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第16話 夢の泉で、君に堕ちる

楽園の奥、銀の月が水面に揺れる泉のほとり。

セレフィーナとネイトは、ほとんど言葉も交わさずに並んで歩いた。


夜風は静かで、どこか切なくて――それでも温かい。

妖精たちが小さな光の粒となって舞い、草花の間をすり抜けていく。


セレフィーナは泉を見つめたまま、ふとネイトの手を見た。

長くて、しなやかで、優しい手。


「……ネイト。」


その声は風よりも細く、けれど確かに届いた。


ネイトは静かに振り向き、彼女の目を見つめる。

それだけで、セレフィーナは胸の奥がきゅっとなった。


「……髪に、少し……」


ネイトはそう言って、彼女の耳のそばに手を伸ばす。

指先が、ふわりと触れた。

彼女の髪に、淡く桃色に光る花をそっと編み込む。


「この花は、君によく似合う」


「……そうかしら」


セレフィーナがそう言った瞬間、ネイトの手が止まり、彼女の頬に触れた。

その手は少しだけ震えていて、彼の心の奥に波紋が広がっていることを告げていた。


「……触れても、いいですか?」


その問いかけに、セレフィーナは小さく頷いた。

ネイトはそっと、彼女の手を取る。

そのまま、彼の胸元へと導いた。


「ここが、僕の心の音。貴女が聞いてくれるなら、きっと静かに響く。」


鼓動はゆっくりと、けれど確かに、セレフィーナの指先に伝わってくる。

彼女の目が潤み、少しだけ熱を帯びた。


「……怖くないですか?」


「……少しだけ、怖い。命が、血が、流れる音がするみたい。でも、それ以上に……」


言葉にならない思いが、目と目の間に流れた。


ふいに、ネイトが額をそっとセレフィーナの額に重ねた。

それはキスではなかった。もっと静かで、もっと深い。


何も言わなくても伝わる。

沈黙が、二人の間を甘く染めた。


「……貴女の心に触れた今、やっと、自分が誰なのか分かった気がします。」


その言葉に、セレフィーナは目を閉じて、そっと囁く。


「……ネイトは、どこから来たの?」


泉の水が静かに揺れた。

風が、二人の背中をそっと撫でていく。


「君が気になるのも、無理はないよね…」


ネイトはそっと笑い、視線を夜空へと向けた。


「僕は――空の王国から来た。人間たちはそれを、ただの神話と呼ぶけれど、本当は空のずっと上、雲よりも高い場所にある…ひとつの国さ。」


彼の言葉は穏やかだったが、どこか遠い記憶を語るような響きがあった。


「その世界に生まれて、決められた道を歩くはずだった。でも、どうしても……何かが足りなかったんだ。心のどこかに、ぽっかり穴が空いていてね。」


ネイトは微笑みながらも、その瞳にはわずかな影が差していた。


「だから、空を降りた。理由も、答えもわからないまま……ただ、自分の居場所を探すように。」


――彼は空の国の王子。

王として、騎士として、民を導く定めを背負って生まれた存在。

けれど今、その事実はセレフィーナにはまだ語られていない。


ほんのわずかな自由と、彼女に出会った奇跡だけを胸に、ネイトは今ここに立っている。


「空の王国…それじゃあ、ここは、どこ?」


セレフィーナが泉のほとりで問いかけた。

風は静かに水面を揺らし、月明かりがその髪をやわらかく照らしていた。


ネイトは少しだけ目を伏せると、ゆっくりと空を仰いだ。


「……ここは、何もない場所だったんだ。」


「え…?」


「初めてここを見つけたとき、真っ白な無の世界だった。ただ広がる白。空も、地面も、時間さえもなくて……音も色も、何ひとつ存在しなかった。」


彼の声は静かだった。でもその言葉は、どこか祈るように、懐かしむように響いた。


「でも――君が来た。」


「私が……?」


ネイトは頷いた。そして、セレフィーナの手をそっと取り、その指先に視線を落とした。


「君の中には、夢がある。希望の種がある。…君の心が、この場所に色を灯したんだ。花も、小鳥も、妖精たちも……この世界の美しさは、全部君の中から生まれた。」


「……そんなこと、私にできるわけ――」


「できたんだよ。もう、こうして目に見えている。」


ネイトはそう言って、セレフィーナの背後をそっと指さす。

振り返れば、満開の花々が月の光を受けて、優しく揺れていた。そこには小さな妖精が羽を光らせて舞い、草花の香りが優しく風に乗っている。


「僕は……君に出会って、初めてこの場所が『世界』になったと思ったんだ。白い無が、楽園になった。君が生み出したこの世界は、君の居場所でもある。」


セレフィーナは言葉を失ったまま、そっと泉に目を落とす。

水面に映るのは、確かに彼女自身だった。でも、その周りを包む景色は――かつて誰も知らなかった世界。


「……じゃあ、私がこの世界を作ったの?」


「君の夢が、ね。」


