目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第9話 幸せな結末(娘にとって):ふたりだけの世界

冬の終わりが近づき、東京の街は冷たい風に震えていた。悠真とひなたの住むマンションは、まるで外界から切り離された要塞のように静まり返っていた。リビングの窓は厚いカーテンで閉ざされ、かつて家族の笑い声が響いた部屋は、今やひなたの支配する空間と化していた。悠真の心と体は、過労とひなたの異常な愛に蝕まれ、かつての活気は影を潜めていた。


悠真は会社を退職していた。過労で倒れた後、医者の忠告を無視して仕事に復帰したものの、ひなたの強い懇願に負け、ついに職場を去った。  

「パパ、仕事なんてしなくていいよ。ひなたがパパのこと、全部守るから。家にいようよ、ずっと一緒にいようよ!」  

ひなたの涙ながらの訴えに、悠真は抵抗できなかった。彼の心は、娘の笑顔に依存し、彼女の言葉に縛られていた。会社からの電話は無視され、同僚からのメッセージも未読のまま溜まっていく。悠真は、ひなたの作る小さな世界に閉じこもることを選んだ。


学校からの連絡も途絶えていた。ひなたの担任、佐藤先生は何度も電話をかけたが、悠真は応じなかった。  

「悠真さん、ひなたちゃんの登校が途絶えています。家で何かあったんですか? 面談をお願いしたいのですが…」  

留守番電話に残された先生の声は、ひなたによって削除された。彼女は悠真のスマホを手に取り、連絡先を一つずつブロックし、ついには電源を切った。そして、ある夜、彼女は悠真が寝ている間にスマホをハンマーで叩き壊した。プラスチックの破片が床に散らばる音が、静かな部屋に響いた。  


朝、悠真がスマホの破損に気づいたとき、ひなたは無垢な笑顔で言った。  

「パパ、ごめんね! 間違って落としちゃって…でも、スマホなんかいらないよね? ひなたがいるんだから、誰とも話さなくていいよね?」  

彼女の声は明るく、まるで子供の無邪気な失敗を告白するようだった。悠真は一瞬眉をひそめたが、ひなたの笑顔に押し切られ、ため息をついた。  

「ハハ、まあ、いいか。新しいの買うのも面倒だしな…」  

彼はそう呟き、ひなたの頭を撫でた。だが、その瞬間、彼の心に小さな警告が鳴った。ひなたの行動は、ただの子供のいたずらではないのかもしれない。  


---


ひなたは、悠真を外の世界から完全に切り離すことに執念を燃やしていた。彼女は家のドアに新しい鍵を取り付け、宅配便の受け取りも自分で済ませた。郵便物はすべて開封し、由紀恵や学校からの手紙はシュレッダーにかけられた。ひなたは悠真に笑顔で告げた。  

「パパ、誰とも話しちゃだめだよ。ひなただけ見てて。わたしたち、ふたりだけでいいよね?」  

その言葉は、まるで呪文のように悠真の心に絡みついた。彼はひなたの瞳を見つめ、曖昧に頷いた。  

「ああ、ひなたと一緒なら、パパはそれでいいよ」  

ひなたの顔がパッと輝き、彼女は悠真に抱きついた。  

「やった! パパ、ひなた、幸せだよ! これで、誰も邪魔しないね!」  


悠真の生活は、ひなたを中心に回り始めた。朝はひなたが作る朝食で目を覚まし、昼は彼女と一緒にテレビを見ながら過ごす。夜はひなたの手料理を食べ、彼女の歌う子守唄で眠りにつく。外界との接触は完全に絶たれ、悠真はひなたの作った小さな世界に閉じこもった。  


ある日、近隣の住民が不審に思い、マンションの管理人に相談した。  

「最近、悠真さんの家、静かすぎるよね。カーテンもずっと閉まってて、ひなたちゃんも学校に来てないみたいだし…」  

管理人がドアをノックしたが、応答はなかった。ひなたはドアの内側で息を潜め、悠真に囁いた。  

「パパ、誰か来たけど、無視でいいよね? わたしたち、ふたりだけで十分だもん」  

悠真はソファに座り、ぼんやりと頷いた。彼の目は虚ろで、かつての活力は失われていた。ひなたの笑顔だけが、彼の心を繋ぎ止める唯一の光だった。


---


ひなたは、悠真を完全に自分のものにするために、細心の注意を払っていた。彼女は学校の教科書を捨て、代わりに料理本や裁縫の本を読み漁った。彼女の小さな手は、毎日家事をこなし、悠真の生活を支えた。彼女は悠真の服を洗い、部屋を掃除し、食事を作った。その全てが、彼女の「パパの奥さん」としての役割を果たすための儀式だった。


ある夜、ひなたはリビングで悠真に絵本を読み聞かせていた。彼女の声は優しく、まるで母が子に語るような温かさに満ちていた。だが、絵本の内容は、彼女が自分で書き換えたものだった。  

「そして、王子様とお姫様は、誰もいないお城で幸せに暮らした。誰にも邪魔されず、ふたりだけで…ずっと、ずっとね」  

悠真は眠そうに目を細め、ひなたの声に耳を傾けた。  

「ひなた、いい話だな…パパ、眠くなってきたよ」  

ひなたは微笑み、悠真の頬にそっとキスをした。  

「パパ、ひなたがずっとそばにいるから。夢の中でも、ふたりだけだよ」  


悠真の心は、ひなたの愛に縛られていた。彼は由紀恵のことを思い出すたび、胸が締め付けられたが、ひなたの笑顔がその痛みを塗りつぶした。彼女の愛は、まるで甘い毒のように、悠真の抵抗力を奪っていった。  


ひなたは、悠真のスマホを壊した夜、別の秘密のスマホを取り出した。彼女は匿名アカウントを使い、由紀恵や学校、近隣住民に偽のメッセージを送り続けていた。  

「悠真さんとひなたちゃんは、引っ越しました。もう連絡しないでください」  

そのメッセージは、誰もが二人の行方を追うのを諦めさせるのに十分だった。ひなたは、ふたりだけの世界を完璧に守るため、すべての橋を焼き払った。


悠真は、ひなたの作った檻の中で、徐々に感覚を失っていった。彼の目は、かつての輝きを失い、ひなたの笑顔だけを追い求めるようになった。ひなたはそんな父を見つめ、満足げに微笑んだ。  

「パパ、ひなただけでいいよね。これで、ずっと幸せだよ…」  

その声は、まるで呪文のように、閉ざされた部屋に響き続けた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?