冬の陽光が、マンションのリビングに柔らかく差し込んでいた。外は凍えるような寒さだが、室内はひなたの熱意で暖かく、まるで別世界のように感じられた。悠真が過労で倒れてから数週間、彼は医者の忠告に従い、仕事をセーブしながらひなたとの時間を大切にしていた。だが、ひなたの行動はますます異常な方向へと進み、彼女の父親への愛は、純粋さを超えて執着の域に達していた。
ある土曜日の朝、悠真がリビングに入ると、部屋がいつもと違う雰囲気に包まれていた。ソファには色とりどりのリボンが結ばれ、テーブルには白いレースのテーブルクロスが敷かれている。壁には折り紙で作られた花やハートが飾られ、まるで小さなパーティー会場のような装いだった。部屋の中央には、ひなたが白いワンピースに身を包み、頭にティッシュペーパーで作ったベールを被って立っていた。彼女の手には、ぬいぐるみたちが整然と並べられ、まるで「招待客」として配置されている。
「パパ! おはよう! 今日、すっごく大事な日だよ!」
ひなたの声は弾むように明るく、彼女の瞳は期待に輝いていた。悠真は目を丸くし、笑いながら尋ねた。
「お、ひなた、なんだこの飾り付け? 誕生日でもないのに、なんかイベント?」
ひなたはにっこり笑い、悠真の手を引いて部屋の中央に連れて行った。
「ううん、もっと大事! 今日、ひなたとパパの結婚式なんだから!」
悠真は一瞬言葉に詰まり、笑って誤魔化した。
「ハハ、結婚式? ひなた、ほんと面白いこと考えるな! じゃあ、パパ、どんな役?」
ひなたは真剣な表情で悠真の手を握り、きっぱりと言った。
「パパは新郎さん! ひなたは花嫁! ちゃんと準備したんだから、ちゃんとやってね!」
彼女はテーブルから手作りのリングを取り出し、悠真に差し出した。それは色紙を丸めて作った簡素なものだったが、ひなたの目には本物の指輪のように輝いて見えた。
---
ひなたはリビングのスピーカーからBGMを流し始めた。ネットで拾ったクラシック音楽が、厳かな雰囲気を演出する。彼女はぬいぐるみたちを「観客」として整列させ、悠真を部屋の中央に立たせた。ひなた自身は、白いワンピースにティッシュのベールを揺らし、まるで本物の花嫁のような仕草で歩み寄った。
「パパ、準備できた? 結婚式、始めるよ!」
悠真はひなたの真剣さに押され、苦笑しながら頷いた。
「ハハ、よし、じゃあパパもちゃんとやるよ。どんな式にするんだ?」
ひなたは小さなノートを取り出し、そこに書かれた「式次第」を読み上げ始めた。彼女の声は子供らしい無垢さに満ちていたが、その内容は異様に本格的だった。
「えっと、まず、ひなたがパパに誓いの言葉を言うね。パパも、ちゃんと答えてね!」
彼女はノートを手に、胸の前で手を組み、目を閉じて深呼吸した。まるで本物の結婚式の花嫁のように、ひなたは厳かに口を開いた。
「ひなたは、パパをずーっと愛することを誓います。どんなことがあっても、パパを守って、幸せにするよ。パパは、ひなたのことを愛してくれる?」
悠真はひなたの真剣な瞳に圧倒され、笑顔で応じた。
「ハハ、誓うよ。ひなたのこと、ずーっと大好きだ。パパの宝物だからな」
その言葉は、子供の遊びに応じる軽い気持ちだった。だが、ひなたの心には、その言葉が重く響いた。彼女の瞳が一瞬輝き、まるで勝利を確信したような笑みが広がった。
「ほんと? パパ、誓ったんだから! これで、パパはひなたのものだよ!」
ひなたは手作りのリングを悠真の指に押し込み、自分の指にも同じリングをはめた。彼女はぬいぐるみたちに向かって手を振り、「みんな、拍手!」と叫んだ。まるで本物の結婚式のクライマックスを迎えたかのように、ひなたは満面の笑みで悠真に抱きついた。
「パパ、結婚おめでとう! これで、ひなたとパパは夫婦だね!」
悠真は笑いながらひなたを抱き返したが、胸の奥で小さな違和感が波打っていた。ひなたの言葉は、子供の遊びの域を超え、どこか異常な執着を感じさせた。
---
式の後、ひなたはリビングでケーキを切り、悠真と二人で食べた。彼女が学校の家庭科で作ったというチョコレートケーキは、見た目は素朴だが、ひなたの努力が詰まっていた。
「パパ、美味しい? ひなた、奥さんとして頑張ったんだから!」
悠真はケーキを頬張り、ひなたの頭を撫でた。
「めっちゃ美味しいよ。ひなた、ほんとすごいな。パパ、幸せ者だ」
ひなたは目を細め、悠真の手を握った。
「うん、パパが幸せなら、ひなたも幸せ! これからも、ずーっとこうだよ。ママなんかいらないよね?」
その言葉に、悠真の笑顔が一瞬凍りついた。彼は由紀恵のことを思い出し、胸が締め付けられた。別居してから、彼女との連絡は途絶え、ひなたが由紀恵のメッセージをブロックしていることも知らない。悠真はひなたの言葉を軽く流した。
「ハハ、ママもひなたのこと大好きだぞ。いつか、また三人で…」
だが、ひなたは悠真の言葉を遮るように、強く手を握った。
「ううん、パパ。ひなただけでいいよね。パパとひなた、ふたりだけの家でいいよね?」
その瞳は、まるで悠真以外の世界を拒絶するように輝いていた。悠真は曖昧に笑い、話題を変えた。だが、彼の心は、ひなたの異常な執着に気づき始めていた。
---
その夜、ひなたは自室でぬいぐるみを抱きながら、鏡に映る自分を見つめた。白いワンピースとティッシュのベールは、彼女を小さな花嫁に変えていた。彼女は手作りのリングを指に撫で、そっと呟いた。
「パパは私のもの。これで、誰も邪魔できない…」
彼女の心は、結婚式の成功で確信に満ちていた。悠真の「誓うよ」という言葉は、彼女にとって永遠の約束だった。ひなたはスマホを取り出し、由紀恵のSNSをチェックした。母の投稿は減り、疲れた笑顔の写真が目立つ。ひなたの唇が歪み、冷たく笑った。
「ママ、諦めてよね。パパは、ひなたの夫なんだから」
一方、悠真はリビングで一人、ビールを飲みながら考え込んでいた。ひなたの「結婚式」は、子供の遊びとしてはあまりに本格的だった。彼女の笑顔は無垢で愛らしいのに、なぜか息苦しさを感じる。悠真は由紀恵に連絡しようかとスマホを手に取ったが、ひなたの「ママなんかいらない」という言葉が頭をよぎり、手が止まった。
ひなたの愛は、まるで彼を閉じ込める檻のようだった。彼女の瞳に宿る光は、純粋な愛を超え、異常な執着へと変わりつつあった。悠真はまだそのことに気づかず、ただ娘の笑顔に癒される日々を続けていた。だが、ひなたの心は、父以外の世界を完全に遮断し、ふたりだけの家を永遠のものにしようとしていた。
リビングの装飾は、ひなたの夢の結晶だった。ぬいぐるみたちは、彼女の「結婚式」の証人として、静かに微笑んでいるようだった。だが、その微笑みは、どこか不気味で、悠真とひなたの未来に暗い影を落としていた。