楽園の奥、銀の月が水面に揺れる泉のほとり。
セレフィーナとネイトは、ほとんど言葉も交わさずに並んで歩いた。
夜風は静かで、どこか切なくて――それでも温かい。
妖精たちが小さな光の粒となって舞い、草花の間をすり抜けていく。
セレフィーナは泉を見つめたまま、ふとネイトの手を見た。
長くて、しなやかで、優しい手。
「……ネイト。」
その声は風よりも細く、けれど確かに届いた。
ネイトは静かに振り向き、彼女の目を見つめる。
それだけで、セレフィーナは胸の奥がきゅっとなった。
「……髪に、少し……」
ネイトはそう言って、彼女の耳のそばに手を伸ばす。
指先が、ふわりと触れた。
彼女の髪に、淡く桃色に光る花をそっと編み込む。
「この花は、君によく似合う」
「……そうかしら」
セレフィーナがそう言った瞬間、ネイトの手が止まり、彼女の頬に触れた。
その手は少しだけ震えていて、彼の心の奥に波紋が広がっていることを告げていた。
「……触れても、いいですか?」
その問いかけに、セレフィーナは小さく頷いた。
ネイトはそっと、彼女の手を取る。
そのまま、彼の胸元へと導いた。
「ここが、僕の心の音。貴女が聞いてくれるなら、きっと静かに響く。」
鼓動はゆっくりと、けれど確かに、セレフィーナの指先に伝わってくる。
彼女の目が潤み、少しだけ熱を帯びた。
「……怖くないですか?」
「……少しだけ、怖い。命が、血が、流れる音がするみたい。でも、それ以上に……」
言葉にならない思いが、目と目の間に流れた。
ふいに、ネイトが額をそっとセレフィーナの額に重ねた。
それはキスではなかった。もっと静かで、もっと深い。
何も言わなくても伝わる。
沈黙が、二人の間を甘く染めた。
「……貴女の心に触れた今、やっと、自分が誰なのか分かった気がします。」
その言葉に、セレフィーナは目を閉じて、そっと囁く。
「……ネイトは、どこから来たの?」
泉の水が静かに揺れた。
風が、二人の背中をそっと撫でていく。
「君が気になるのも、無理はないよね…」
ネイトはそっと笑い、視線を夜空へと向けた。
「僕は――空の王国から来た。人間たちはそれを、ただの神話と呼ぶけれど、本当は空のずっと上、雲よりも高い場所にある…ひとつの国さ。」
彼の言葉は穏やかだったが、どこか遠い記憶を語るような響きがあった。
「その世界に生まれて、決められた道を歩くはずだった。でも、どうしても……何かが足りなかったんだ。心のどこかに、ぽっかり穴が空いていてね。」
ネイトは微笑みながらも、その瞳にはわずかな影が差していた。
「だから、空を降りた。理由も、答えもわからないまま……ただ、自分の居場所を探すように。」
――彼は空の国の王子。
王として、騎士として、民を導く定めを背負って生まれた存在。
けれど今、その事実はセレフィーナにはまだ語られていない。
ほんのわずかな自由と、彼女に出会った奇跡だけを胸に、ネイトは今ここに立っている。
「空の王国…それじゃあ、ここは、どこ?」
セレフィーナが泉のほとりで問いかけた。
風は静かに水面を揺らし、月明かりがその髪をやわらかく照らしていた。
ネイトは少しだけ目を伏せると、ゆっくりと空を仰いだ。
「……ここは、何もない場所だったんだ。」
「え…?」
「初めてここを見つけたとき、真っ白な無の世界だった。ただ広がる白。空も、地面も、時間さえもなくて……音も色も、何ひとつ存在しなかった。」
彼の声は静かだった。でもその言葉は、どこか祈るように、懐かしむように響いた。
「でも――君が来た。」
「私が……?」
ネイトは頷いた。そして、セレフィーナの手をそっと取り、その指先に視線を落とした。
「君の中には、夢がある。希望の種がある。…君の心が、この場所に色を灯したんだ。花も、小鳥も、妖精たちも……この世界の美しさは、全部君の中から生まれた。」
「……そんなこと、私にできるわけ――」
「できたんだよ。もう、こうして目に見えている。」
ネイトはそう言って、セレフィーナの背後をそっと指さす。
振り返れば、満開の花々が月の光を受けて、優しく揺れていた。そこには小さな妖精が羽を光らせて舞い、草花の香りが優しく風に乗っている。
「僕は……君に出会って、初めてこの場所が『世界』になったと思ったんだ。白い無が、楽園になった。君が生み出したこの世界は、君の居場所でもある。」
セレフィーナは言葉を失ったまま、そっと泉に目を落とす。
水面に映るのは、確かに彼女自身だった。でも、その周りを包む景色は――かつて誰も知らなかった世界。
「……じゃあ、私がこの世界を作ったの?」
「君の夢が、ね。」
ネイトは微笑んだ。
