ネイトが去った森は、静けさを取り戻していた。
けれどセレフィーナの胸の内には、今も彼の気配が微かに残っている。
水面に揺れる記憶のように、それはやさしく、時折胸をくすぐる。
彼は言った。「約束」と。
その言葉に、どうしようもなく胸が熱くなった。
だがそれだけでは足りない、と、ふと思う。
「私も……なにか、できるようになりたい」
ぽつりとこぼした声が、森の奥に吸い込まれていった。
そのときだった。
――カサッ。
木の葉を踏む音。
セレフィーナが振り返ると、そこにはひとりの老婆が立っていた。
どこか懐かしい、優しい雰囲気。しかし何も思い出せないまま、記憶とは交わらない。
しわくちゃの顔に、知恵と年輪を宿した金色の瞳。
体には草木の模様が縫いこまれた古びたマントをまとっている。
「こんにちは、お嬢ちゃん」
セレフィーナは驚きに目を見開いた。
「あなたは……?」
老婆はにやりと笑った。
「名は要らぬ。けれど、あんたに必要な“針”と“糸”は持っておるよ。裂けたものを縫い、失せたものを繕う。――心も、布も、な」
老婆はポケットから、木の枝でできた針と、光る蜘蛛の糸のような細い糸を取り出した。
「これが“森の裁縫道具”。教えてやろう。服の作り方だけじゃない。あんたが、どれだけ自分を繕えるか、見てやろうじゃないか」
セレフィーナは吸い寄せられるように頷いた。
森の奥深く、小さな小屋。
そこに暮らす老婆と、キノコや木の枝に似た格好の、言葉を話す小さな妖精たち。
「布は草から取るんだよ。ほら、ミモザの葉っぱをこすって、繊維を取るのさ!」
「セレフィーナって、意外と不器用~!」
「こ、こうかしら……。あっ、痛っ…」
何度も針で指を刺した。
布はゆがみ、糸は絡まり、笑われてばかりの日々。
けれど、それでも不思議と心は軽くなっていった。
ミシンも無ければ型紙もない。
けれど、そこには“気持ち”があった。
「大切なのは、形じゃない。縫い目に、思いを込めるんじゃ」
老婆のその言葉を胸に、セレフィーナは初めての服を縫い上げた。
「セレフィーナ、そろそろお茶にしよう〜」
妖精たちがセレフィーナのまわりをうろちょろし、彼女の周囲をくすぐる。
笑い声が小屋から漏れる。
暖かい日差しに、優しくそよぐ風。
花びらが舞うその森の奥で、セレフィーナはゆっくりと時を紡ぎ始める。
――そして、そのとき空の彼方で、銀の翼が風を切った。
ネイトが、王国で“彼女のためのドレス”を探し求めているとは、まだ知らないままに。
はるか空の王都は、春の陽光に包まれていた。
高き城壁に守られたこの都は、かつてネイトが生まれ育った場所。
そして今や、ペガサスの騎士として名を馳せる彼にとって、あまりにも馴染み深い“義務”の地だった。
「……久しぶりだな」
空からゆっくりと降り立つと、見張りの衛兵たちがざわめいた。
「ネイト様、お戻りに! お戻りに……!」
人々が集まり、敬礼し、そして口々に讃える。
けれどネイトはそれに応えず、静かに城門をくぐった。
胸の奥にあるのは、ひとつの想いだけ。
――セレフィーナに、ふさわしいドレスを。
彼は王国随一の仕立屋を訪れた。
店主は年老いたエルフ。白銀の髭を蓄え、静かな眼差しを湛えていた。
「貴方の来訪は、風が教えてくれましたよ、ペガサスの若者よ。……今日は、誰のための衣ですか?」
ネイトは一瞬、言葉をためらった。
けれど――はっきりと答える。
「……ある乙女のために。今まで出会った事のない、あまりにも無垢で、まるで、初めて朝日を浴びて咲いたばかりの花のような、そんな女性への贈り物だ」
老仕立屋は、静かに頷いた。
「ならば、生地選びから始めましょう。言葉ではなく、心で選ぶのです。――彼女の色を」
ネイトは店の奥へと導かれた。
そこには、何百という布が並んでいた。
月の光を編んだような白。
風の匂いを帯びた薄青。
春先の野花のような淡紫。
