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第2章:炎の王子ルーク

第21話 囚われしは、竜の腕

夜の闇が支配する、妖精たちの森。

木々は月光すら拒むようにうねり、森全体が息を潜めていた。


その静寂を、突如として爆炎のごとく裂いたものがあった。

漆黒の翼を広げ、夜を貫いて現れた一体のドラゴン。

その背に立つ男は、闇の中でただ一人、強烈な光を放っていた。


ドラゴンの鱗は夜空よりもなお深く、星のきらめきを呑み込むほどの威圧感を放ち、

空間すらもその存在に軋んだ。


その背に立つ男――ルーク。

金色の髪は月光を浴びて、燃える太陽のように輝き、

風に舞うたび、鋭い光を撒き散らした。


深海のように青い瞳は獣のように鋭く、

その奥には、狂気と哀しみが入り混じった深い陰影が宿っていた。


長身の肉体には、数え切れぬ戦いの痕。

剣と牙に刻まれた傷跡が浮かび、研ぎ澄まされた筋肉と相まって、

危うくも抗えぬ魅力を放っていた。


ルークは唇をわずかに上げ、笑う。

その口元にのぞく八重歯は、まるで獲物を見つけた猛獣のよう。


「セレフィーナ――」


その名を呼ぶ声は、荒々しく低く、夜気すら震わせた。


その瞬間、セレフィーナの心に、何かが走った。

熱い雷光のような衝撃。けれど、知らない――はずの声。


「だ……誰なの……?」


震える声。動かぬ足。

逃げようとする意志が、なぜか霧のように掻き消えていく。


「お前を迎えに来た。」


その言葉は、まるで命令のようだった。

抗うことなど、最初から許されていないような響き。


「……来い、セレフィーナ。」


その声が、視線が、彼女を射抜く。

獲物を決して逃さぬ鷲のように。

セレフィーナは気づいた。彼の瞳の中に、自分が囚われていることに。


「だから……あなたは、誰なの……?」


ルークは一歩、音もなく近づいた。

セレフィーナが後退する間もなく、彼の腕がその細い手首を掴んだ。


「きゃっ…! ど、どうして……?」


引き寄せられる一瞬は、空気すら裂けたかのよう。

セレフィーナの小さな体は、ルークの広く熱い胸に強く抱きしめられていた。


「……お前から、ペガサスの匂いがする。」


耳元で囁かれたその言葉に、セレフィーナは息を呑んだ。

彼の瞳が細まり、鋭さを増していく――何かを思い出すかのように。


「…あなた、何者なの……?」


「ネイトに、記憶を消されたのか。」


「ッ、そんなの知らない……離して!」


もがいても、彼の腕の中ではあまりにも無力だった。


「……お前は、こんな鳥籠に閉じ込められる小鳥じゃない。」


その言葉には刃のような鋭さと、どこか哀しい優しさがあった。


――知らないはずの声なのに、胸の奥が確かに覚えている。


「お前をここから連れ去る。……抵抗しても、な」


その一言が、運命の扉を無理やりこじ開けた。


セレフィーナは悟った。

その手を取られた瞬間から、もう後戻りできない。


そして彼の瞳に映る自分が、もはや“逃れられない存在”であることを――

本能が、告げていた。


ルークに抱きかかえられたまま、セレフィーナはドラゴンの背に乗せられた。

硬質な鱗の感触。震える鼓動。空へと広がる巨大な翼。


――ごうっ、と風が唸る。


次の瞬間、彼女の体は空へと引き上げられた。

闇を裂き、天へ。

森も、湖も、かつての楽園も遠ざかっていく。


ペガサスに乗って翔けた空とは、まるで違っていた。

そこには、優しさも、夢も、柔らかな羽根もなかった。


この空は、暴風のように荒々しく、剥き出しの現実に満ちていた。

雲を裂き、大地のすべてを曝け出すような、激しさ。


眼下には果てしない草原が広がっていた。

金色の風が波打ち、しかし人影も、精霊の気配もなかった。


やがて草原は割れ、赤い砂漠がその先に現れた。

大地はひび割れ、風が灼熱の砂を巻き上げる。

そこには、ただ“生き抜く強さ”だけがあった。


「こんな世界が…」


セレフィーナの唇からこぼれた言葉は、風にかき消された。


思い出す――

ネイトのペガサスに乗って見た、あの優しい空。

柔らかな雲の上を舞い、星に触れるように飛んだ夜。

あのとき、世界はただ、美しかった。


だが今、ルークに連れていかれるこの空は違う。

荒々しく、容赦なく、そして――目が離せないほどに雄大だった。


セレフィーナの胸の奥に、熱が灯っていく。


「私は……知らなかった。世界がこんなに広いなんて。」


あの楽園だけがすべてだと思っていた。

守られていたけれど、何も知らずにいた。

知らないふりをして、眠っていた――心。


そして、たどり着いた。


灼熱の地。

赤く燃える火山地帯。

大地を流れる溶岩の奔流。その頂に築かれた、ドラゴンたちの王国。


空の王国でも、森の民の里でもない。

原始の力が支配する、もうひとつの世界。


その空気を吸い込んだとき、セレフィーナは自分の奥底で、

「興味」という名の火種が灯るのを感じた。


戸惑いもあった。

こんな世界に惹かれる自分が、少し怖かった。


けれどそれ以上に――


「もっと、知りたい。」


そう思う自分が、たしかにそこにいた。


ネイトの優しさとは異なる、ルークの持つ“剥き出しの現実”。

その世界が、風となり、炎となって、この胸に響いてくる。


セレフィーナは、ゆっくりと王国を見渡した。


心が、封じられた記憶が――

少しずつ、ほどけていくのを感じながら。


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