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第12話 羽音もなく、君は

セレフィーナの心ではあの日の出来事が新芽のように芽吹いていた。


ネイトと出逢ったあの日、風に舞う花びらの優しさが、今も胸の奥で揺れている。彼の名を思い出すたび、胸のどこかがそわそわと疼き、そっと頬に手を添えることさえあった。


ぱさり、と一枚の白い布を地面に脱ぎ捨てる。


今日は、森の奥にある静かな池のほとりで、セレフィーナは一人、水と戯れていた。


陽の光が水面にやさしく降り注ぎ、木漏れ日がきらきらと踊っている。痩せこけていたはずの身体には、生命力が戻り、肌には柔らかな色が宿っていた。頬はほんのりと桃色に染まり、水にぬれた長い髪を指先でそっと解きながら、セレフィーナは息をついた。


「……これが…私…」


誰に言うでもなく、彼女はそっと囁いた。鏡のような水面に映る自分は、知らない顔をしていた。かつての影を忘れようとしているように、風に髪をなびかせて。


そのとき――


ふわり、と風が変わる。


空から、眩しい光をまとった影が降りてきた。羽音もなく、けれど確かな存在感をもって。


純白の翼、銀のたてがみ、そして澄んだ瞳を持つ一頭のペガサスが、池のそばに舞い降りた。


セレフィーナは目を見張り、思わず水から身を引いた。けれど、ペガサスはおだやかに首を垂れ、まるで「心配はいらない」と語りかけるように、静かに佇んでいた。


彼女の目に、どこかネイトの気配が重なる。


「あなた……ネイトなの……?」


そう呟いた瞬間、ペガサスは風をまとうようにたてがみを揺らし、ひとつ、やさしくいなないた。


セレフィーナは水辺に膝をつき、そっと手を伸ばす。

その指先に、ふわりとぬくもりが触れた瞬間――

あの日の記憶が、胸の奥でふたたび花開いた。


セレフィーナは、水辺に立つペガサスのもとへ、そっと歩み寄った。


その瞳の奥に宿る何かが――どうしても、彼女には懐かしく思えてならなかった。光の粒のような空気が漂うなか、彼女は震える声で言葉を紡ぐ。


「……ネイト?」


セレフィーナがその名を呼んだ瞬間。


ペガサスの身体に、まるで風が巻き起こるようなきらめきが走った。白銀の翼が一瞬ふわりと広がり、光の粒が彼の身体を包み、白銀の毛並みが肌へと変わってゆく。次の瞬間にはその場に、人の姿をした青年が現れていた。


「わっ……!?」


バシャーン!


