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第81話『8月18日 変わった日々 変わる日々』

 これまでコンビニでつい買い込んでしまうとバッティングセンターまでの道のりは本当に苦痛で仕方がなかった。しかし自転車があれば話は別。

 カゴへ荷物を放り込みさえすれば、あとはペダルの赴くままに大した苦労もせず目的地へ辿り着くことができる。自転車があるだけでここまで変化を実感できると思わなかった。

 と言うわけでいつものように自動ドアをくぐり、先輩が待つベンチを覗いてみると──。

「つ、疲れてますね……」

「ん、あぁ……まぁね」

 やけに青白い顔で僕へ無理やり作った笑顔で僕を見上げる。

 昨日はスイカ割りをしてまだ元気に思えたのだが、一日でここまで変わるものなのか? これが先輩を苦しめている病気なのだろうか。

「コンビニでいろいろ買ってきたんですけど、食べます?」

「うーん……病院で点滴打ってきてお腹空いてないんだよねぇ」

「て、点滴!? だ、大丈夫なんです?」

「まぁね。定期検査のついでに……食欲落ちちゃってるからさ」

「夏バテ……じゃないですよね」

「だね~。病気のせいだね、多分。なんかキミと夜食食べたのが昔の話みたいだよ」

 不調を訴えるのはその見た目だけじゃない。

 その声からも明らかに体調が良くないのが伺えるし──そうなると、普段身に着けている冬用セーラー服もこの暑さでは考えられないが、寒さから逃げるための服装にすら見えてしまう。

 終わりが近い。

 生々しい現実はまるでささくれをむしり取るような痛みを与える。

 そんな今だから僕だけは普通でいよう、理解はしているが胸に来る。

「お腹空いたらいつでも夜食くらい作りますよ」

「ありがと。実際は夜食作ってもらったのも最近だけどさ、毎日会ってると何年も付き合ってる気持ちになるね」

「まだ三か月ですよ」

「三か月……三か月かぁ」

 噛みしめるように呟く。

 僕自身もまだそれだけの時間しか過ごしていないことに驚きながらも──ふと三か月前を遡る。学校にも行かず毎日ただ自分の部屋で時間を浪費するだけの毎日。

 あの日どうして外へ出ようと思ったのか。

 その理由を思い出すことはできない。

 そしてきっとその理由を明確に思い出したとしても、傍から見れば大したことがないかもしれない。

 ただあの日の選択は間違いなく僕の人生を変えたんだ。

「三か月記念、なにかする?」

「先輩は細かく記念日とか設定したい派ですか?」

「うーん、そうだねぇ。どちらかと言えば記念日にかこつけて楽しいことをしたい派かな」

 何て言いながら僕の肩へ寄り掛かって一息。

「最近なんか身体が痛いというか疲れやすくてさ。これ楽だわ」

「おばあちゃんですね」

「じゃあキミはおじいちゃんだよ」

「まぁそれでもいいですけど。最近よくそれされると思ったけどそう言う理由だったんですね」

「まぁそれも一部あるかな。あと、今のはわたしなりのプロポーズだったんだけどあっさり流すね」

「えっ、あぁ……すみません」

「いいんだけど」

 うん。

 それっきり静かになった先輩の方へちらりと目をやると頬がほんのり赤く染まっていた。照れ隠しか、目が合った途端に逸らされてしまう。

「先輩って意外と……いや、かなり乙女ですよね」

「うるさい、おじいちゃん」

「おばあちゃんは乙女……なるほど」

「ばか……」

「しかし今のがプロポーズとは。十代にして既婚者、父さんにいい報告ができます」

「それならわたしはもっと前にプロポーズされてるんだけどね」

「まぁそうなんですけど」

「いい冥途の土産になったよ」

 ふふ。

 赤い顔のまま仕返しするように笑うのだが──正しい反応がわからなくて言葉に詰まってしまう。

「……それでどうなんですか」

「なにが?」

「……体調」

 そうして辛うじて絞り出せたのは冗談とかけ離れた現実。

「そうだね……気になるよね」

「すみません」

「謝らなくていいよ、キミには心配かけてるのわかってるし……知る権利はあると思う。ううん、義務ですらあるんじゃないかなって」

 しかしその先に紡がれるであろう言葉は中々やってこない。

 僕の肩へ寄り掛かったまま、暗闇で何かを探す様な沈黙が僕らだけのバッティングセンターを支配する。

 なにを歌っているのかわからない店内BGMが。

 時折バッティングゾーンから吹き込む生温かい夏風が。

 隣で聞こえる先輩の息使いが──その全てが時間の流れを遅く感じさせる。

 そうして果たしてどれほどの時間を過ごしたのか。

 何度か交差していた目線が再び重なった途端──今にも崩れそうな笑顔でその唇が音を奏でる。

「ダメみたい」

 ただ一言。

 長い時間の果てに紡がれたその言葉の裏には、どれだけ音にならなかった思いが込められているのだろうか。それを想像するにはあまりに現実味のない状況が続いており、思い浮かべる事すらできない。

「どれくらいなんですか……」

「この夏は大丈夫だと思うって。ただ……どうなるかわからないんだよね」

「よ、余命とか……」

「わたしも聞いてない。聞いたら明確に終わりが見えちゃう気がして怖いんだよ。あと何回キミと会えるかなって楽しみが……あと何回しかキミと会えないって悲しさに変わるからさ」

「……まだ居なくならないでください」

「ごめん、それは答えられないや」

「いえ」

 だってそれがもう答えのようなものなのだから。

 そしてまたバッティングセンターへ沈黙が訪れる。

 優しくて惨い、終わりへ向けた静寂が──。

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