今日もこの時間がやってきた。
あれから先輩はお兄さんに連れられて入院したと報告を受けた──だから今日あの場所に先輩はいない。
しかしただ家でジッと過ごすにはあまりに落ち着かない。
居ないとわかっていても、その面影を求めて考えるより早く家を出ていた。気付けば自転車に跨っており、意識したころにはバッティングセンターの駐輪場に到着していた。
完全な無意識──いや、何も考えないようにしていたのかもしれない。
自動ドアをくぐると、カウンター窓口から店長が煙草をふかしていた。目が合った途端に溜息を零し、奥へ引っ込んでいく。
何か言いたげなのはその目から伝わってきたが、言わなくてもわかるだろと言いたげな態度に苦笑してしまう。無論、それで伝わらないほど僕も鈍感じゃない。
それでも僕の足はいつものベンチへ向かうのだが、
「えっ……」
瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がった。
居ないと思っていた──もうここに来れないんじゃないか、そんな覚悟すら固めていたのに。
「どうして……」
見間違えるはずがない。
今一番見たかった姿であり、同時に見たくもなかった。
やっぱり居なかったか、そう安心したかった。
「先輩、なんでいるんですか……」
問い掛けた背中がゆっくり振り返る。
やっぱりそうだ──綺麗な夜空を閉じ込めた長い髪が棚引き、病的に青白い顔が僕へ力なく笑いかける。昨日の今日でまた痩せたような気さえするその顔に嬉しさと悲しさが一気に押し寄せる。
それでもほんの少し嬉しさが勝ったから僕の足は前へ進み、その傍へ立つことができたのだろう。
そのまま病院を抜け出してきたのか。長いワンピースのようなゆったりした部屋着の上から黒いカーディガンを羽織っている。
「入院してたんじゃないんですか……?」
「まぁね」
「じゃあなんで……」
「抜け出してきちゃった」
「な、なんで……」
「キミに会いにだよ。言ったでしょ、病院は寂しくて嫌だって」
座りなよと促されてようやく隣へ座る。
しかしそれで一息つけることはなく、やはり感情の置き場がわからない。嬉しさと悲しさが混ざり合ったもの──それ以外にも色んな想いがあることだけは理解できた。先輩の隣で落ち着ける時間が胸をざわつかせる時間となり、落ち着かない。
「いいんですか、戻らなくて」
「うーん……ダメだと思うよ。怒られるだろうし」
「まぁそうですよね」
「今戻っても少し遅く戻ってもどうせ怒られることに変わりはないしさ。なら……キミといつも通り話したいなって。ダメかな?」
「……ダメですよ」
ダメに決まってる。
今すぐにお兄さんに連絡をしないといけないとわかっているのに──この時間を過ごしたいと思っている僕もダメだ。
「でも……。こんな状況でも先輩に会えて嬉しいとか一緒に居たいとか思う僕の方がダメですね」
「ダメダメ同士だね」
「……そんないいものじゃないと思いますよ」
「でもいいじゃん、今が楽しければさ」
そうして僕とは反対側のベンチへ置いていたコンビニ袋をガサゴソ漁り、大きいサイズのポテチと二人分のジュースを取り出す。
「薬飲んだり点滴したりで体調も昨日より全然いいし、もう今日はジュースとおやつで優勝しちゃお」
「病院脱走記念ですね」
「明日怒られるなら今くらい楽しい思いしないと」
「今頃病院は大騒ぎじゃないですかね……」
「じゃあこっちも負けられないね!」
ポテチの封を開け、景気よく一口食べてジュースを一口。
しかし次の瞬間には小さく溜息して、僕へ袋を向ける。
「キミも食べな」
体調は多少マシになったとしても、食欲までは戻らないのだろう。もう限界と言いたげな苦笑に胸が痛い。
「じゃ、じゃあ頂きます」
そうして先輩に見つめられながらコンソメ味のポテチを一口。
深夜の背徳感はない、そんなものを感じている余裕もない。正直味すらも曖昧だ。それでもいっぱい食べてほしそうな顔を無下にできず、次から次に手を伸ばす。
「キミが食べてるの見てるだけで満足してきたかも」
「そうですか?」
「うん。美味しい?」
「味なんてよくわからないですよ」
「そっか」
ジュースで喉を潤して一息。
まだ袋に半分以上に残るポテチへ手を伸ばす気力はもうない。そしてどんな言葉をかけるのが正解かもわからない。
深いまどろみのような沈黙が深まるに連れて次ぐ言葉がどんどん遠のいていく。
隣にいる安心感と──本当にここに居ていいのかと言う不安。そして本当なら病院なりお兄さんに連絡するべき状況を無視してのこの時間。
彼女である先輩を本当に大切にできているのだろうか。
きっとできていない──故の自己険悪に溜息だけが零れる。
「いっぱい考えてくれてるのはわかってるよ」
「すみません」
「謝らないで。これはわたしの我がままなんだから。でもわたしは謝らないよ、きっとこの時間がきっかけでわたしの寿命が縮んでも後悔しないから」
「僕は……」
少しでも長く先輩に生きてほしいです。
先輩がなによりわかっているからこそ、その先を言うことはできなかった。
「大丈夫だよ」
「先輩はどうしていつも僕を励ましてくれるんですか、自分が一番辛いのに」
「キミがいるから……わたしはまだ生きてるからだよ」
弱々しい手がそっと繋がる。
細くて冷たくて──嫌でも終わりを意識してしまう。
それが辛くて我慢していた雫が落ちた。
「ありがとね」
「いえ……」
今はそう返事をするのが精一杯だった。
それから程なくして血相変えたお兄さんが迎えに来たのは言うまでもなかった。