秋も深まり、街路樹の葉が赤や黄色に染まる季節になった。悠真とひなたの二人暮らしは、表面上は穏やかなリズムで続いていた。マンションのリビングには、ひなたの笑い声が響き、悠真の優しい声がそれに応える。だが、その平穏な日常の裏で、ひなたの心は静かに、しかし確実に歪み始めていた。彼女の愛は、父親への純粋な想いを超え、独占欲という暗い影を帯びていた。
ある土曜日の朝、ひなたはクローゼットから白いワンピースを取り出した。フリルのついたそのドレスは、まるで花嫁衣裳のように清楚で、彼女が去年の誕生日にもらった特別な一着だった。ひなたは鏡の前でくるりと回り、長い金髪を揺らしながら微笑んだ。
「これなら、パパ、喜んでくれるよね…」
彼女の声は小さく、まるで自分に言い聞かせるようだった。鏡に映る自分の姿に、ひなたは満足げに頷き、キッチンへと向かった。
悠真は朝食の準備をしていた。トーストと目玉焼きを焼きながら、新聞に目を通している。ひなたがリビングに入ってくると、彼は顔を上げ、驚いたように目を丸くした。
「お、ひなた、なんだその格好? めっちゃ可愛いじゃん! 何かイベント?」
ひなたはにっこり笑い、くるりと一回転してみせた。
「ううん、ただの気分! ねえ、パパ、今日からわたし、パパの奥さんになるんだから!」
その言葉は無邪気で、子供らしい冗談のように聞こえた。悠真は笑いながら、ひなたの頭を軽く撫でた。
「ハハ、奥さんか! じゃあ、パパの朝ごはん、ひなたが作ってくれる?」
「うん、任せて! わたし、ちゃんと花嫁修業するもん!」
ひなたはキッチンに飛び込み、冷蔵庫を開けて食材を物色し始めた。悠真はそんな娘の姿を微笑ましく見つめ、彼女の行動をただの遊びだと思った。
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その日から、ひなたの“花嫁修業”が始まった。彼女は朝早く起きて、悠真の弁当を作り始めた。ハンバーグや卵焼き、彩りよく切った野菜を詰め、まるで本物の主婦のようだった。夕方には洗濯物を畳み、部屋の掃除までこなす。悠真が帰宅すると、ひなたはエプロン姿で出迎え、満面の笑みで言った。
「パパ、おかえり! ご飯、すぐできるよ! 今日はカレー、ひなた特製だよ♡」
悠真は感心しながらも、どこか複雑な気持ちでひなたを見つめた。
「ひなた、すごいな。こんなに頑張って…ママみたいだぞ」
その言葉に、ひなたの笑顔が一瞬凍りついた。彼女はすぐに笑みを戻したが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
「ママ…なんかいらないよね。わたしだけで、パパは幸せでいいよね?」
悠真はハッとして笑い、ひなたの髪をくしゃっと撫でた。
「おいおい、ママのこともちゃんと愛してるぞ。ひなたはパパの宝物だけどさ」
ひなたは黙って頷き、カレーを盛りつける手に力を込めた。彼女の心は、悠真の言葉に小さな傷を負っていた。ママなんかいらない。パパは私だけでいいはずなのに。
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夜、ひなたの行動はさらにエスカレートした。夕食後、悠真がリビングでテレビを見ていると、ひなたがパジャマ姿でそっと近づいてきた。彼女は悠真の隣にぴったりと寄り添い、突然彼のベッドに潜り込もうとした。
「パパ、一緒に寝よ? 奥さんなんだから、いいよね?」
悠真は驚いて笑い、ひなたを軽く押し返した。
「ハハ、ひなた、さすがにそれは早いって! 大人になったら、パパと一緒に寝るなんて嫌がるようになるよ」
ひなたは唇を尖らせ、大きな瞳で悠真を見つめた。
