目覚めたとき、セレフィーナは何も知らなかった。
自分が誰なのか。どこから来たのか。
そのすべてが、深い霧の奥に隠されていた。
けれど、不思議と恐くはなかった。
彼女のまわりには、どこまでも広がる白い大地。
澄みきった空には雲ひとつなく、風も音もない。
ただ、ひたすらに優しい静寂が広がっていた。
何もないその世界で、セレフィーナはひとり、空を眺めていた。
朝の色も、夕暮れの色もわからない空。
けれどその空は、なぜか懐かしい色をしていた。
時おり、足元にひとつまみの色が落ちている。
小さな花の芽だ。淡い黄色、やわらかな青、優しい桃色――
彼女がそれに目を向けると、まるで応えるように花はそっと咲いた。
水は甘く、きのみはやわらかい。
時間はゆるやかに、穏やかに流れていく。
やがて、大地は彼女の心のように、少しずつ色づいていった。
ふわりと風に舞う花びら。見上げれば、桜の木が静かに揺れている。
枝には小鳥が羽を休め、足元にはリスやウサギたちが跳ねまわっていた。
セレフィーナの歩いた跡に、花が咲く。
彼女が眠れば、その夢に応えるように草原が広がる。
まるで世界そのものが、彼女を抱きしめてくれているようだった。
これは――
誰にも傷つけられず、誰も傷つけることのない、
たったひとりの乙女が夢見た、優しい、優しい世界。
名も、記憶も、痛みも要らない。
ただ「在る」だけで、世界は彼女に微笑みかけてくれる。
今日もセレフィーナは、小さなきのみを手に、空を仰ぐ。
何も知らなくていい。
それでも彼女の頬に、風はやわらかく触れた。
それはまるで――
彼女の心が、ようやく「生きている」とつぶやいた瞬間のようだった。
「きれい…」
その一言は、セレフィーナがこの世界で初めて心から発した言葉だった。
祈りのように、吐息のように、静かに空へと溶けていった。
ここがどこなのか。自分が誰だったのか。
思い出せない。それでも――
この光に満ちた世界は、どこかでずっと夢見ていた気がする。
いつか眠るたびに、心の奥で憧れていた遠い夢のように。
花の香りを運ぶ風が、ふとその流れを変える。
木々の隙間から、やわらかな光が差し込んだ。
そして、優しい声が響いた。
「これが君が夢見た世界なんだね」
その声は、胸の奥にそっと触れてきた。
懐かしく、あたたかく、心の扉をやさしくノックするような響きだった。
セレフィーナははっとして振り返る。
そこに立っていたのは――白い翼を持つ、美しい青年だった。
銀色の髪は光を受けて柔らかく揺れ、空色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。
その姿は、まるで天から舞い降りた幻想――
ペガサスの化身のように、神聖で、どこまでも静謐な存在だった。
「やっと見つけたよ。僕の乙女」
その声は、時の止まったこの世界で、確かに響いた。
名を呼ぶ代わりに、彼は彼女の心そのものを包み込むように語った。
セレフィーナの胸に、かすかな波紋が広がる。
遠い記憶のどこかで眠っていた何かが、静かに目を覚ましかけていた――。