「あなたは……誰?」
セレフィーナは足を止め、恐る恐る問いかけた。
その声には、わずかな震えとともに、心の奥から湧き上がる不安が滲んでいた。
ネイトは、微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女に近づいた。
その笑顔は穏やかで、まるですべての時間が彼の周りで静かに流れているようだった。
そして、何かを捧げるように片膝をつき、セレフィーナの前に跪いた。
「僕の名は、ネイト。空を駆ける白き翼の者――」
その声は優しく、穏やかに響いた。
でも、どこか遠くから来たような、そんな気がした。彼が言った言葉は、ただの紹介ではなく、まるで何か大きな意味を持っているように感じられた。
ネイトはひと呼吸おいてから、足元の花びらを見つめながら、再び目を彼女に向ける。
「けれど、今はただの旅人だよ。
この世界を彷徨っている途中で――君という、不思議な乙女に出会った。」
その言葉に、セレフィーナの心はわずかに震えた。
旅人――彼の口からこぼれるその言葉が、なんだか優しくて温かい、けれどどこか切ない響きがした。
そして、彼が彼女を見つめるその目に、ただ好奇心だけでなく、何かしらの深い思慮が含まれているように感じた。
「君のことを、もっと知りたい。
何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか――」
その瞳の奥には、言葉にできない何かが隠れているようで、セレフィーナは一瞬息を呑んだ。
「でも、無理に話さなくていい。
こうして君と出逢えただけで十分なんだ。」
声は低く、澄んでいた。響きは風と溶け合い、空に溶けていく。
セレフィーナは一瞬、目を伏せた。
自分のことを知らない。そのことに、深い孤独を感じていた。セレフィーナは、そのまま胸に手を当てた。
そして、かすかに震える唇で言った。
「ネイト……私のことを知りたいって言っていたけど、
私も、自分のことがよくわからないの……名前すら、思い出せない。」
その言葉は、どこか寂しげに響いたが、それと同時に新しい希望のようにも感じられた。
それに対して、ネイトは静かにうなずいた。
「君には、美しい名前があるよ。」
そう言ってネイトが一歩、近づいた瞬間。
ふわりと舞い降りる花びら。桜の花が二人の間にやさしく降る。
「セレフィーナ――それが、君の名前だ。」
セレフィーナはその名前を聞いた瞬間、何かが心にひっかかるような気がした。
それは悲しみでもなく、喜びでもない。むしろ、名前がどこか懐かしい気がして、心が温かくなるような感覚だった。
「セレフィーナ……」
その名前を、彼女は小さく呟く。
そのときだった。
ネイトの瞳がやさしく細められ、ふっと風が頬を撫でた。
彼は迷いなく、そっとセレフィーナの手を取る。
その手は暖かく、包み込むように、彼女の手を重ねた。
「あっ…」
触れられたその瞬間、セレフィーナは小さく声をもらし、思わず手を引いた。
驚いた、というよりも――ただ反射的に。
目の前の青年は、穏やかな眼差しを向けてはいたけれど、彼女にとってはまだ名前を知ったばかりの「誰か」にすぎなかった。
誰かに触れられること。
それがこんなにも突然で、こんなにも近くて――
セレフィーナは自分の胸のあたりで、そっと手を抱えるようにして下がった。身体は強張り、目線は揺れていた。
「ごめんなさい…」
かすかに震える声が、思わず漏れる。
ネイトは、少しも動揺することなく、ただ一歩も踏み出さずにそこに立っていた。彼の表情は変わらず穏やかで、けれどそれ以上は何も言わなかった。
風が、静かに間を埋める。
セレフィーナは少しだけ俯いたまま、そっとネイトを見た。
警戒と、不安と、けれどほんのわずかに――好奇心。
そのすべてが、彼女の大きな瞳の中で、まだ名も知らぬ感情として揺れていた。
「また、君に会いに来てもいい?」
セレフィーナは、すぐには答えられなかった。
「うん」とも「だめ」とも――言葉にならない気持ちが、喉の奥で絡まっていた。
ただ、彼の問いかけに込められたやさしさだけは、胸の奥にしっかりと届いていた。
だから彼女は、ほんの少しだけ――首を縦に動かした。
まるで風に揺れる花のように、かすかに、けれど確かに。
それだけで、ネイトはクスリと、風に溶ける様に微笑んだ。