「あーあ。この時間がずっと続けばいいのに」
いつもと何も変わり映えのしないバッティングセンター。おやつをお共に穏やかな時間を過ごしていると、先輩の手が止まりふとそんなことを呟いた。
天井へ向く目は実際どのような景色に思いをはせているのか。
病的な青白い肌でジッと遠くを見つめており──そこに曇り空は伺えない。
なんでもない日常を噛みしめているのか、それなら嬉しい。
「どうしたんですか、急に」
「いやぁ……実はね」
ゴクリ。
妙な溜めに嫌な汗が背中へ滲むのだが──先輩は至って普段通りに眉を寄せる。
「大したことじゃないんだけどさ」
「それでも教えてくださいよ」
「ん、今日はグイグイくるなぁ~」
ん~?
訝る様に僕の瞳を覗くようにして数秒、なにか閃いた様にクスリと笑う。
「多分キミが想像しているようなことじゃないよ。ただママとパパに怒られただけ」
「あぁ……なんだ」
よ、よかった。
今の数秒だけで寿命が縮んだ気がしてならない。
「安心した?」
「そうですね……心臓に悪いです」
「大袈裟だなぁ。今日家を出るときにプチ喧嘩みたいなのしてさ、家に帰るの気まずいんだよねぇ~」
「先輩もケンカとかするんですね」
「するよー! 人間だもの」
「みつおみたいな事言いますね」
「人間だもの」
足をブラブラさせながら天井をぼうっと見つめ、お菓子を口に運ぶ。
そんな先輩を横目に、今度は僕の手がお菓子から遠のいた。
「どうかした?」
「いえ、ケンカできるだけいいのかもしれないなって少し思っただけです」
「そう? お互いいい気分しないのに?」
「そう言う相手がいるのが幸せと言うか……。僕はもう父さんと随分会話って会話してませんから」
「一緒に住んでるのに?」
「そうですね……」
一緒に住んでいても別で暮らしているような状態だ──最後にちゃんと話したのは自転車をもらった時。しかしそれも言葉を交わしてかと言うと違う。手紙と鍵が置いてあった、ただそれだけだ。
きっと僕と父さんはお互いに接し方がわからないのだろう。
そして引きこもる僕に気を遣って干渉を差せているのが家の空気からわかる。
「先輩が羨ましいって言ったらズルいですかね」
「どうだろう……。わたしのことを考えてくれるってわかるからさ、嫌ではないのかもしれないね」
きっと……。
その短い一言に全てが詰まっている気がした。
どれだけ願っても、祈っても、欲しても──いずれその繋がりは消えてしまう。
先輩はその日が目前に迫っているからこそ、ここまで色んな感情で彩ることができるのだろう。
「仲直り、したいですか?」
「まぁね。これで終わりにしたくないからさ、家族のこと好きだし……」
それにさ。
中々次ぐ言葉がやってこない。
ちらりと横顔を伺うと、俯き気味で困った風に眉を寄せていた。悲しさとも言えるし、大事なものを抱えているようにも捉えられるその顔が全てを物語っていた。
「家族って必ずしも円満とは限らないと思います。仲がいい家族もあれば、不仲だったり、不干渉な家族もいますから。先輩は……お兄さんとの関係を見てても思います。いい家族なんだなって」
だから手放さないでほしい。
終わりが近いからこそ──何一つ後悔を残してほしくないのだ。
しかし僕にできることはそこにはなにもないだろう。
「なにが原因でケンカしちゃったんですか?」
「ん、まぁ……なんて言うか」
そして途端に居心地が悪そうに言葉を詰まらせた。
チラチラ僕を見ては苦笑し、目を逸らす──それだけで僕が原因であることは一目瞭然だ。毎晩フラット出掛けて日付が変わってしばらくしてから帰る。
例え病気じゃなくても女の子が出歩く時間じゃない。
「すみません」
「謝るの禁止」
「で、でも……僕が原因ですよね」
「うーん、でも……」
「でも、とかそういうのじゃないから。わたしも来たくて来てるの。だからキミが悪いんじゃなくてお互い様。わかった?」
途端に語調を強めに、真っ直ぐ僕を見つめる。
例え病弱でも猫のような丸い目が魅せる威圧感は健在らしい。
「す、すみ……じゃなくて。あ、ありがとうございます……?」
「なんで疑問形? でもそれでいいんだよ」
「でも先輩のご両親の気持ちもわかっちゃうと言うか……」
「わたしだってわかってるけどさぁ。やり残しとか嫌じゃん?」
「それもわかるんですよ……だからこの問題って答えなんかないんじゃないかなって。先輩がどう思って、ご両親がどう思ってるのか……話し合わないと」
「そうなんだよねぇ」
盛大に溜息を一つ。
「気まずいなぁ……」
「ですね……」
ふと父さんと会話をする瞬間を想像してしまった。
まず何から切り出すべきなのか──家に居てもお互いがお互いに干渉しない空間。先輩がご両親と話をするならば、きっとこれはいい機会。
僕も一つ壁を乗り越えるときなのかもしれない。
「じゃあこうしませんか?」
「ん?」
「僕も……頑張って父さんと話してみます。だから先輩も……」
「そうきたかぁ~」
ニヤニヤ笑いながらジッと僕を見つめる。
「わたしを出汁に使おうって事ね」
「ま、まぁ……いい機会とも思いますし」
「いいよ、キミに何か残せるならさ」
「そこまで重いものじゃないとは思いますけど……」
「ううん。大事なことだからさ、向き合うのって……」
まるでそれは自分の死も向き合って乗り越えろ、そう言っているように聞こえて胸が痛い。しかし先輩の笑顔を前に無粋な顔はできない。
だから無理に張り付けたように笑うと、くすりと肩を揺らす。
「がんばろ。わたしも勇気出たからさ」
そうしてスマホを操作し始める。
きっとご両親のどちらかにチャットを送信しているのだろう。
無言の時間が少し続いたかと思えば、次の瞬間──。
「明日一緒に来るって。パパとママ」
「えっ」
「がんばろ」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないんですけど……」
「パパもママもキミに会いたいって言ってるしね」
「と、突然ですね……」
あはは……。
胸に広がっていた悲しさは一瞬にして緊張へ塗り潰されていた。
さて、どんなことを言われるのか──きっと僕は明日も緊張しながら落ち着かなさを解消したくてこの場所に来るだろう。
そのとき何を言われるのか。
考えただけで嫌な汗が背中へ滲んだ。