それは、ほんのわずかな変化から始まった。
朝、セレフィーナが目を覚ますたび、世界が少しずつ、優しく色づいているような気がした。
澄みきった小川のせせらぎは、以前よりも柔らかく、まるで誰かの子守唄のように耳をくすぐる。
森の奥でさえずる鳥たちの声は、風と調和して旋律を紡ぎ、名もなき音楽となって空へ舞った。
どこからともなく、蜂蜜と野ばらの香りがふわりと漂ってくる。目には見えない“幸福の兆し”が、世界をそっと満たしていた。
そして――彼が来た。
ネイトは、いつも陽だまりのように現れる。
風にほどける銀髪。空を思わせる瞳。
彼がセレフィーナを抱きしめるとき、世界の痛みさえ、遠ざかっていくようだった。
「今日も、君に会いに来たよ」
そう言って、彼は毎日贈り物を手に現れた。
「これは、君の瞳の色に似ているんだ。ルビーの髪飾りだよ」
「ありがとう、ネイト。とっても……嬉しい」
「きっと、君によく似合うと思ったんだ」
ふわりと微笑むネイトの顔に、セレフィーナは胸をきゅっと鳴らす。
彼女にだけ見せるその表情は、凛とした騎士の面影を崩し、ひとりの青年の優しさを宿していた。
セレフィーナは照れながら、木の蔓で編んだ籠を差し出す。中には、少し焦げたパンと、いびつに膨らんだ小麦の香り。
「これは……森に住む裁縫のおばあさんと、一緒に焼いたの。一緒に食べようと思って。その……ネイトの贈り物には敵わないけど」
「敵うはずないさ。君が心を込めてくれたんだから――それだけで、僕にとっては宝物だよ」
その声だけで、胸の奥が静かに満たされていく。
かつて人を信じることすらできなかった少女の心に、あたたかな陽が差していた。
はじめは戸惑っていた身体も、震えていた想いも、いつしか彼の愛に抱かれ、素直な笑みを返すようになっていた。
ふたりの時間は、夜明け前の静謐のように穏やかで甘やかだった。
木漏れ日の下で語らい、抱き合い、唇を重ね、確かめ合う日々。
触れるたび、セレフィーナの中に芽吹くものがあった――それは、愛という名の奇跡。
そして、森は知っていた。
セレフィーナが笑えば、花が咲き。
ネイトが彼女を抱きしめれば、どこからか鈴の音が聴こえた。
ある日、朝靄の向こうに淡い光の粒が舞い上がり、その中から、小さな姿がひとり、またひとりと現れた。
妖精たちだった。
青い羽根の妖精は蜜蜂とともに花の蜜を集め、
桃色の髪の妖精は苺の蔓を撫でて、赤く瑞々しい果実を実らせた。
裁縫台の上では、小さな針を動かしてレースのドレスを縫う者もいれば、
胡桃の殻をヴァイオリンに見立て、音色を奏でる者もいた。
子猫とじゃれ合い、ひだまりの上で眠る妖精たち――。
セレフィーナの知らぬ間に、この森は、まるで楽園のような光景を育んでいた。
「ここは……なんて場所なの?」
ある日、セレフィーナがそっとつぶやいたとき、ネイトは彼女の髪に口づけ、優しく囁いた。
「君が作った世界だよ」
「……え?」
「君が愛され、誰かを愛している証なんだ。妖精たちは、それを感じて集まってきた。
君の心が、ここに“命”を呼び込んだんだよ」
セレフィーナは目を見開き、胸に手を当てた。
まさか――自分の中から、こんな美しい世界が生まれていたなんて。
やがてこの地は、外のエルフたちのあいだで「妖精の森」と呼ばれるようになった。
かつては空虚で沈黙に閉ざされていた森が、今では語り継がれる聖域となり、守るべきものとして讃えられ始めていた。
だがその中心にいるセレフィーナは、ただ静かに、優しく笑っていた。
愛しい人と日々を重ね、小さな命たちと暮らし、目覚めるたび、世界が優しくなっていく――その奇跡を、まだ少しだけ信じられずにいる。
けれど、その瞳の先には確かな“愛”があった。
花の絨毯に座り、花冠を編むセレフィーナの頬にそっと触れるネイト。
彼の空色の瞳が、深い慈しみと誓いに揺れた。
「――セレフィーナ。君は無垢な少女。
決して、破壊を望んだ呪いの子なんかじゃない。
僕が見つけた君は……この命に祝福をもたらす、生命の女神だ」
「……どうしたの?」
「なんでもないよ。ただ、君があまりにも愛おしくて」
時間はゆっくりと、柔らかく流れていく。
そしてこの瞬間こそが、彼女がはじめて「生きていていい」と思えた、ほんとうの始まりだった。