それはまるで、花が咲く瞬間のように静かで、あたたかな笑顔だった。泉の水音が、しんとした夜をやさしく包む。
セレフィーナはうつむいて、少しだけ唇を噛んだ。
「……こんな私が、世界を変えたなんて、信じられないよ」
その声は小さく、消え入りそうだった。けれどネイトには、はっきりと届いた。
彼はそっと彼女の手を握り直す。
「君は、まだ気づいてないだけ。君の心は、とても強くて、誰よりも……優しい。」
セレフィーナの睫毛が震える。
ふと、ネイトの方を向くと、彼の瞳は真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「……ネイト。私、あなたのこと、怖くなくなった気がするの」
彼女の声は、泉の水に溶けていくように柔らかかった。
「怖くない?」
「うん。……あなたの目を見てると、落ちていく感じがする。でも、それが不思議と、あたたかくて……」
言葉の最後は、風にさらわれそうになった。
それを包むように、ネイトが彼女の肩に手を添える。
「……だったら、落ちてしまえばいい。僕のところに。」
セレフィーナの瞳が、静かに大きく見開かれた。
「……落ちていいの?」
「僕が受け止める。――君だけは、絶対に」
その瞬間、二人の距離がそっと縮まる。
ネイトはゆっくりと顔を近づけ、けれど唇が触れる前に、ふいに囁く。
「……この世界でただ一人、君にだけキスがしたい。」
静寂が、泉の水面のように揺れた。
セレフィーナの心臓が、小さく跳ねる。
深く吸い込んだ夜の空気が、胸の奥に広がる。
「……待って。キスなんて……したこと、ないの」
彼女の声は細く、けれど隠しきれないほど真実を帯びていた。
その睫毛の先が、わずかに震えている。
セレフィーナの目が、ネイトの瞳と絡み合う。
彼女の心臓が、今までにない速さで鼓動を打ち始めた。全身がその熱を感じ取る。少しの間、息を呑んだまま二人は静かに目を合わせていた。
「……怖くない、って言ったけれど、少しだけ、怖いわ。」
セレフィーナの声は震えていた。
ネイトはゆっくりと息を吐き、少しだけ笑みを浮かべた。その笑顔は、優しさと同時に、深い欲望を秘めているように見えた。
「君が怖いなら、僕も怖い。」
彼の声が低く響き、セレフィーナの内側に強く響いた。
彼の手が、彼女の頬に触れる。その手のひらの温もりが、彼女の肌に伝わり、心の奥まで届いていくようだった。彼の指が軽く髪を撫でるたびに、セレフィーナの胸が締めつけられるような感覚に包まれた。
「でも、君を手に入れたい。」
ネイトの声が、セレフィーナの耳元でささやくように響く。その言葉に、セレフィーナの中で何かが弾けるように感じた。
彼の目が、まるで彼女を独占するような強い意志を持って、真っ直ぐに彼女を見つめている。言葉では表せない欲望が、彼の瞳に宿っていた。それは、セレフィーナを彼のものとして、永遠に求めるような瞳だった。
「もう、誰にも渡したくない。……君が望むなら、この手で抱きしめ続ける。」
ネイトがゆっくりと告げると、その言葉がセレフィーナの心に深く刺さる。
彼女の心は震えていた。彼の言葉が、彼の手が、彼の存在が、全てが彼女を引き寄せ、彼女をその世界へと誘っていく。否応なく、心が求めていた。
セレフィーナは自分の意思を感じる。恐れはあった、でもそれよりも強く、ネイトを感じたかった。
そして、彼女はゆっくりと、自分の体を近づける。手を伸ばし、彼の胸元に触れる。その手のひらが、彼の温もりを感じ、静かに鼓動を聞く。
ネイトは一度深く息を吸い、そして、セレフィーナの唇を求めるように少し前に寄せる。その動きは、まるで無意識に彼女を引き寄せる力を持っていた。
「君のすべてを、僕にください。……それでも、拒まれるのなら、僕は止まる。だから、今だけ、真実を聞かせて。――君の心の声を。」
その言葉が、彼女の唇に触れる瞬間、ネイトの力強い意志が、セレフィーナに伝わった。
そして、セレフィーナはそのまま、ネイトの唇を迎えるようにして、そっとキスをした。
最初の接触は、すべてを包み込むように優しく、そして、だんだんと深くなっていく。
「……ん、チュ……」
ネイトの唇は彼女の唇に触れると、まるで彼女を所有するかのように、強く、熱く、彼女を求めてきた。唇が重なるたび、熱と湿度が互いに溶け合っていく。
キスの合間に、ネイトはふと顔を離し、息をつく。その目には、今まで感じたことのないほどの熱が込められていた。
「……やっと、君に触れられた」
「………はぁ、はぁ。……暖かい。ネイトの唇…」
セレフィーナはその後、再びネイトの唇に触れ、静かに深く、そして強く求めた。
もはやこの世界が何処でも関係なく、ふたりだけのものになっていた。