夜の闇が支配する、妖精たちの森。
木々は月光すら拒むようにうねり、森全体が息を潜めていた。
その静寂を、突如として爆炎のごとく裂いたものがあった。
漆黒の翼を広げ、夜を貫いて現れた一体のドラゴン。
その背に立つ男は、闇の中でただ一人、強烈な光を放っていた。
ドラゴンの鱗は夜空よりもなお深く、星のきらめきを呑み込むほどの威圧感を放ち、
空間すらもその存在に軋んだ。
その背に立つ男――ルーク。
金色の髪は月光を浴びて、燃える太陽のように輝き、
風に舞うたび、鋭い光を撒き散らした。
深海のように青い瞳は獣のように鋭く、
その奥には、狂気と哀しみが入り混じった深い陰影が宿っていた。
長身の肉体には、数え切れぬ戦いの痕。
剣と牙に刻まれた傷跡が浮かび、研ぎ澄まされた筋肉と相まって、
危うくも抗えぬ魅力を放っていた。
ルークは唇をわずかに上げ、笑う。
その口元にのぞく八重歯は、まるで獲物を見つけた猛獣のよう。
「セレフィーナ――」
その名を呼ぶ声は、荒々しく低く、夜気すら震わせた。
その瞬間、セレフィーナの心に、何かが走った。
熱い雷光のような衝撃。けれど、知らない――はずの声。
「だ……誰なの……?」
震える声。動かぬ足。
逃げようとする意志が、なぜか霧のように掻き消えていく。
「お前を迎えに来た。」
その言葉は、まるで命令のようだった。
抗うことなど、最初から許されていないような響き。
「……来い、セレフィーナ。」
その声が、視線が、彼女を射抜く。
獲物を決して逃さぬ鷲のように。
セレフィーナは気づいた。彼の瞳の中に、自分が囚われていることに。
「だから……あなたは、誰なの……?」
ルークは一歩、音もなく近づいた。
セレフィーナが後退する間もなく、彼の腕がその細い手首を掴んだ。
「きゃっ…! ど、どうして……?」
引き寄せられる一瞬は、空気すら裂けたかのよう。
セレフィーナの小さな体は、ルークの広く熱い胸に強く抱きしめられていた。
「……お前から、ペガサスの匂いがする。」
耳元で囁かれたその言葉に、セレフィーナは息を呑んだ。
彼の瞳が細まり、鋭さを増していく――何かを思い出すかのように。
「…あなた、何者なの……?」
「ネイトに、記憶を消されたのか。」
「ッ、そんなの知らない……離して!」
もがいても、彼の腕の中ではあまりにも無力だった。
「……お前は、こんな鳥籠に閉じ込められる小鳥じゃない。」
その言葉には刃のような鋭さと、どこか哀しい優しさがあった。
――知らないはずの声なのに、胸の奥が確かに覚えている。
「お前をここから連れ去る。……抵抗しても、な」
その一言が、運命の扉を無理やりこじ開けた。
セレフィーナは悟った。
その手を取られた瞬間から、もう後戻りできない。
そして彼の瞳に映る自分が、もはや“逃れられない存在”であることを――
本能が、告げていた。
ルークに抱きかかえられたまま、セレフィーナはドラゴンの背に乗せられた。
硬質な鱗の感触。震える鼓動。空へと広がる巨大な翼。
――ごうっ、と風が唸る。
次の瞬間、彼女の体は空へと引き上げられた。
闇を裂き、天へ。
森も、湖も、かつての楽園も遠ざかっていく。
ペガサスに乗って翔けた空とは、まるで違っていた。
そこには、優しさも、夢も、柔らかな羽根もなかった。
この空は、暴風のように荒々しく、剥き出しの現実に満ちていた。
雲を裂き、大地のすべてを曝け出すような、激しさ。
眼下には果てしない草原が広がっていた。
金色の風が波打ち、しかし人影も、精霊の気配もなかった。
やがて草原は割れ、赤い砂漠がその先に現れた。
大地はひび割れ、風が灼熱の砂を巻き上げる。
そこには、ただ“生き抜く強さ”だけがあった。
「こんな世界が…」
セレフィーナの唇からこぼれた言葉は、風にかき消された。
思い出す――
ネイトのペガサスに乗って見た、あの優しい空。
柔らかな雲の上を舞い、星に触れるように飛んだ夜。
あのとき、世界はただ、美しかった。
だが今、ルークに連れていかれるこの空は違う。
荒々しく、容赦なく、そして――目が離せないほどに雄大だった。
セレフィーナの胸の奥に、熱が灯っていく。
「私は……知らなかった。世界がこんなに広いなんて。」
あの楽園だけがすべてだと思っていた。
守られていたけれど、何も知らずにいた。
知らないふりをして、眠っていた――心。
そして、たどり着いた。
灼熱の地。
赤く燃える火山地帯。
大地を流れる溶岩の奔流。その頂に築かれた、ドラゴンたちの王国。
空の王国でも、森の民の里でもない。
原始の力が支配する、もうひとつの世界。
その空気を吸い込んだとき、セレフィーナは自分の奥底で、
「興味」という名の火種が灯るのを感じた。
戸惑いもあった。
こんな世界に惹かれる自分が、少し怖かった。
けれどそれ以上に――
「もっと、知りたい。」
そう思う自分が、たしかにそこにいた。
ネイトの優しさとは異なる、ルークの持つ“剥き出しの現実”。
その世界が、風となり、炎となって、この胸に響いてくる。
セレフィーナは、ゆっくりと王国を見渡した。
心が、封じられた記憶が――
少しずつ、ほどけていくのを感じながら。