ネイトは微笑んだ。

それはまるで、花が咲く瞬間のように静かで、あたたかな笑顔だった。泉の水音が、しんとした夜をやさしく包む。

セレフィーナはうつむいて、少しだけ唇を噛んだ。


「……こんな私が、世界を変えたなんて、信じられないよ」


その声は小さく、消え入りそうだった。けれどネイトには、はっきりと届いた。

彼はそっと彼女の手を握り直す。


「君は、まだ気づいてないだけ。君の心は、とても強くて、誰よりも……優しい。」


セレフィーナの睫毛が震える。

ふと、ネイトの方を向くと、彼の瞳は真っ直ぐに彼女を見つめていた。


「……ネイト。私、あなたのこと、怖くなくなった気がするの」


彼女の声は、泉の水に溶けていくように柔らかかった。


「怖くない?」


「うん。……あなたの目を見てると、落ちていく感じがする。でも、それが不思議と、あたたかくて……」


言葉の最後は、風にさらわれそうになった。

それを包むように、ネイトが彼女の肩に手を添える。


「……だったら、落ちてしまえばいい。僕のところに。」


セレフィーナの瞳が、静かに大きく見開かれた。


「……落ちていいの?」


「僕が受け止める。――君だけは、絶対に」


その瞬間、二人の距離がそっと縮まる。

ネイトはゆっくりと顔を近づけ、けれど唇が触れる前に、ふいに囁く。


「……この世界でただ一人、君にだけキスがしたい。」


静寂が、泉の水面のように揺れた。


セレフィーナの心臓が、小さく跳ねる。

深く吸い込んだ夜の空気が、胸の奥に広がる。


「……待って。キスなんて……したこと、ないの」


彼女の声は細く、けれど隠しきれないほど真実を帯びていた。

その睫毛の先が、わずかに震えている。


セレフィーナの目が、ネイトの瞳と絡み合う。


彼女の心臓が、今までにない速さで鼓動を打ち始めた。全身がその熱を感じ取る。少しの間、息を呑んだまま二人は静かに目を合わせていた。


「……怖くない、って言ったけれど、少しだけ、怖いわ。」


セレフィーナの声は震えていた。


ネイトはゆっくりと息を吐き、少しだけ笑みを浮かべた。その笑顔は、優しさと同時に、深い欲望を秘めているように見えた。


「君が怖いなら、僕も怖い。」


彼の声が低く響き、セレフィーナの内側に強く響いた。


彼の手が、彼女の頬に触れる。その手のひらの温もりが、彼女の肌に伝わり、心の奥まで届いていくようだった。彼の指が軽く髪を撫でるたびに、セレフィーナの胸が締めつけられるような感覚に包まれた。


「でも、君を手に入れたい。」


ネイトの声が、セレフィーナの耳元でささやくように響く。その言葉に、セレフィーナの中で何かが弾けるように感じた。


彼の目が、まるで彼女を独占するような強い意志を持って、真っ直ぐに彼女を見つめている。言葉では表せない欲望が、彼の瞳に宿っていた。それは、セレフィーナを彼のものとして、永遠に求めるような瞳だった。


「もう、誰にも渡したくない。……君が望むなら、この手で抱きしめ続ける。」


ネイトがゆっくりと告げると、その言葉がセレフィーナの心に深く刺さる。


彼女の心は震えていた。彼の言葉が、彼の手が、彼の存在が、全てが彼女を引き寄せ、彼女をその世界へと誘っていく。否応なく、心が求めていた。


セレフィーナは自分の意思を感じる。恐れはあった、でもそれよりも強く、ネイトを感じたかった。


そして、彼女はゆっくりと、自分の体を近づける。手を伸ばし、彼の胸元に触れる。その手のひらが、彼の温もりを感じ、静かに鼓動を聞く。


ネイトは一度深く息を吸い、そして、セレフィーナの唇を求めるように少し前に寄せる。その動きは、まるで無意識に彼女を引き寄せる力を持っていた。


「君のすべてを、僕にください。……それでも、拒まれるのなら、僕は止まる。だから、今だけ、真実を聞かせて。――君の心の声を。」


その言葉が、彼女の唇に触れる瞬間、ネイトの力強い意志が、セレフィーナに伝わった。


そして、セレフィーナはそのまま、ネイトの唇を迎えるようにして、そっとキスをした。


最初の接触は、すべてを包み込むように優しく、そして、だんだんと深くなっていく。


「……ん、チュ……」


ネイトの唇は彼女の唇に触れると、まるで彼女を所有するかのように、強く、熱く、彼女を求めてきた。唇が重なるたび、熱と湿度が互いに溶け合っていく。


キスの合間に、ネイトはふと顔を離し、息をつく。その目には、今まで感じたことのないほどの熱が込められていた。


「……やっと、君に触れられた」


「………はぁ、はぁ。……暖かい。ネイトの唇…」


セレフィーナはその後、再びネイトの唇に触れ、静かに深く、そして強く求めた。


もはやこの世界が何処でも関係なく、ふたりだけのものになっていた。


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