彼の指が止まったのは、シルクで出来た純白のドレス。しぼられたウエストの部分から下には、繊細に、桜の刺繍が丁寧に施してあった。
「おやおや、これを着た彼女を見てみたくなりましたか?」
「……ああ」
セレフィーナの姿を思い出して頬を染める。そしてこのドレスを纏ったらどんなに美しいことか。
ネイトの指先が、そっとその純白のドレスの裾を撫でた。
花びらのようにふわりと広がるスカート。
その一針一針には、誰かを想い、誰かを包むやさしさが宿っているようだった。
「これにしよう」
静かに告げたネイトの声は、どこか決意に満ちていた。
店主の老エルフは微笑む。
「貴方の想いが、きっと彼女の心を織り包むことでしょう。――布とは、そういうものです。衣を纏えば、人は少し、強くなれる」
ネイトは頷き、ドレスを抱えて店を後にした。
純白の衣を腕に、彼は再び空へと舞い上がる。
遥かなる森、あの少女の元へ。
“約束”の続きを果たすために。
その夜。
森の上空に、風がざわめく音がした。
妖精たちが顔を上げ、老婆が静かに呟いた。
「来たね、あの子のために。羽ばたいた、あの銀の子馬が――」
木々の間から差し込む月光の中に、ひときわ輝く銀の翼。
そして、静かに舞い降りるひとりの騎士。
腕には、ひとつの白き贈り物。
セレフィーナが扉を開けた瞬間、その目に映った彼の姿は、まるで夢のようだった。
「……ネイト」
「約束を、果たしに来た」
彼はそう言って、ドレスを差し出した。
セレフィーナの目が見開かれ、唇が小さく震える。
純白の布。
桜の刺繍。
それは、彼女が今まで見たどんな衣よりも、美しかった。
だけど――もっと美しかったのは、その服を「君のために」と届けに来た、ネイトのまなざしだった。
森の小屋に、静かな光が差し込んでいた。
ネイトの腕の中に抱かれていた純白のドレスは、まるで月光そのものを編んだように、柔らかく、透きとおるように輝いていた。
セレフィーナは、そのドレスを見つめたまま、言葉を失っていた。
「……着てみてほしい」
ネイトの声は、囁くように優しかった。
セレフィーナは、こくんと小さく頷くと、妖精たちに手伝われながら、奥の間へと消えていった。
やがて――
そっと扉が開かれる。
カタンと小さく音を立てて、セレフィーナが姿を現した。
それは、まるで森に咲いた一輪の幻。
腰のラインがしなやかに絞られたそのドレスは、繊細な桜の刺繍を抱きながら、裾でふわりと花びらのように広がっていた。森の光が反射して、布の一部が銀のようにきらめいている。
「……」
ネイトは、言葉を忘れていた。
ただ、見つめる。
目の前の少女が、あまりに眩しかった。
白いドレスに包まれたセレフィーナは、彼の記憶のどこにもいなかった新しい姿で、けれど心の奥でずっと夢見ていた“誰か”そのものだった。
「……きれいだ」
ぽつりと落ちたネイトの声に、セレフィーナがはっと顔を上げた。
「そ、そんな……っ」
彼女の頬が、たちまち桜色に染まる。
「あ、あの、変じゃない……ですか? 私、こんな綺麗なの、着慣れてないから……」
「変なはずがない。……誰よりも似合ってる。花の刺繍さえ、君のために咲いてるみたいだ」
ネイトが一歩、彼女に近づく。
セレフィーナは思わず後ずさりそうになったけれど、すぐに踏みとどまった。
なぜだろう――心のどこかで、このまま逃げたくないと思った。
「君は……すごいよ。前よりも、ずっと強くなった顔をしてる」
「え?」
「会うたびに思う。君は、ちゃんと、自分の足で歩いてる。だからこそ……このドレスは、今の君にこそ、ふさわしいんだ」
セレフィーナは、胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
言葉にできない想いが、体の奥からあふれてきそうだった。
「さあ、行こうか。僕の背中に乗って、世界を見せてあげる」