
「うーん……どうなのかな?」
小首を傾げるが、どうやら話の本質はそこではないらしい。
僕から目線を逃がしたかと思えば、ネットの向こう側へ広がるバッティングゾーン──豊かな星空を見つめていた。
「最後の一週間、蝉はどんな思いで過ごすのかなって」
「蝉の気持ちですか……」
「最後の一週間のための地中の日々じゃない?」
「まぁそうですけど……」
蝉に思いを馳せることになるとは……。
先輩を真似て同じ風に夜空を見たりしてみる──再び訪れる無言の時間。
きっと土の中は今この空間のように音なんてなく、この部屋よりも冷たくて暗い。そんな場所で果たして何年過ごすのか。
光に溢れた世界へ踏み出すために、なにを思っていたのか。
考えてみても答えは出てこない──それどころか、思考は次第に僕自身の状況と重ねるように働き始めていた。僕も土の中へ籠っているようなものだ。
しかしセミと同じではない。
僕は外に居たのにわざわざ引きこもった、そして先輩と出会った。
セミの鳴き声は求愛行動だと聞いたことがある。
最後の一週間、子孫を残すための時間と言う事なのだろう──だとしたら、僕が過ごしている今この時間は何だ。
いずれ再び外に出る日、その時僕は何をする。
答えのない問答に自然と溜息が落ちる。
「もしかしたら充電期間なのかな……外に出てから満喫するための」
「あぁ……面白いですね、それ」
「でも……わたしは嫌かなぁ。自分で言っといてあれだけど」
「ほんとそうですね」
ふふ。
顔を見合わせてどちらかともなく笑ってしまう。
「でも……だから精一杯生きれるのかもしれませんね。終わりが決まってるから……」
「なのかなぁ」
「まぁ人間からしたらうるさいし暑苦しいですけど……」
「急に現実に戻さないの」
「でも年々暑くなるし勘弁してほしいですよ」
「セミ関係なくなっちゃったね」
「ですね」
はぁ。
二人同じタイミングで溜息が落ちる。
「僕が小学生の頃はまだ気温もマシだったと思います」
「わかる」
「最近暑すぎて……もう夏って言っていいのか怪しいよ」
「正直……僕は夏ってあまり好きじゃなかったんです」
「わたしも。周りが盛り上がってる中、置いてかれてる気がしてたよ」
でもね……。
先輩と肩が触れる。
すぐ傍で見つめる先輩の顔は夏であることを忘れてしまいそうなほど涼し気な──冬の真っ只中にいると思わせる雪のような肌。細くなった瞳で見つめられる。
途端に夏の暑さが過ぎ去ったような気にすらなってしまう。
「今年から夏が少し好きになったんだよね」
そして先輩に手を取られる。
大事に大事に、壊れそうなガラス細工を扱うように包み込まれる。僕の手にそこまでする価値はきっとない。ただ先輩の中でこんな僕の手に価値を見出してくれていると思うと少し救われた気になる。
「全部キミに会ったから、キミの彼女になったから知ったことなんだよ」
「大袈裟ですよ」
「この前……わたしに色んな感情を教えてもらえたって言ってたよね。キミもわたしに色んなことを教えてくれたんだよ」
「だといいんですけど」
「だから忘れない、夏が好きになったって事」
「僕もです」
「じゃあ今年の夏は最高の夏だね」
ふふ。
楽し気に目を細めながら包んだ手へそっと力を込める。
「キミも……いつか外に出られるからね」
それは姿が見えない蝉へ語り掛けるように──遠い未来で響く夏の音のように、僕の鼓膜をそっと刺激した。