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第1章:空の騎士ネイト

第10話 楽園

目覚めたとき、セレフィーナは何も知らなかった。


自分が誰なのか。どこから来たのか。

そのすべてが、深い霧の奥に隠されていた。


けれど、不思議と恐くはなかった。

彼女のまわりには、どこまでも広がる白い大地。

澄みきった空には雲ひとつなく、風も音もない。

ただ、ひたすらに優しい静寂が広がっていた。


何もないその世界で、セレフィーナはひとり、空を眺めていた。

朝の色も、夕暮れの色もわからない空。

けれどその空は、なぜか懐かしい色をしていた。


時おり、足元にひとつまみの色が落ちている。

小さな花の芽だ。淡い黄色、やわらかな青、優しい桃色――

彼女がそれに目を向けると、まるで応えるように花はそっと咲いた。


水は甘く、きのみはやわらかい。

時間はゆるやかに、穏やかに流れていく。


やがて、大地は彼女の心のように、少しずつ色づいていった。

ふわりと風に舞う花びら。見上げれば、桜の木が静かに揺れている。

枝には小鳥が羽を休め、足元にはリスやウサギたちが跳ねまわっていた。


セレフィーナの歩いた跡に、花が咲く。

彼女が眠れば、その夢に応えるように草原が広がる。


まるで世界そのものが、彼女を抱きしめてくれているようだった。


これは――

誰にも傷つけられず、誰も傷つけることのない、

たったひとりの乙女が夢見た、優しい、優しい世界。


名も、記憶も、痛みも要らない。

ただ「在る」だけで、世界は彼女に微笑みかけてくれる。


今日もセレフィーナは、小さなきのみを手に、空を仰ぐ。


何も知らなくていい。

それでも彼女の頬に、風はやわらかく触れた。


それはまるで――

彼女の心が、ようやく「生きている」とつぶやいた瞬間のようだった。


「きれい…」


その一言は、セレフィーナがこの世界で初めて心から発した言葉だった。

祈りのように、吐息のように、静かに空へと溶けていった。


ここがどこなのか。自分が誰だったのか。

思い出せない。それでも――


この光に満ちた世界は、どこかでずっと夢見ていた気がする。

いつか眠るたびに、心の奥で憧れていた遠い夢のように。


花の香りを運ぶ風が、ふとその流れを変える。

木々の隙間から、やわらかな光が差し込んだ。


そして、優しい声が響いた。


「これが君が夢見た世界なんだね」


その声は、胸の奥にそっと触れてきた。

懐かしく、あたたかく、心の扉をやさしくノックするような響きだった。


セレフィーナははっとして振り返る。


そこに立っていたのは――白い翼を持つ、美しい青年だった。

銀色の髪は光を受けて柔らかく揺れ、空色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。

その姿は、まるで天から舞い降りた幻想――

ペガサスの化身のように、神聖で、どこまでも静謐な存在だった。


「やっと見つけたよ。僕の乙女」


その声は、時の止まったこの世界で、確かに響いた。

名を呼ぶ代わりに、彼は彼女の心そのものを包み込むように語った。


セレフィーナの胸に、かすかな波紋が広がる。

遠い記憶のどこかで眠っていた何かが、静かに目を覚ましかけていた――。



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