「うそ、嫌がらないよ。大きくなったら、ほんとにパパのお嫁さんになるんだから。一緒に寝るんだよ」
その声は無垢で、まるで夢見る少女のようだった。だが、悠真の胸に小さな違和感が走った。ひなたの言葉は、子供の冗談を超えて、どこか執着めいた響きを持っていた。彼は笑顔で誤魔化し、ひなたを自室に送り返した。
「はいはい、寝る時間だ。パパも疲れてるから、ちゃんと自分のベッドで寝なさい」
ひなたは素直に頷き、部屋に戻った。だが、彼女の足音はどこか重く、リビングに不穏な余韻を残した。
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学校では、ひなたの変化が目に見えて現れ始めていた。彼女は友達との会話を避け、休み時間も一人で本を読んだり、スマホをいじったりしていた。クラスの担任、佐藤先生は、ひなたの様子を心配し、保護者面談で悠真に相談を持ちかけた。
「悠真さん、ひなたちゃん、最近ちょっと気になります。友達とあまり話さなくなって、授業中もぼーっとしていることが多いんです。家で何か変わったこと、ありますか?」
悠真は首を振って笑った。
「いや、特には。ひなた、元気ですよ。家ではめっちゃ甘えてくるし、弁当まで作ってくれるんですよ。子供なりに頑張ってるんじゃないですか?」
佐藤先生は眉をひそめ、慎重に言葉を選んだ。
「そうですね、ひなたちゃんはとても賢い子です。でも…少し、父親である悠真さんに依存しすぎている気がします。もしかしたら、由紀恵さんとの別居の影響もあるかもしれません」
悠真の笑顔が一瞬消えた。彼は由紀恵の名前を聞くたび、胸の奥で疼くものを感じていた。
「…そうですか。ちょっと、気をつけてみます。ありがとう、先生」
だが、悠真の心はまだひなたの変化を直視できなかった。彼女の笑顔は、彼にとって唯一の癒しだった。娘が自分を必要としてくれること。それが、別居後の孤独を埋める唯一の支えだった。
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ひなたの行動は、さらに極端になっていった。彼女は悠真のスマホをチェックし、由紀恵からのメッセージをブロックした。学校から帰ると、悠真の帰宅を待ち、まるで妻のように振る舞った。ある日、悠真が会社から疲れて帰宅すると、ひなたはリビングで手作りのケーキを用意していた。
「パパ、疲れたでしょ? ひなたがケーキ焼いたよ! 食べて、元気出して!」
悠真は感動しながら、ケーキを頬張った。
「ひなた、ほんとすごいな。こんな美味しいケーキ、パパ、幸せだよ」
ひなたは満面の笑みで応え、悠真の手を握った。
「パパが幸せなら、ひなたも幸せ! わたし、ずっとパパの奥さんでいるからね♡」
だが、その夜、ひなたは再び悠真のベッドに忍び込もうとした。悠真が気づき、慌てて止めたが、ひなたの瞳はどこか異様に輝いていた。
「パパ、なんで? 奥さんなんだから、いいよね? ひなた、パパのこと、誰よりも愛してるよ」
悠真は笑顔で誤魔化したが、背筋に冷たいものが走った。ひなたの言葉は、子供の無垢な愛を超え、まるで彼を縛る鎖のようだった。
ひなたは、父以外の世界を遮断し始めていた。学校では友達を遠ざけ、由紀恵の連絡を無視し、悠真の同僚が近づくのを拒んだ。彼女の心は、父親だけに向けられ、他のすべてを排除する執念で満たされていた。悠真はまだ気づいていなかった。娘の愛が、危険な領域に踏み込みつつあることを。
夜、ひなたは自室でぬいぐるみを抱きながら、鏡に映る自分を見つめた。白いワンピースを着た彼女は、まるで小さな花嫁のようだった。
「パパは私のもの。誰も、邪魔させない…」
その囁きは、暗闇に溶け、マンションの静寂に不穏な響きを残した。