変身が解けた衝撃と、地に足がついていなかったせいで、ネイトはそのまま池の中へと尻もちをついた。思い切り水飛沫をあげ、あっという間に全身が水浸しになってしまう。


「~~~っっ……っ!?」


セレフィーナが驚いたように目を見開き、濡れたネイトを見つめていた。


そして次の瞬間。


彼の目線が、ゆっくりと彼女の方へと移る――


……そこには、水を滴らせながら立ち尽くす、セレフィーナの姿。


透き通る肌。濡れた長い髪が肩をつたって滴り落ち、胸元にはうっすらと、まだ幼さの残る柔らかな膨らみ。水のヴェールを纏った柔らかく白い肌。

その姿は、無垢であるがゆえに、視線を向けることさえためらわれる。


美しさの中に潜む、触れてはならないもののようで――思わず目を逸らしたくなる、そんな罪の匂いがした。


「~~~~っっっ!!!」


「わ、ご、ごめん!! こ、これは、ちがうっ、違うんです!!!」


ネイトは顔を真っ赤にしながら、バシャバシャと慌てて水から飛びのこうとしたが、足が滑ってふたたび水の中へ沈みかけた。


「セレフィーナ!ちがっ…っ、あの、それは――いや、なんで変身が溶けたんだ?!……えっと…あの……なにも見てないですからね!!!」


セレフィーナは、そんなネイトの慌てふためく姿をぽかんと見つめていたが、次第に頬を赤らめ、思わず口元に手を当てて微笑んだ。


「……かわいい」


ぽつりと、そう呟いたその言葉に――ネイトはまるで雷に打たれたかのように固まり、次の瞬間、頭まで真っ赤にして池の中に沈み込んだ。


「……………いっそ溺れてしまいたい……」


水面に浮かぶその呟きに、木漏れ日が優しくきらめいた。


ネイトが水面に沈みかけたその瞬間、セレフィーナは小さく身を乗り出した。


「だ、大丈夫……?」


自分のせいで彼がこんなに慌てているのだと思うと、胸がきゅっと締めつけられるようだった。水辺に膝をつき、セレフィーナはそっと手を伸ばす。


その指先がネイトの濡れた前髪に触れかけたとき――


「やっ、やめっ……それ以上近寄らないでくださいっっ!!」


ネイトが水しぶきを上げて反射的にのけぞった。

あまりに真っ赤な顔のまま、彼は目をぎゅっと閉じて、まるで思春期最中の少年のような神経質さで顔をそむける。


「ごめんなさいっ!……っていうか!タオル!布!服!!服が必要ですね…!!!」


ネイトはまくしたてながら、両手で自分の視界を塞ぎ、池の中で水に肩まで浸かってぷるぷる震えていた。


その様子に、セレフィーナはぽかんとして、次第にくすくすと笑い始めた。


「ふふっ……」

彼の反応があまりに極端で、なんだかおかしくなってしまったのだ。


そしてふと、自分の状態に気づく。濡れた肌、露になった肩、そしてネイトの戸惑いの理由――


「……っ!」


セレフィーナははっとして、顔を真っ赤に染めながら、慌てて水にしゃがみ込んだ。髪を胸元にかき集め、視線を泳がせながらも、ふと、ネイトの方をちらりと見やる。


「……そんなに、変だった?」


その声は小さく、揺れていた。不安と照れと、ほんの少しの好奇心が入り混じって。


ネイトは肩まで水に浸かったまま、目を伏せて必死に冷静を装っていたが、彼女の問いには――真面目すぎるほど真剣に、こくりと頷いた。


「……変とか、そうのではなくて……混乱したんです……ペガサスになって貴女に会いに来たと思ったら突然変身がとけてしまい。…その…貴女は、裸じゃないですか…」


その言葉に、セレフィーナはまたそっと口元を押さえた。


「……ええと……水浴びをしていたのよ。服も、あれしか…なくて……」


ネイトは困ったように後ろを向くと、自身の濡れた服の裾を絞りながら言葉を発した。


「では貴女に服を用意しましょう。……そっと会いに来たつもりなのに、僕の変身が解けてしまい驚かせてしまい…すみませんでした…」


「ネイトはペガサスになれるの?」


「…はい。でも貴女に見つめられて名前を呼ばれて…突然変身が溶けてしまったようです。不思議ですけど…困りますね。…心臓に悪いです」


「……ねえ、ネイト、ペガサスはその翼でどこへでも飛んでいけるの?」


セレフィーナの赤い瞳が揺れる。


「はい、どこまでも。ご希望とあれば、背中にお乗せ致しますよ」


「ええ、じゃあ、お願い…」


その言葉が口からこぼれ落ちた瞬間、セレフィーナの胸の奥で、なにかがそっと震えた。


……お願い、だなんて。私が……誰かに……


気づかぬうちに口にしたその響きに、セレフィーナは自分自身に驚いていた。


「勿論です。貴女のお洋服をご用意することも、僕の背中に乗せることも、お約束します」


「約束…」


ネイトの言葉に、セレフィーナはそっと目を伏せた。

頬を染めながら、心の奥に芽吹いた想いが、静かに花を咲かせていく。


水辺には、ふたりだけの秘密が揺れていた。

それはまだ名前のない、やわらかな気持ち。


そして風が、またふたりの髪をなでていった。

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