秋の気配が漂う東京の街。マンションの窓から見える木々の葉は、わずかに色づき始めていた。悠真とひなたの新しい生活は、表面上は穏やかに続いていた。由紀恵が家を出てから数ヶ月、ひなたは父親にべったりで、悠真も娘の笑顔に癒される日々を送っていた。だが、その平穏な日常に、微かな波紋が広がり始めていた。
悠真の会社で経理を担当する加藤美咲(28歳、独身)は、明るく面倒見の良い女性だった。彼女は悠真のチームの飲み会で、由紀恵との別居の話を耳にし、以来、気にかけるようになった。ある日、悠真がひなたの迎えに遅れそうだと愚痴をこぼしたとき、美咲が笑顔で手を挙げた。
「悠真さん、私、ひなたちゃんの学校の近くに住んでるから、迎えに行ってあげようか? 子供大好きだし、助けになるよ!」
悠真は最初遠慮したが、美咲の押しに負け、ひなたの世話を頼むことにした。美咲はひなたを学校の門で迎え、近くの公園で一緒にアイスを食べたり、宿題を見たりした。ひなたは最初、愛想良く振る舞っていた。美咲の明るさに釣られ、笑顔で手を振る姿は、まるで普通の小学生のようだった。
ある週末、美咲が悠真の家に遊びに来た。彼女は手作りのクッキーを持参し、ひなたに差し出した。
「ひなたちゃん、クッキー好き? お姉さんが焼いてきたんだから、食べてみて!」
ひなたはクッキーを受け取り、にっこり笑った。だが、その瞳はどこか冷たく、美咲を値踏みするようだった。悠真はキッチンでコーヒーを淹れながら、二人のやり取りを微笑ましく見ていた。
「ねえ、ひなたちゃん。私、悠真さんの同僚だけど、ひなたちゃんの新しいママになってあげようか?」
美咲が冗談めかして言った瞬間、ひなたの手がピタリと止まった。彼女はクッキーを握りつぶし、顔を上げた。
「新しい…ママ?」
その声は低く、子供のものとは思えない鋭さがあった。美咲はハッとして笑い、慌ててフォローした。
「ハハ、冗談、冗談! ひなたちゃんには、素敵なママがいるもんね!」
だが、ひなたの瞳は鋭く光り、美咲を射抜くようだった。悠真は気づかず、コーヒーカップを手にリビングに戻ってきた。
「美咲、ひなたに変なこと吹き込むなよ。ほら、ひなた、クッキー美味しいだろ?」
ひなたは無言で頷き、クッキーを口に運んだ。だが、彼女の心はすでに別の場所にあった。
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その夜、ひなたは自室でスマホを手にしていた。彼女の指は素早く動き、匿名アカウントから美咲のメールアドレスにメッセージを送信していた。
「近づかないで。パパは私のもの。」
短い文面だったが、背筋が凍るような冷たさが込められていた。さらに、彼女はネットで拾った不気味な画像を添付し、送信ボタンを押した。ひなたの唇には、満足げな笑みが浮かんでいた。
翌日から、美咲の元に無数の脅迫メールが届き始めた。
「消えろ」「パパを盗むな」「お前なんかいらない」
文面はどれも短く、送信元は追跡不能。夜には無言電話が鳴り響き、受話器の向こうでかすかな笑い声が聞こえることもあった。美咲は最初、いたずらだと思った。だが、メールの頻度が増し、内容がエスカレートするにつれ、彼女の精神は追い詰められていった。
「悠真さん…私、最近、変なメールが来てて…」
会社で美咲が打ち明けたとき、彼女の顔は青ざめ、目の下にはくまができていた。悠真は眉をひそめ、彼女の肩に手を置いた。
「え、大丈夫か? どんなメール? 警察に相談した方がいいんじゃないか?」
「ううん、警察までは…でも、気持ち悪いんだよね。誰かが私を監視してるみたいで…」
美咲の声は震え、涙がこぼれそうだった。悠真は心配そうに彼女を見つめたが、心のどこかで「ひなたのことが関係しているはずない」と自分を納得させた。
だが、美咲の体調は悪化の一途をたどった。睡眠不足とストレスで、彼女は会社でミスを連発。ついには上司から休職を勧められ、退職を決意した。
「悠真さん、ごめんね。ひなたちゃんの世話、楽しかったけど…私、もう無理かもしれない」
美咲がそう告げた日、彼女は泣きながら会社を去った。悠真は彼女を見送り、胸に重いものを感じた。
「偶然…だろ。こんなの、ただの偶然だ」
彼はそう呟き、自分を納得させようとした。だが、心の奥で小さな違和感が芽生えていた。ひなたの笑顔は、いつも通り無垢で天使のようだった。なのに、なぜかその笑顔が、時折冷たく見える瞬間があった。
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ひなたは、美咲が去ったことを知ると、悠真に抱きついて言った。
「パパ、よかった! これでまた、パパと二人だね!」
彼女の声は弾むように明るく、悠真は笑ってひなたの髪を撫でた。
「ハハ、ひなたはほんとパパっ子だな。美咲さん、忙しくなっちゃっただけだよ」
ひなたは頷き、悠真の手を強く握った。その小さな手は、まるで彼を離すまいとするように力強かった。
夜、ひなたは自室でぬいぐるみを抱きながら、スマホの画面を見つめていた。美咲のSNSは更新が止まり、彼女のアカウントは非公開になっていた。ひなたは小さく笑い、画面を閉じた。
「パパは私のもの。誰も邪魔させないよ…」
その囁きは、暗闇に溶け、誰にも聞こえない。だが、ひなたの瞳は、まるで獲物を仕留めた獣のように輝いていた。
悠真は、リビングでビールを飲みながら、美咲の退職を振り返っていた。彼女が去った理由は、確かに異常だった。だが、ひなたがそんなことをするはずがない。彼女はただの小学生、父親を愛する純粋な娘だ。悠真はそう信じ込み、胸の違和感を押し殺した。
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次の週末、ひなたはいつものように悠真にべったりだった。彼女はリビングで彼の隣に座り、テレビを見ながら言った。
「パパ、加藤さんって、変な人だったよね。パパのこと、盗もうとしてたみたい」
悠真は驚いてひなたを見た。
「え、なんでそんなこと言うんだ? 美咲さんはただ優しくしてくれてただけだろ?」
ひなたは首を振って、笑顔で言った。
「ううん、わかってるよ。女の人のカン、みたいなの? でも、もう大丈夫。パパは私のパパだもん!」
その言葉に、悠真は苦笑した。子供の嫉妬だと軽く受け流したが、ひなたの瞳の奥に宿る光は、どこか不気味だった。
その夜、悠真はベッドで眠れなかった。美咲の青ざめた顔、ひなたの鋭い視線、由紀恵のいない家。すべてが、まるでパズルのピースのように彼の頭の中で渦巻いていた。だが、彼はまだ気づいていなかった。ひなたの愛が、純粋なものから、危険な執着へと変わりつつあることを。