純白のドレスを身にまとい、セレフィーナはネイトの前に立っていた。
月光の下、彼の瞳がそっと細められる。
「目を閉じて」
ネイトのその言葉に、彼女は小さく頷く。
風が、優しく草花を撫でる音――
静かなその空気の中で、確かに“なにか”が変わった。
次の瞬間、眩い銀の光。
まぶたを開くと、そこに立っていたのは――
あの時、泉で出会った“銀の白馬”。
大きくしなやかな翼をたたえた、幻想のようなペガサスだった。
「……ネイト?」
その名を呼ぶと、ペガサスは微かに首をかしげ、やさしく額を彼女にすり寄せる。
ぬくもりが、確かにそこにあった。
「……乗って、いいの?」
問いかける声は、小さな希望と震えを含んでいた。
ペガサスの背に手をかけると、やわらかな風が彼女を導くように、その背へと運ぶ。
――そして、翼が広がった。
ひとたび羽ばたけば、森の木々は下へと遠ざかり、夜空がふたりを迎え入れる。
「わあっ……!」
セレフィーナの目が、輝きに満ちた。
雲の海をすべるように飛び越え、夜空を裂いていく銀の翼。
風は甘く、星は近く、空気は花のような匂いをしていた。
セレフィーナの髪が風になびき、大きな瞳が輝く。
「ネイト……まるで、夢みたい」
思わずこぼれたその声に、ペガサスは静かに羽ばたき、答えるように旋回した。
セレフィーナは、両手を広げて笑った。
「見て、星が流れた……! あの湖、空に浮かんでるの? あっ、あれは――なんて広大な海……!」
ペガサスの背から見える世界は、どれも彼女が知らなかった風景。
雲を切り裂き、手が届きそうな星々の瞬き。月の上の白い都市。月の裏側に咲く白銀の花。
セレフィーナの好奇心は、尽きることがなかった。
「ネイト、あれは何? あの光は……? あの道はどこへ繋がってるの……?」
「君にこの世界を見せてあげたかったんだ」
問いかけるたび、彼はゆるやかに翼を傾けて応えた。
セレフィーナの声が風に溶けるたび、世界はまたひとつ、美しさを彼女に明かしていく。
どこまでも広がる空。
そこを、ふたりだけの旅路が続いていた。
やがて――
天の川を横切るように、ペガサスはひとつの流星を追いかける。
セレフィーナが手を伸ばすと、指先に星屑が触れた。
「……ありがとう、ネイト」
囁くように告げたその言葉に、ペガサスは小さく鳴いた。
セレフィーナはその白いたてがみに顔を寄せる。
―― でも、胸の中で、もう1人の私が問いかけた
「あっちも、見てみたいの」
彼女はそっと、誘うようにペガサスのたてがみを握った。
そこは、果てしない砂の海――
どこまでも続く砂漠だった。
太陽は容赦なく照りつけ、地はひび割れ、風は熱を帯びて吹きつける。
その中を、人々が歩いていた。裸足の子ども。水瓶を抱えた女。
彼らの顔には、笑顔も涙もなかった。ただ、生きるという一点だけに縋る眼差し。
「……暑い……でも、あの子、靴も履いていない……」
セレフィーナの瞳が揺れた。
ペガサスは何も言わず、ゆっくりと空を舞った。
砂の中に隠された小さなオアシス。
壊れた井戸。干からびた井戸に咲く一輪の花。
セレフィーナに誘導されるように、ペガサスはひとたび羽を震わせ、風の流れに身を任せた。
やがて、空が赤く染まる。
翼は次なる地へと降りた――
そこは、銃声と爆音が響く戦火の町。
焼け落ちた建物。泣き叫ぶ人々。
旗を掲げる兵士たちと、幼い兵士たち。
燃える空を見上げ、セレフィーナは絶句した。
「……ネイト。これ、夢……じゃないよね?」
「ええ、全て人間たちの行動です。もう帰りましょう」
「見たいの、怖くても。知ってしまったら、もう戻れない気がしても……それでも、知らないままの私ではいたくないの」
ペガサスの翼が静かに揺れる。
「なんで……戦ってるの?誰が、これを望んだの?」
彼女の声は、風に溶けて消えそうだった。
だが、彼女の瞳は、それでも閉じなかった。
怖かった。哀しかった。
けれど、それ以上に、見なければならないと――胸の奥で何かが叫んでいた。
セレフィーナはペガサスの背にしがみついた。
そして、気づく。
これが、私が元いた世界。
「セレフィーナ、もう行きましょう」
ペガサスの言葉には答えず、セレフィーナの赤い瞳には凄惨な光景がしっかりと映っていた。
「闇の中でこそ、光は美しく輝けるんだよ。君は知らなくていい。もういいんだ」
ーー人間は醜い。君だけは、そのまま、無垢でいて。
「これが…人間の世界…」
セレフィーナがそう呟く前に、ペガサスは天高く彼女を連れて行った。
高く、高く、空の果てへ。
世界が小さくなる。
争いも、涙も、悲鳴も――すべて、遠ざかっていく。
セレフィーナは背にしがみついたまま、胸の奥に芽生えた痛みを抱えていた。
けれど、それは恐れではなかった。
ペガサスが見せた世界と、自分自身が選んで見た世界、それは両極端でありながら、何もなかったセレフィーナの心を動かしたのだ。
「戻りましょう。貴女の楽園へー。」
セレフィーナは応えなかった。けれどその目は、まだ地上を見つめていた――焼け落ちた町の、ひとつの灯を。