『あと何回キミと会えるかなって楽しみが……あと何回しかキミと会えないって悲しさに変わるからさ』
昨日からこの言葉が頭の中でずっと木霊している。
日増しに胸騒ぎのようななにかは激しさを増しており、どうにもできずに過ぎていく。唯一安堵する瞬間は先輩と一緒に過ごしている時間だけ──もし僕が居ない瞬間にこの時間が終わりを迎えたら。
その時がもう後ろに迫っている気がして、振り払うようにペダルに力を込める。
そうして熱気を裂いて夜をかけると──バッティングセンターの駐車場へ見慣れぬ白いセダンが止まっていた。丁度着いたところなのだろう、間もなくエンジン音が止んだ。
「誰だろう……」
この時間に、嫌この場所に車を見たのは初めてだ。
ぶつからないように脇を抜けて駐輪場へ自転車を止めると、間もなく後部座席のドアがスライド。ふらつきながら黒いセーラー服に身を包んだ少女が下りてきた。
店内から漏れ出る明りへ照らされた夜空のような長い髪を棚引かせ、青白い顔がこちらを向く。
そして力なく手を上げた。
「今日は同じタイミングだ」
先輩だ。
一歩一歩こちらへ近づくのだが、あまりにもおぼつか無い足取りに駆け寄って抱き止める。肩口へ寄った先輩の口元から生温かい零れ、首筋を掠める。
しかしドキッとなんかできない。
荒く、苦しそうな吐息。
「大丈夫……じゃないですよね」
「そんなことないよ。ちょっと車酔いしただけだから」
「そうは見えないんですけど」
背中をさすると、その薄い身体に驚かされる。
出会ってからどれだけ痩せたのだろうか──。
「大丈夫な分けねぇだろ」
そして慌てて運転席からスキンヘッドの大柄の男、先輩のお兄さんが下りてくる。呆れと心配が混ざった溜息を落とす。
「俺が下りるまで待ってろって言ったろ」
「ごめん、彼氏を見つけたら嬉しくなっちゃう彼女心が暴走してさ」
「うるさ。自分の身体のこと考えろ」
「ごめんなさい。でももう平気だから。ちょっと車酔いしたのは本当だし」
「そうですか?」
「んなわけねぇだろ……」
「本当にダメなときはちゃんとおにぃのこと呼ぶからさ」
「……そう言う約束だったもんな」
盛大な溜息が再び落ちる。
頭をめちゃくちゃに掻き混ぜ、何度か地面を蹴りつける。
お兄さんと先輩の間でどんな約束をしたのかはわからない──しかしここにも一人。僕と同じ、いやそれ以上の苦しみに喘いでいる人がいる。
そんな人を放って一緒の時間を過ごしてもいいのか。
ただ何も言えず先輩を抱き止めていると、細い腕が背中へ回った。
「そんな顔しないの」
「えっ」
「キミはいつも通りでいてよ。どんなわたしと一緒に居てもさ。そのためにここに来てるんだから」
「でも……」
「お願い」
耳元で不安定な呼吸を必死に繋ぎながら、か細い声で唱えられる。
これまで以上に体調が悪そうなその姿でどうして僕が励まされているのか。泣きそうだ。
「あ、あの……僕もちゃんと見てますので」
「……俺はここで待ってるから。さっさと行ってこい、時間は守れよ」
「ありがと、おにぃ」
さっさと行けとばかりに手を払うお兄さんへ見送られながら、先輩へ肩を貸して決して長くはない距離をゆっくり行く。
昨日の今日でここまで体調が崩れるとは思ってなかった。
それともこれまで僕に悟られないように必死に頑張っていたのか──気力はいつまでも続くものじゃない。なにがきっかけで途切れてしまうかわからない。
昨日と今日の狭間でその気力が限界を迎えてしまったのだろうか。
だとしたらこの時間は……。
「先輩、ゆっくりでいいですよ」
なにか声に出さないと思考の濁流に泣いてしまいそうだった。
そうしてお兄さんの視線を後ろに感じながら、店長の気遣いを遠く感じながらどうにかこうにかいつものベンチへ腰かける。
青白い肌に汗を浮かべて乱れた呼吸を繋ぐ先輩へ水を差し出す。
「大丈夫ですか? とりあえずこれ飲んでください」
「ありがと……キミにこんな風に介抱される日が来るなんてね」
「僕もです」
「でも今日は甘えちゃおうかな」
はい。
手渡したペットボトルが返ってくる。
「キャップ、硬いから外して」
「あぁ、了解です」
キャップを外して改めて手渡すと、ゆっくりペットボトルを傾ける。普段と違ってかなり慎重な一口を見守っていると、
「……!?」
途端に勢いよくせき込み、ペットボトルが足元へ転がった。
身体を丸め、なにか吐き出しそうな空咳を何度か繰り返し──真っ赤な何かが先輩の口から噴き出た。
藻掻くように見開いた両目、硬く僕の手を掴む腕、何か訴えようと戦慄きながら赤いものを吐き出し続けるその口。
世界から音が消えたような緊張と衝撃に思考が止まりそうだ。
「せ、先輩!?」
声を絞り出し、思考が止まらないよう努める。
背中を何度か摩ると、程なくして咳は止まった──しかし青白い顔は赤に汚れ、更に弱々しく映った。
「い、今……お兄さん呼んできますから!」
「へ、平気だから……落ち着いて。たまにあることだから」
「で、でも……」
「キミが落ち着いてくれないと……わたしも落ち着けないよ」
どうしてこんな状況で笑えるんだ。
無理やり作って、強引に顔へ張り付けて笑ってられるんだ。
「大丈夫……大丈夫だから。びっくりさせちゃったよね、もう落ち着いたからさ。そんな顔しないで」
冷たく、そして震える手が僕の頬へ触れる。
「もう無理してここに来なくていいんじゃないですか……? 病院に居ましょうよ、毎日会いに行きますから」
「嫌だよ、病院は嫌いだから」
「そんな事言っても……ここに来るせいで先輩の寿命が短くなるのは嫌ですよ」
「治らないのに病院にいる意味あるかな。治らないのにみんな優しくて一生懸命でさ。治らないわたしが悪いみたいに思っちゃううんだよ」
だから病院は嫌いなんだ。
次第にその声が小さくなっていく。
「でも病院に居た方が何かあった時に……」
「なにかあったらキミに会えないよ。もう病院は寂しいんだ、夜は特に。病気って知ってから夜が怖くて……でもキミとここで過ごして初めて少しだけ夜が怖くなくなったんだよ」
「でも……」
「いいの。怖くて長い夜を過ごすくらいなら……楽しくても短い夜で生きてたい。一人じゃないからさ」
「そんな事言われたら……無理やりにでも連れて行きたいのに無理じゃないですか」
それが寿命が迫った先輩の願いなら──。
ここでお兄さんを呼ばないのはきっと間違っている。無理やりにでも救急車を呼ぶべきなのも承知している。
頭でわかっているに行動に移せない。
「だからもう少しだけ二人でここに居させてよ」
「ずるいですよ、先輩は」
「そうだよ。わたしはズルい女で……キミを愛してる女なんだから。こういう形でしか示せない愛、受け取ってよ」
泣きそうになるのを必死にこらえ、僕の頬へ触れる先輩の手を包む。体温なのか、血液なのか──よくわからない温もりを感じながら、僕はただ先輩を見つめることしかできなかった。
それからしばらくが経過し、先輩はお兄さんに連れられて病院へ消えて行った。
入院すると決まったのは、間もなく夜が明けようとかと言う頃だった。