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第11話 はじめて、触れた

「あなたは……誰?」


セレフィーナは足を止め、恐る恐る問いかけた。

その声には、わずかな震えとともに、心の奥から湧き上がる不安が滲んでいた。


ネイトは、微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女に近づいた。

その笑顔は穏やかで、まるですべての時間が彼の周りで静かに流れているようだった。


そして、何かを捧げるように片膝をつき、セレフィーナの前に跪いた。


「僕の名は、ネイト。空を駆ける白き翼の者――」


その声は優しく、穏やかに響いた。

でも、どこか遠くから来たような、そんな気がした。彼が言った言葉は、ただの紹介ではなく、まるで何か大きな意味を持っているように感じられた。


ネイトはひと呼吸おいてから、足元の花びらを見つめながら、再び目を彼女に向ける。


「けれど、今はただの旅人だよ。

この世界を彷徨っている途中で――君という、不思議な乙女に出会った。」


その言葉に、セレフィーナの心はわずかに震えた。

旅人――彼の口からこぼれるその言葉が、なんだか優しくて温かい、けれどどこか切ない響きがした。


そして、彼が彼女を見つめるその目に、ただ好奇心だけでなく、何かしらの深い思慮が含まれているように感じた。


「君のことを、もっと知りたい。

何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか――」


その瞳の奥には、言葉にできない何かが隠れているようで、セレフィーナは一瞬息を呑んだ。


「でも、無理に話さなくていい。

こうして君と出逢えただけで十分なんだ。」


声は低く、澄んでいた。響きは風と溶け合い、空に溶けていく。


セレフィーナは一瞬、目を伏せた。

自分のことを知らない。そのことに、深い孤独を感じていた。セレフィーナは、そのまま胸に手を当てた。

そして、かすかに震える唇で言った。


「ネイト……私のことを知りたいって言っていたけど、

私も、自分のことがよくわからないの……名前すら、思い出せない。」


その言葉は、どこか寂しげに響いたが、それと同時に新しい希望のようにも感じられた。

それに対して、ネイトは静かにうなずいた。


「君には、美しい名前があるよ。」


そう言ってネイトが一歩、近づいた瞬間。

ふわりと舞い降りる花びら。桜の花が二人の間にやさしく降る。


「セレフィーナ――それが、君の名前だ。」


セレフィーナはその名前を聞いた瞬間、何かが心にひっかかるような気がした。

それは悲しみでもなく、喜びでもない。むしろ、名前がどこか懐かしい気がして、心が温かくなるような感覚だった。


「セレフィーナ……」

その名前を、彼女は小さく呟く。


そのときだった。

ネイトの瞳がやさしく細められ、ふっと風が頬を撫でた。


彼は迷いなく、そっとセレフィーナの手を取る。

その手は暖かく、包み込むように、彼女の手を重ねた。


「あっ…」


触れられたその瞬間、セレフィーナは小さく声をもらし、思わず手を引いた。


驚いた、というよりも――ただ反射的に。

目の前の青年は、穏やかな眼差しを向けてはいたけれど、彼女にとってはまだ名前を知ったばかりの「誰か」にすぎなかった。


誰かに触れられること。

それがこんなにも突然で、こんなにも近くて――


セレフィーナは自分の胸のあたりで、そっと手を抱えるようにして下がった。身体は強張り、目線は揺れていた。


「ごめんなさい…」

かすかに震える声が、思わず漏れる。


ネイトは、少しも動揺することなく、ただ一歩も踏み出さずにそこに立っていた。彼の表情は変わらず穏やかで、けれどそれ以上は何も言わなかった。


風が、静かに間を埋める。


セレフィーナは少しだけ俯いたまま、そっとネイトを見た。

警戒と、不安と、けれどほんのわずかに――好奇心。


そのすべてが、彼女の大きな瞳の中で、まだ名も知らぬ感情として揺れていた。


「また、君に会いに来てもいい?」


セレフィーナは、すぐには答えられなかった。

「うん」とも「だめ」とも――言葉にならない気持ちが、喉の奥で絡まっていた。


ただ、彼の問いかけに込められたやさしさだけは、胸の奥にしっかりと届いていた。

だから彼女は、ほんの少しだけ――首を縦に動かした。


まるで風に揺れる花のように、かすかに、けれど確かに。


それだけで、ネイトはクスリと、風に溶ける様に微笑んだ。



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