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第7話 ふたりだけの家:孤立する父

冬の訪れが東京の街を冷たく包み込んでいた。マンションの窓には霜がうっすらと張り、夜の静寂が家族のいない家を一層寂しくさせていた。悠真とひなたの二人暮らしは、ひなたの異常なまでの献身によって、奇妙な均衡を保っていた。だが、その均衡は脆く、悠真の心と体は限界に近づいていた。


悠真は会社で過労がたたり、会議中に突然倒れた。頭がクラクラし、視界が暗転する中、同僚の慌てた声が遠くに聞こえた。次に目を開けたとき、彼は病院のベッドに横たわっていた。白い天井と消毒液の匂い。点滴のチューブが腕に刺さり、かすかな痛みが走る。医者の診断は「過労による一時的な貧血とストレス」。しばらく安静が必要だと告げられた。


病室のドアが開き、小さな影が駆け込んできた。ひなただった。彼女はランドセルを背負ったまま、息を切らして悠真のベッドに飛びついた。  

「パパ! だいじょうぶ!? ひなた、すっごく心配したんだから!」  

ひなたの大きな瞳には涙が溢れ、彼女は悠真の手をぎゅっと握った。その小さな手は震え、まるで父親を失う恐怖に怯えているようだった。悠真は弱々しく笑い、ひなたの髪を撫でた。  

「ハハ、大丈夫だよ、ひなた。パパ、ちょっと疲れただけ。すぐ元気になるから」  


ひなたはベッドの端に座り、悠真の手を両手で包み込んだ。彼女の瞳は、涙で潤みながらも、どこか異様な光を帯びていた。  

「パパ、ひなたがいるよ。ひなたがパパのためにがんばるから。ずっと一緒にいるから…だから、わたしと結婚してね」  

その言葉は、子供の無垢な願いのように響いた。だが、ひなたの声には、どこか切迫した響きがあった。悠真は一瞬言葉に詰まり、ひなたの真剣な表情に戸惑った。  

「ひなた、子供の言うことだろ? そんなこと…ハハ、大きくなったら、もっと素敵な人と結婚するよ」  

彼は笑って誤魔化そうとしたが、ひなたの瞳は揺らがなかった。彼女はさらに強く手を握り、涙を一滴こぼした。  

「ううん、パパがいいの。ひなた、パパのこと、誰よりも愛してる。パパも、ひなたのこと愛してるよね?」  


悠真はひなたの純粋な言葉に胸を締め付けられた。彼は娘の愛を拒むことができず、曖昧な笑みを浮かべた。  

「もちろん、パパはひなたのこと大好きだよ。ずっとそばにいるから、安心しろ」  

その言葉は、ひなたの心に火を灯した。彼女の涙が止まり、代わりに小さな笑みが広がった。  

「ほんと? やった…パパ、約束だよ!」  

ひなたの声は弾むように明るく、病室に響いた。だが、悠真の胸には、名前のつけられない違和感が広がっていた。彼はそれを「子供の冗談」だと押し込め、ひなたの手を握り返した。  


---


病院には、由紀恵からの連絡はなかった。別居後、彼女との関係はさらに冷え込み、ひなたが悠真のスマホを操作して由紀恵のメッセージをブロックしていることも、彼は知らなかった。会社の上司や同僚からの見舞いもあったが、誰もが忙しく、病室に長居する者はなかった。結局、悠真のそばにいたのは、ひなただけだった。


ひなたは毎日、学校帰りに病院に通った。彼女はランドセルを病室の隅に置き、宿題をしながら悠真の話を聞いた。彼女の笑顔は無垢で、まるで天使のようだった。だが、時折、彼女の言葉には異様な執着が滲む。  

「パパ、ひなたが看病するから。誰にも渡さないよ。パパは、ひなたのものだから」  

悠真は笑って流したが、その言葉は彼の心に小さな棘を残した。ひなたの愛は、純粋であるはずなのに、なぜか息苦しさを感じさせた。


医者は悠真に、ストレスを減らし、休息を取るよう強く勧めた。  

「悠真さん、家族との時間も大切にしてください。仕事だけじゃなく、心のバランスが大事ですよ」  

医者の言葉に、悠真は頷いた。だが、家族と言えば、ひなたしかいない。由紀恵との関係は修復不可能に見え、ひなたの依存は日増しに強くなっていた。彼は病院のベッドで、ひなたの小さな手を握りながら、孤独を噛みしめた。


---


退院の日、ひなたは悠真を迎えに学校を早退して病院にやってきた。彼女は白いコートを着て、まるで小さな花嫁のように微笑んだ。  

「パパ、おうちに帰ろう! ひなた、たくさん準備したんだから!」  

悠真は彼女の元気な声に笑顔を返し、病院を後にした。タクシーの中で、ひなたは悠真の腕にしがみつき、嬉しそうに話しかけた。  

「パパ、ひなた、パパのこと守るから。もう、誰も邪魔させないよ」  

その言葉に、悠真は軽く笑った。  

「ハハ、ひなた、パパのナイトみたいだな。ありがとうな」  

だが、ひなたの瞳は、まるで彼を独占する決意を秘めているようだった。悠真は気づかぬまま、娘の異常な愛に飲み込まれつつあった。


家に帰ると、ひなたは早速キッチンに立ち、悠真のためにスープを作り始めた。彼女の動きは手慣れ、まるで本物の主婦のようだった。悠真はソファに座り、娘の小さな背中を見つめた。  

「ひなた、ほんと、しっかり者になったな。パパ、助かるよ」  

ひなたは振り返り、満面の笑みを浮かべた。  

「だって、ひなた、パパの奥さんになるんだもん! これからも、ずーっとパパのこと守るよ!」  

その言葉は、子供の無垢な夢のように聞こえた。だが、悠真の胸に広がる違和感は、ますます強くなっていた。彼はひなたの笑顔に癒されながらも、どこかで恐怖を感じ始めていた。彼女の愛は、まるで彼を縛る鎖のようだった。


ひなたはスープをテーブルに置き、悠真の隣に座った。彼女の手は悠真の手を握り、離そうとしなかった。  

「パパ、約束したよね? ひなたと、ずっと一緒だよね?」  

悠真は曖昧に頷き、笑顔を作った。  

「ああ、ずっと一緒だ。ひなたはパパの宝物だからな」  

その言葉は、ひなたの心に確信を与えた。彼女の瞳は輝き、まるで勝利を確信したように微笑んだ。  

「やった…パパ、ひなた、幸せだよ。これで、誰も邪魔しないね…」  


悠真はひなたの言葉を聞き流し、スープを口に運んだ。だが、彼の心は、娘の異常な執着に気づき始めていた。彼女の笑顔は無垢で、愛に満ちていた。なのに、なぜかその愛は、悠真を孤立させる檻のように感じられた。



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