夜のマンションは、静寂に包まれていた。リビングの時計が刻む音だけが、家族の間に漂う重い空気を切り裂く。悠真はソファに座り、スマホの画面をじっと見つめていた。その表情は硬く、眉間に刻まれた皺が彼の内心を物語っている。由紀恵はキッチンで夕飯の後片付けを終え、悠真の異変に気づいてリビングに戻ってきた。
「悠真、どうしたの? そんな顔して」
由紀恵の声は穏やかだったが、どこか疲れが滲んでいる。彼女の仕事の忙しさは、家族の時間を削り続けていた。悠真は一瞬彼女を見上げ、言葉を選ぶように口を開いた。
「由紀恵、これ…どういうことだ?」
彼が差し出したスマホの画面には、由紀恵と見知らぬ男性がカフェで親しげに笑い合う写真が映っていた。背景には洒落たカフェのロゴ、テーブルの上にはコーヒーカップ。だが、由紀恵の顔はどこか不自然で、笑顔がぎこちなく見えた。
「何、これ?」
由紀恵はスマホを手に取り、目を細めた。彼女の指が画面を拡大し、写真を凝視する。次の瞬間、彼女の声が鋭く響いた。
「こんなの作られたに決まってる! AIで合成したんでしょ! 私、こんな男知らない!」
悠真は黙って彼女を見つめた。その瞳には、疑念と困惑が混じっている。由紀恵はスマホをテーブルに叩きつけ、声を荒げた。
「悠真、信じてるの? こんな偽物の写真、誰かが送ってきただけで、私を疑うの?」
「いや、そうじゃないけど…急にこんなのが送られてきたら、気にならないわけないだろ」
悠真の声は低く、抑えきれぬ苛立ちが滲む。彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外の夜景は冷たく、星一つない空が広がっている。
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その夜、ひなたはリビングのドアの隙間から両親のやり取りを覗いていた。小学三年生の彼女は、くまのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、じっと耳を澄ませている。両親の声が高まるたび、彼女の小さな肩が震えた。
喧嘩が一段落し、由紀恵が寝室に引っ込むと、ひなたはそっとリビングに入ってきた。悠真はソファに座り、頭を抱えている。ひなたは彼の隣にちょこんと座り、小さな手で悠真の腕を握った。
「パパ、ママ…ほんとは浮気してるんでしょ?」
ひなたの声は震え、大きな瞳には涙が溜まっていた。悠真はハッと顔を上げ、慌ててひなたを抱き寄せた。
「そんなことないよ、ひなた。ママはそんな人じゃない。きっと、誰かがいたずらしたんだ」
彼は優しくひなたの髪を撫でたが、その声には微かな迷いが混じっていた。写真の由紀恵の笑顔は、確かに彼女そのものに見えた。AI合成だとしても、あまりにリアルで、心の奥に小さな棘が刺さる。
「パパ、だいじょうぶ。わたし、ずっとパパのそばにいるから」
ひなたは涙を拭い、悠真にしがみついた。その無垢な笑顔は、まるで彼を独占するような輝きを帯びていた。悠真は苦笑し、ひなたの頭を軽く叩いた。
「ハハ、ありがとうな、ひなた。パパの味方でいてくれるか」
「うん! ずっと、ずーっとパパの味方!」
だが、その言葉はどこか不穏な響きを残した。ひなたの笑顔は純粋だったが、彼女の瞳の奥には、由紀恵を拒むような冷たさが宿っているように見えた。
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翌日、由紀恵は会社でスマホを握りしめ、苛立ちを抑えきれなかった。写真を送ってきたアドレスは匿名で、追跡不能。彼女はIT部門の同僚に相談し、画像を解析してもらった。
「やっぱり、AI生成の可能性が高いね。ディープフェイク技術を使ってる。背景と人物の合成が微妙に不自然だ」
同僚の言葉に、由紀恵は安堵と怒りが同時に湧いた。
「誰がこんなこと…。私を陥れようとしてるの?」
彼女の頭には、プロジェクトのライバルや、過去に衝突した同僚の顔が浮かんだ。だが、証拠はない。ただ、家族の間にできた亀裂が、彼女の心を締め付ける。
帰宅後、由紀恵は悠真に解析結果を説明した。だが、悠真の反応はどこか冷ややかだった。
「わかった。合成なら、よかった。でも…なんでこんな写真が送られてきたんだ? 誰かがわざわざ作る理由って何だ?」
「悠真、まだ疑ってるの? 私は何もしてない!」
由紀恵の声が震え、涙がこぼれそうになる。悠真は目を逸らし、ため息をついた。
「疑ってるわけじゃない。ただ…最近、俺たち、ちゃんと話せてないだろ。仕事ばっかりで、ひなたとも距離ができてる。俺だって、疲れてるんだ」
その言葉は、由紀恵の心に深く突き刺さった。彼女は確かに仕事に追われていた。だが、それは家族のため。この家を守るため、ひなたの未来のためだ。なのに、なぜ誰もわかってくれないのだろう。
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数日後、夫婦の会話はさらに減り、すれ違いが目立つようになった。朝食のテーブルでは、ひなたが悠真にだけ話しかけ、由紀恵は黙ってコーヒーを飲む。夜、悠真が帰宅すると、由紀恵はまだ会社にいるか、帰ってもパソコンに張り付いている。そんな日々が続く中、ひなたはますます悠真にべったりになった。
ある夜、由紀恵と悠真の間で大きな喧嘩が起きた。きっかけは些細なことだった。由紀恵がひなたの宿題をチェックしようとしたら、ひなたが「ママじゃなくていい! パパがやってくれる!」と突っぱねたのだ。
「由紀恵、ひなたがこうなるのは、お前が家にいないからだろ!」
悠真の声がリビングに響く。由紀恵は目を丸くし、反論した。
「私が仕事してるのは、誰のためだと思ってるの? この家、ひなたの学費、全部私が稼いでるのに!」
「稼ぎだけが家族じゃない! ひなたは母親を求めてるんだよ!」
言葉が刃のように交錯し、ひなたは部屋の隅でぬいぐるみを抱きしめ、じっと二人を見つめていた。やがて、悠真が口を開いた。
「…由紀恵、しばらく別居しないか? このままじゃ、みんなが辛いだけだ」
由紀恵は息を呑み、言葉を失った。別居。その言葉は、彼女の心を凍りつかせた。
その時、ひなたが悠真のそばに駆け寄り、彼の手を握った。
「パパ、だいじょうぶ。私がいれば大丈夫だよ。パパを守るから」
ひなたの声は無垢で、微笑みは天使のようだった。だが、由紀恵はその笑顔に、ぞっとするような寒気を感じた。ひなたの瞳は、まるで彼女をこの家から排除しようとしているかのようだった。
由紀恵はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。家族の絆は、まるで砂の城のように崩れ始めていた。スマホに映った偽物の写真は、ただの引き金に過ぎなかった。彼女の心に響くのは、ひなたの無邪気な声と、悠真の遠ざかる背中。そして、家族の間に広がる、冷たい亀裂の音だった。