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第4話 ママはいらない:離婚と新生活

夜のマンションは、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。リビングのテーブルには、冷めたコーヒーカップと、使い古されたティッシュが散らばっている。悠真はソファに深く沈み込み、スマホを握りしめていた。その画面には、新たな衝撃が映し出されていた。由紀恵と見知らぬ男性が、裸で抱き合っている写真。明らかに合成だとわかる不自然な光沢と、背景の歪み。だが、その露骨なイメージは、悠真の心に重い一撃を叩き込んだ。


「また…これか…」  

悠真の声は掠れ、疲れ果てていた。彼はスマホをテーブルに投げ出し、両手で顔を覆った。最初の写真からわずか数週間、匿名のアカウントから送られてくる画像はエスカレートする一方だった。合成だと頭ではわかっていても、心は揺さぶられていた。由紀恵との関係はすでに冷え切り、会話は喧嘩か沈黙しかない。彼女の仕事の忙しさ、ひなたの冷たい態度、そしてこの写真。悠真の精神は、限界を迎えていた。


由紀恵が帰宅したのは、深夜を回った頃だった。彼女はバッグを玄関に置き、リビングで固まる悠真を見て眉をひそめた。  

「悠真、またその顔。何? またあの写真?」  

彼女の声には苛立ちと諦めが混じっている。悠真は無言でスマホを差し出した。由紀恵が画面を見た瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。  

「何…これ…! こんなの、私じゃない! 誰がこんな酷いこと…!」  

由紀恵の声は震え、怒りと絶望が交錯する。彼女はスマホを握り潰しそうな勢いでテーブルに叩きつけた。  

「悠真、信じてるの? こんな下劣な偽物、私を陥れるためのものよ!」  

「わかってる…わかってるよ、由紀恵。でも、こんなのが何度も送られてくるんだ。俺、頭おかしくなりそうなんだよ…!」  

悠真の叫びは、リビングに虚しく響いた。由紀恵は唇を噛み、涙を堪えた。彼女は家族を守るために働いてきた。なのに、なぜこんな目に遭うのか。


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その夜、ひなたは自室のベッドに座り、ぬいぐるみを抱きながら小さく笑っていた。彼女の瞳は、子供のものとは思えない冷たさを帯びていた。スマホの画面には、彼女が匿名アプリで送った合成写真の履歴が残っている。ひなたは、由紀恵を追い出すための計画を、着々と進めていた。  

「ママはいらない。パパは、私だけでいいよね…」  

彼女の囁きは、暗闇に溶け、誰にも聞こえない。


翌朝、悠真と由紀恵はリビングで向き合った。ひなたは学校へ行き、二人きりの空間は重苦しい。悠真が口を開いた。  

「由紀恵…もう、限界だ。俺たち、別居した方がいい。少なくとも、しばらくは」  

由紀恵は一瞬息を止め、目を閉じた。彼女の心は、怒りと悲しみで引き裂かれそうだった。  

「悠真…あなた、私を信じてくれないの? 家族を壊す気?」  

「壊してるのは…お前もだろ。ひなたがこんな状態なのに、仕事ばっかりで…」  

悠真の言葉は、由紀恵の胸を刺した。彼女は立ち上がり、震える声で言った。  

「わかった。出て行く。私が悪者でいいよ。でも、ひなたのこと、ちゃんと見ててね」  


由紀恵は寝室に引っ込み、スーツケースに服を詰め始めた。涙が頬を伝うが、彼女は拭わず、ただ黙々と準備を進めた。悠真はリビングに残り、頭を抱えた。彼の心は、由紀恵への疑念と、ひなたへの愛情、そして自分自身の無力感でぐちゃぐちゃだった。


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数日後、由紀恵は小さなアパートに移った。会社近くのワンルームは、殺風景で冷たかった。彼女はベッドに座り、ひなたの写真が入ったキーホルダーを握りしめた。娘の笑顔は、かつては自分にも向けられていた。なのに、今はあの冷たい視線しか思い出せない。  

「ひなた…ママ、頑張るから。いつか、わかってくれるよね…」  

彼女の呟きは、誰もいない部屋に虚しく響いた。


一方、悠真とひなたの生活は、表面上は穏やかに始まった。ひなたは学校から帰ると、悠真にぴったりとくっつき、笑顔を振りまいた。  

「パパ、今日のご飯何? ハンバーグ作って!」  

「ハハ、ひなたのハンバーグ好きはすごいな。よし、作るぞ」  

悠真は笑顔で応じ、キッチンに立った。ひなたはテーブルの上で宿題を広げながら、悠真の背中をじっと見つめる。彼女の唇には、満足げな笑みが浮かんでいた。


夜、食事を終えた二人はリビングでテレビを見ていた。ひなたは悠真の膝に座り、彼の手を握った。  

「パパ、これからは私と二人だね。うれしいね」  

その声は無垢で、まるで天使のようだった。悠真はひなたの髪を撫で、優しく笑った。  

「そうだな、ひなた。パパとひなた、ずっと一緒だ」  


だが、ひなたの瞳には、奇妙な光が宿っていた。彼女は悠真の手を強く握り、囁くように言った。  

「パパ、ママなんていらないよね。私が、パパのお嫁さんになるから」  

悠真は笑ってその言葉を流したが、ひなたの声には、どこかぞっとするような執着が込められていた。彼は気づかぬまま、娘の狂気に一歩踏み込んでいた。


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数週間後、悠真とひなたの新生活は一見順調だった。ひなたは学校で明るく振る舞い、悠真には甘える姿を見せた。だが、夜になると、彼女は自室でスマホを手に、由紀恵のSNSをチェックしていた。母が投稿する仕事の写真や、疲れた笑顔の自撮りに、ひなたの唇が歪む。  

「ママ、まだ諦めてないんだ…。でも、パパは私のもの。もう、邪魔しないでよね」  

彼女は新たな合成写真を匿名アカウントで作り、由紀恵の同僚やクライアントに送りつけた。母を完全に排除するため、ひなたの小さな手は止まらなかった。


一方、由紀恵はアパートで一人、家族のことを考えていた。彼女はひなたにLINEを送ってみたが、既読にならない。悠真にも連絡したが、返事はそっけない。彼女の心は、孤独と後悔で押し潰されそうだった。  

「私が…もっとひなたと向き合ってれば…」  

だが、彼女には知る由もなかった。ひなたの心が、純粋な愛から歪んだ執着へと変わりつつあることを。  


悠真は、ひなたの笑顔に癒されながらも、胸の奥で違和感を感じ始めていた。彼女の甘え方は、時に異常なほど強く、由紀恵の話題を出すと、ひなたの瞳が一瞬暗くなる。だが、彼はその違和感を無視した。娘はただ、母親の不在を寂しがっているだけだと信じたかった。


夜、ひなたは悠真の隣で眠りにつきながら、そっと呟いた。  

「パパ、ずっと私のそばにいてね。ママなんかいらないから…」  

その声は、暗闇に溶け、悠真の心に不穏な余韻を残した。彼は目を閉じ、娘の小さな手を握り返したが、その手はなぜか冷たく感じられた。



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