夜の静寂が、街を包む時間帯。東京の片隅、マンションの一室に灯る温かな明かりは、家族の日常を優しく照らしていた。しかし、その光の下には、微妙な距離感と、言葉にならない違和感が漂っている。
由紀恵はリビングのソファに腰を下ろし、ノートパソコンを膝に広げていた。画面にはエクセルの表が映し出され、数字とグラフが彼女の視線を絡め取る。時計の針はすでに22時を回っているのに、彼女の手はキーボードを叩くのを止めない。マーケティング部の主任として、由紀恵の仕事は終わることなく、締め切りの波に飲み込まれていた。
「ママ、まだ仕事?」
リビングの入り口に、ひなたがパジャマ姿で立っていた。小学三年生のひなたは、ふわっとした金髪の癖っ毛をポニーテールにまとめ、くまのぬいぐるみを抱えている。その瞳は、どこか母を試すような光を帯びていた。
「うん、もうちょっとね。ひなた、そろそろ寝なさい」
由紀恵は画面から目を離さず、淡々と答えた。彼女の声には疲れが滲み、ひなたに向ける笑顔はどこか機械的だった。
ひなたは唇を尖らせ、黙って踵を返した。彼女の小さな足音が、廊下の奥へと消えていく。由紀恵は一瞬手を止め、娘の背中を見送ったが、すぐに画面に視線を戻した。仕事が待っている。彼女には、止まる時間などなかった。
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翌朝、朝食のテーブルは静かだった。トーストとスクランブルエッグが並ぶ中、ひなたは父・悠斗の隣にぴったりとくっついて座っていた。悠斗は穏やかな笑顔で、ひなたの髪を撫でながら新聞を読んでいる。由紀恵はコーヒーカップを手に、二人を横目で見ていた。
「パパ、今日のお弁当、何入れてくれるの?」
ひなたの声は弾むように明るい。彼女はわざと由紀恵の方を見ず、悠斗にだけ話しかけた。
「んー、ひなたの大好きなハンバーグ入れる? それとも、唐揚げにする?」
悠斗は新聞を畳み、ひなたの鼻を軽くつつく。ひなたはくすくす笑い、悠斗の腕にしがみついた。
「ハンバーグ! あと、ポテトサラダも!」
「はいはい、了解。じゃあ、パパ頑張って作るよ」
由紀恵はカップを口に運びながら、胸の奥で小さな棘が刺さるのを感じた。ひなたが自分を避けていることは、痛いほどわかっていた。娘の笑顔は、父に向ける時だけ無垢で輝いている。由紀恵に向ける視線は、どこか冷たく、距離を測るようだった。
「由紀恵、今日も遅くなる?」
悠斗がふと顔を上げ、穏やかな口調で尋ねた。だが、その声にはどこか遠慮が混じっている。由紀恵は一瞬言葉に詰まり、曖昧に笑った。
「うーん、たぶん。新しいプロジェクトのプレゼンが近いから、準備が…」
「そっか。無理しないでな」
悠斗の言葉は優しかったが、会話はそこで途切れた。ひなたは黙ってトーストをかじりながら、両親のやり取りをじっと観察していた。その小さな瞳は、何かを探るように、二人を交互に見つめている。
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その日の夕方、由紀恵が会社から帰宅すると、玄関にはひなたの靴が揃えて置かれていた。リビングに入ると、ひなたは悠斗と一緒にテレビを見ていた。アニメの主題歌が流れ、ひなたは悠斗の膝に座って笑っている。由紀恵はバッグをソファに置き、声をかけようとした。
「ただいま。ひなた、宿題終わった?」
ひなたは一瞬由紀恵の方を見たが、すぐに視線をテレビに戻した。
「うん、終わったよ。パパが手伝ってくれた」
その声はそっけなく、由紀恵の胸に小さな波紋を広げた。
「そっか。よかったね」
由紀恵は無理に笑顔を作り、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、夕飯の準備を始める。だが、頭の中ではひなたの冷たい視線がリプレイされる。どうして、こんな距離ができてしまったのだろう。仕事が忙しいのは確かだ。だが、由紀恵は家族のために働いている。ひなたのため、悠斗のため、この家を守るために。
「ママ、ご飯まだ?」
ひなたの声が背後から聞こえた。由紀恵は振り返り、笑顔で答えた。
「もうちょっとだよ。カレー、ひなたの好きな辛さで作ってるから」
