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第13話 白き約束

ネイトが去った森は、静けさを取り戻していた。

けれどセレフィーナの胸の内には、今も彼の気配が微かに残っている。

水面に揺れる記憶のように、それはやさしく、時折胸をくすぐる。


彼は言った。「約束」と。

その言葉に、どうしようもなく胸が熱くなった。


だがそれだけでは足りない、と、ふと思う。


「私も……なにか、できるようになりたい」


ぽつりとこぼした声が、森の奥に吸い込まれていった。


そのときだった。

――カサッ。


木の葉を踏む音。

セレフィーナが振り返ると、そこにはひとりの老婆が立っていた。


どこか懐かしい、優しい雰囲気。しかし何も思い出せないまま、記憶とは交わらない。


しわくちゃの顔に、知恵と年輪を宿した金色の瞳。

体には草木の模様が縫いこまれた古びたマントをまとっている。


「こんにちは、お嬢ちゃん」


セレフィーナは驚きに目を見開いた。


「あなたは……?」


老婆はにやりと笑った。


「名は要らぬ。けれど、あんたに必要な“針”と“糸”は持っておるよ。裂けたものを縫い、失せたものを繕う。――心も、布も、な」


老婆はポケットから、木の枝でできた針と、光る蜘蛛の糸のような細い糸を取り出した。


「これが“森の裁縫道具”。教えてやろう。服の作り方だけじゃない。あんたが、どれだけ自分を繕えるか、見てやろうじゃないか」


セレフィーナは吸い寄せられるように頷いた。


森の奥深く、小さな小屋。

そこに暮らす老婆と、キノコや木の枝に似た格好の、言葉を話す小さな妖精たち。


「布は草から取るんだよ。ほら、ミモザの葉っぱをこすって、繊維を取るのさ!」


「セレフィーナって、意外と不器用~!」


「こ、こうかしら……。あっ、痛っ…」


何度も針で指を刺した。

布はゆがみ、糸は絡まり、笑われてばかりの日々。

けれど、それでも不思議と心は軽くなっていった。


ミシンも無ければ型紙もない。

けれど、そこには“気持ち”があった。


「大切なのは、形じゃない。縫い目に、思いを込めるんじゃ」


老婆のその言葉を胸に、セレフィーナは初めての服を縫い上げた。


「セレフィーナ、そろそろお茶にしよう〜」


妖精たちがセレフィーナのまわりをうろちょろし、彼女の周囲をくすぐる。


笑い声が小屋から漏れる。

暖かい日差しに、優しくそよぐ風。

花びらが舞うその森の奥で、セレフィーナはゆっくりと時を紡ぎ始める。



――そして、そのとき空の彼方で、銀の翼が風を切った。


ネイトが、王国で“彼女のためのドレス”を探し求めているとは、まだ知らないままに。


はるか空の王都は、春の陽光に包まれていた。


高き城壁に守られたこの都は、かつてネイトが生まれ育った場所。

そして今や、ペガサスの騎士として名を馳せる彼にとって、あまりにも馴染み深い“義務”の地だった。


「……久しぶりだな」


空からゆっくりと降り立つと、見張りの衛兵たちがざわめいた。


「ネイト様、お戻りに! お戻りに……!」


人々が集まり、敬礼し、そして口々に讃える。

けれどネイトはそれに応えず、静かに城門をくぐった。


胸の奥にあるのは、ひとつの想いだけ。


――セレフィーナに、ふさわしいドレスを。


彼は王国随一の仕立屋を訪れた。


店主は年老いたエルフ。白銀の髭を蓄え、静かな眼差しを湛えていた。


「貴方の来訪は、風が教えてくれましたよ、ペガサスの若者よ。……今日は、誰のための衣ですか?」


ネイトは一瞬、言葉をためらった。


けれど――はっきりと答える。


「……ある乙女のために。今まで出会った事のない、あまりにも無垢で、まるで、初めて朝日を浴びて咲いたばかりの花のような、そんな女性への贈り物だ」


老仕立屋は、静かに頷いた。


「ならば、生地選びから始めましょう。言葉ではなく、心で選ぶのです。――彼女の色を」


ネイトは店の奥へと導かれた。


そこには、何百という布が並んでいた。

月の光を編んだような白。

風の匂いを帯びた薄青。

春先の野花のような淡紫。


