目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第19話 妖精の森

それは、ほんのわずかな変化から始まった。


朝、セレフィーナが目を覚ますたび、世界が少しずつ、優しく色づいているような気がした。


澄みきった小川のせせらぎは、以前よりも柔らかく、まるで誰かの子守唄のように耳をくすぐる。

森の奥でさえずる鳥たちの声は、風と調和して旋律を紡ぎ、名もなき音楽となって空へ舞った。


どこからともなく、蜂蜜と野ばらの香りがふわりと漂ってくる。目には見えない“幸福の兆し”が、世界をそっと満たしていた。


そして――彼が来た。


ネイトは、いつも陽だまりのように現れる。

風にほどける銀髪。空を思わせる瞳。

彼がセレフィーナを抱きしめるとき、世界の痛みさえ、遠ざかっていくようだった。


「今日も、君に会いに来たよ」


そう言って、彼は毎日贈り物を手に現れた。


「これは、君の瞳の色に似ているんだ。ルビーの髪飾りだよ」


「ありがとう、ネイト。とっても……嬉しい」


「きっと、君によく似合うと思ったんだ」


ふわりと微笑むネイトの顔に、セレフィーナは胸をきゅっと鳴らす。

彼女にだけ見せるその表情は、凛とした騎士の面影を崩し、ひとりの青年の優しさを宿していた。


セレフィーナは照れながら、木の蔓で編んだ籠を差し出す。中には、少し焦げたパンと、いびつに膨らんだ小麦の香り。


「これは……森に住む裁縫のおばあさんと、一緒に焼いたの。一緒に食べようと思って。その……ネイトの贈り物には敵わないけど」


「敵うはずないさ。君が心を込めてくれたんだから――それだけで、僕にとっては宝物だよ」


その声だけで、胸の奥が静かに満たされていく。

かつて人を信じることすらできなかった少女の心に、あたたかな陽が差していた。


はじめは戸惑っていた身体も、震えていた想いも、いつしか彼の愛に抱かれ、素直な笑みを返すようになっていた。


ふたりの時間は、夜明け前の静謐のように穏やかで甘やかだった。

木漏れ日の下で語らい、抱き合い、唇を重ね、確かめ合う日々。

触れるたび、セレフィーナの中に芽吹くものがあった――それは、愛という名の奇跡。


そして、森は知っていた。


セレフィーナが笑えば、花が咲き。

ネイトが彼女を抱きしめれば、どこからか鈴の音が聴こえた。

ある日、朝靄の向こうに淡い光の粒が舞い上がり、その中から、小さな姿がひとり、またひとりと現れた。


妖精たちだった。


青い羽根の妖精は蜜蜂とともに花の蜜を集め、

桃色の髪の妖精は苺の蔓を撫でて、赤く瑞々しい果実を実らせた。

裁縫台の上では、小さな針を動かしてレースのドレスを縫う者もいれば、

胡桃の殻をヴァイオリンに見立て、音色を奏でる者もいた。


子猫とじゃれ合い、ひだまりの上で眠る妖精たち――。

セレフィーナの知らぬ間に、この森は、まるで楽園のような光景を育んでいた。


「ここは……なんて場所なの?」


ある日、セレフィーナがそっとつぶやいたとき、ネイトは彼女の髪に口づけ、優しく囁いた。


「君が作った世界だよ」


「……え?」


「君が愛され、誰かを愛している証なんだ。妖精たちは、それを感じて集まってきた。

君の心が、ここに“命”を呼び込んだんだよ」


セレフィーナは目を見開き、胸に手を当てた。

まさか――自分の中から、こんな美しい世界が生まれていたなんて。


やがてこの地は、外のエルフたちのあいだで「妖精の森」と呼ばれるようになった。

かつては空虚で沈黙に閉ざされていた森が、今では語り継がれる聖域となり、守るべきものとして讃えられ始めていた。


だがその中心にいるセレフィーナは、ただ静かに、優しく笑っていた。

愛しい人と日々を重ね、小さな命たちと暮らし、目覚めるたび、世界が優しくなっていく――その奇跡を、まだ少しだけ信じられずにいる。


けれど、その瞳の先には確かな“愛”があった。


花の絨毯に座り、花冠を編むセレフィーナの頬にそっと触れるネイト。

彼の空色の瞳が、深い慈しみと誓いに揺れた。


「――セレフィーナ。君は無垢な少女。

決して、破壊を望んだ呪いの子なんかじゃない。

僕が見つけた君は……この命に祝福をもたらす、生命の女神だ」


「……どうしたの?」


「なんでもないよ。ただ、君があまりにも愛おしくて」


時間はゆっくりと、柔らかく流れていく。


そしてこの瞬間こそが、彼女がはじめて「生きていていい」と思えた、ほんとうの始まりだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?