だが、ひなたは由紀恵を見ず、悠斗にくっついたまま言った。
「パパ、カレーよりハンバーグがよかったな」
悠斗は苦笑いし、ひなたの頭を軽く叩いた。
「おいおい、ママが頑張って作ってくれてるんだから、贅沢言うなよ」
由紀恵の手が一瞬止まった。ひなたの言葉は、まるで彼女を拒絶するように響いた。カレーの鍋をかき混ぜながら、由紀恵は唇を噛んだ。どうして、こんなにも心がすれ違うのだろう。
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夜、ひなたが寝室に引っ込んだ後、由紀恵と悠斗はリビングで二人きりになった。テレビは消され、静寂が部屋を満たす。由紀恵はワイングラスを手に、ソファに深く沈み込んだ。
「悠斗、最近、ひなたと私の間に…なんか、壁がある気がする」
由紀恵はぽつりと呟いた。悠斗はビールの缶を手に、軽く眉を寄せた。
「そうか? ひなた、ただの反抗期なんじゃないか? 小三だし、自我が芽生えてくる頃だろ」
「うーん…それだけじゃない気がする。私のこと、避けてるよね。わざとあなたにくっついてる感じが…」
由紀恵の声は震え、言葉が途切れた。悠斗は缶をテーブルに置き、由紀恵の肩に手を置いた。
「忙しいのはわかるけど、ひなたともっと話す時間作ってみたら? 子供ってさ、親が思ってる以上に敏感だから」
由紀恵は頷いたが、心の中では苛立ちが渦巻いていた。時間がないのは、誰のせいでもない。家族のために働いているのに、どうしてひなたはわかってくれないのだろう。悠斗の言葉は優しかったが、どこか他人事のように聞こえた。
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週末、由紀恵は久しぶりに休みを取った。ひなたと向き合おうと、彼女は朝から張り切っていた。
「ひなた、今日は一緒に公園行かない? ピクニックしようよ」
由紀恵はキッチンでサンドイッチを作りながら、明るく声をかけた。だが、ひなたはリビングのソファでゲームに夢中だった。
「えー、パパと行くならいいけど…ママはいいや」
その言葉は、由紀恵の心に突き刺さった。彼女はサンドイッチを包む手を止め、ひなたを見た。
「ひなた、どうしてそんなこと言うの? ママ、ひなたと一緒にいたいんだよ」
ひなたはゲームの手を止め、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、まるで由紀恵を拒む壁のようだった。
「あっち行って」
冷たく、突き放すような一言。由紀恵は息を呑み、言葉を失った。ひなたはすぐにゲームに戻り、まるで何事もなかったかのようにボタンを押し続けた。
由紀恵はキッチンを出て、寝室に閉じこもった。ベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆う。涙は出なかった。ただ、胸の奥で何かが軋む音がした。どうして、こんなことになってしまったのだろう。ひなたの笑顔は、悠斗にだけ向けられる。自分には、あの冷たい視線しか返ってこない。
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その夜、ひなたの寝室から小さな声が漏れていた。由紀恵はドアの前で立ち止まり、耳を澄ませた。
「ねえ、パパ。ほんとにわたし、パパのお嫁さんになってもいいの?」
ひなたの無邪気な声が、暗闇に響く。悠斗の笑い声が続き、優しく答えた。
「ハハ、ひなたはパパの大のお気に入りだからな。ずっと一緒にいようぜ」
「やったー! パパ、だいすき!」
由紀恵はドアに手をかけ、開けようとしたが、指が震えて動かなかった。ひなたの言葉は、子供の無垢な愛情に満ちていた。だが、なぜかその声は、由紀恵の心に不穏な影を落とした。まるで、ひなたが自分を完全に排除し、悠斗だけの世界を作ろうとしているかのように。
由紀恵は静かにドアから離れ、リビングに戻ったかわいい約束。ワイングラスを手に、彼女は窓の外を見つめた。夜の街は静かで、星一つ見えない空が広がっている。彼女の心は、ひなたの言葉と、家族の間に漂う見えない壁に締め付けられていた。