彼の指が止まったのは、シルクで出来た純白のドレス。しぼられたウエストの部分から下には、繊細に、桜の刺繍が丁寧に施してあった。


「おやおや、これを着た彼女を見てみたくなりましたか?」


「……ああ」


セレフィーナの姿を思い出して頬を染める。そしてこのドレスを纏ったらどんなに美しいことか。


ネイトの指先が、そっとその純白のドレスの裾を撫でた。


花びらのようにふわりと広がるスカート。

その一針一針には、誰かを想い、誰かを包むやさしさが宿っているようだった。


「これにしよう」

静かに告げたネイトの声は、どこか決意に満ちていた。


店主の老エルフは微笑む。


「貴方の想いが、きっと彼女の心を織り包むことでしょう。――布とは、そういうものです。衣を纏えば、人は少し、強くなれる」


ネイトは頷き、ドレスを抱えて店を後にした。


純白の衣を腕に、彼は再び空へと舞い上がる。


遥かなる森、あの少女の元へ。

“約束”の続きを果たすために。


その夜。


森の上空に、風がざわめく音がした。


妖精たちが顔を上げ、老婆が静かに呟いた。


「来たね、あの子のために。羽ばたいた、あの銀の子馬が――」


木々の間から差し込む月光の中に、ひときわ輝く銀の翼。


そして、静かに舞い降りるひとりの騎士。


腕には、ひとつの白き贈り物。


セレフィーナが扉を開けた瞬間、その目に映った彼の姿は、まるで夢のようだった。


「……ネイト」


「約束を、果たしに来た」


彼はそう言って、ドレスを差し出した。


セレフィーナの目が見開かれ、唇が小さく震える。


純白の布。

桜の刺繍。

それは、彼女が今まで見たどんな衣よりも、美しかった。


だけど――もっと美しかったのは、その服を「君のために」と届けに来た、ネイトのまなざしだった。


森の小屋に、静かな光が差し込んでいた。


ネイトの腕の中に抱かれていた純白のドレスは、まるで月光そのものを編んだように、柔らかく、透きとおるように輝いていた。


セレフィーナは、そのドレスを見つめたまま、言葉を失っていた。


「……着てみてほしい」


ネイトの声は、囁くように優しかった。


セレフィーナは、こくんと小さく頷くと、妖精たちに手伝われながら、奥の間へと消えていった。


やがて――


そっと扉が開かれる。


カタンと小さく音を立てて、セレフィーナが姿を現した。


それは、まるで森に咲いた一輪の幻。


腰のラインがしなやかに絞られたそのドレスは、繊細な桜の刺繍を抱きながら、裾でふわりと花びらのように広がっていた。森の光が反射して、布の一部が銀のようにきらめいている。


「……」


ネイトは、言葉を忘れていた。


ただ、見つめる。


目の前の少女が、あまりに眩しかった。


白いドレスに包まれたセレフィーナは、彼の記憶のどこにもいなかった新しい姿で、けれど心の奥でずっと夢見ていた“誰か”そのものだった。


「……きれいだ」


ぽつりと落ちたネイトの声に、セレフィーナがはっと顔を上げた。


「そ、そんな……っ」


彼女の頬が、たちまち桜色に染まる。


「あ、あの、変じゃない……ですか? 私、こんな綺麗なの、着慣れてないから……」


「変なはずがない。……誰よりも似合ってる。花の刺繍さえ、君のために咲いてるみたいだ」


ネイトが一歩、彼女に近づく。


セレフィーナは思わず後ずさりそうになったけれど、すぐに踏みとどまった。


なぜだろう――心のどこかで、このまま逃げたくないと思った。


「君は……すごいよ。前よりも、ずっと強くなった顔をしてる」


「え?」


「会うたびに思う。君は、ちゃんと、自分の足で歩いてる。だからこそ……このドレスは、今の君にこそ、ふさわしいんだ」


セレフィーナは、胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


言葉にできない想いが、体の奥からあふれてきそうだった。


「さあ、行こうか。僕の背中に乗って、世界を見せてあげる」


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