セレフィーナは震える声で問うた。
「あなたは……誰? どうして、私をここに……?」
その声の奥底には、長い夢の中で聞くことも許されなかった、魂の叫びがあった。
――“私は誰なの?”
誰も教えてくれなかった。ずっと、ひとりだった。
ルークは静かに、だが狂おしいほどの確信をその声に込めて名乗った。
「ルーク。……かつて、お前の国を灰に変えた男だ。」
一瞬、世界が凍りついた。
セレフィーナの胸がどくんと打ち、呼吸が止まる。
「……何を言ってるの? どういうこと……?」
ルークは、まっすぐに彼女を見つめたまま語る。
「俺は、かつて“闇の王”と戦った剣士だった。」
荒唐無稽なはずの言葉。けれど、彼の瞳には一片の嘘もなかった。
「世界を守るために剣をとった。だが、その力はあまりにも強大で……制御を失い、呪われた。」
彼の声が、わずかに揺れる。
「気がつけば、俺は守るはずだった国を焼き尽くしていた。神々の怒りを買い、討たれる存在になった。」
彼の手がかすかに震えている。
その掌には、深く刻まれた古傷――癒えることのない、贖罪の印。
「すべてが終わろうとした時――たった一人、俺のそばに立った少女がいた」
「それが、“お前”だ」
「………私が……?」
セレフィーナの声が震える。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
「お前は、俺を怖れなかった。炎の中で俺を抱きしめ、赦した。“生きて”と、言った」
「だが、お前はその言葉と引き換えに、罰を受けた。女神としての力を奪われ、人の世に堕とされた」
「そんな……私が……?」
セレフィーナの瞳が揺れる。
まるで、その胸の奥に眠っていた記憶が、静かに目を覚ますかのように――
ルークは一歩、彼女に近づき、言った。
「だから迎えに来た。忘れていてもいい。だが、もうお前を――失う気はない」
その瞬間。
記憶の扉が、音もなく開いた。
――妖精の国、泉のほとり。
太陽を見上げ、その金色の光に憧れていた。
「太陽のように輝く勇者様……」
あれは、人間に恋した一柱の女神の記憶。
あの光が、やがて自分を焼くと知らずに――
そして今、目の前には太陽のような男がいる。
金色の髪、燃えるような瞳――ルーク。
セレフィーナはその視線をそらせなかった。
胸の奥で、何かが目覚めていく。
「あなた……」
思わず伸ばした指先が、彼の腕に触れる。
その皮膚の下に感じる古傷――深く刻まれた戦いの痕跡。
「……たくさんの傷……」
「……戦いの記憶だ」
ルークの声が低く響く。
彼の視線が、遠い過去を映すように揺れた。
セレフィーナが手を引こうとした瞬間、ルークの手が彼女の手首を掴む。
「まだ、感じるか?」
「え……?」
「その反応……フン。まぁいい。ゆっくり思い出せ」
彼の指が、そっと彼女の肌に触れた。
その体温――熱く、荒々しく、それでいて優しかった。
セレフィーナの心が乱れる。
鼓動が、胸の奥で高鳴っていく。
「……どうして?」
問いは途切れた。
彼の顔が近づいてくる。
唇が、触れるほどに。
「どうして、私の手を……?」
その問いに、彼は静かに答える。
「俺がお前を、解き放ってやる」
その言葉が、胸に深く響いた。
彼の手が頬に触れる。
それは、猛獣の手が、蝶に触れるような優しさだった。
「お前は、ただの少女じゃない。夢も現実も、自分の意志で変えられる」
セレフィーナの心に、何かが解けていく。
彼の声は、彼女の奥深くにある記憶の扉をこじ開けていくようだった。
もはや、彼の手を振りほどくことなどできなかった。
そのとき――
彼女の手のひらに、白く細やかな羽が舞い降りる。
「……永遠の誓いの羽……」
ペガサスが遺した、ネイトとの約束。
セレフィーナはそれを見つめ、胸に抱きしめる。
「彼の帰りを、待つって……誓ったの」
だが、ルークの声が再び彼女を現実に引き戻す。
「永遠に囚われるな。……運命を決めるのは、お前自身だ」
その言葉に、彼女の心が大きく揺れる。
セレフィーナは目を伏せ、静かに言葉を紡いだ。
「……永遠を決めるのは、誰かじゃない。私自身だって、そう言いたいのね」
ルークの顔が、ふっと和らぐ。
「選べ。どんな選択をしようと、俺はお前の隣にいる」
その言葉が、深く、優しく、彼女の心を包んだ。
ペガサスの羽が象徴する「永遠」は、もはや鎖ではない。
それは、彼女が選ぶ物語の断片に過ぎないのだ。
「お前は、楽園の花に群がる蝶じゃない。空を羽ばたく鳥だ。自由に生きろ、セレフィーナ」
ルークの言葉には、誇りと祈りが込められていた。
セレフィーナは、静かに彼の目を見つめ返す。
運命の歯車は、彼女の選択によって今、音を立てて動き出す――
セレフィーナが胸の羽を抱えたまま、静かに目を伏せると――
ルークは、ふいに彼女から視線を外し、低く言った。
「…急にこんなことを聞かせて悪かったな」
その声は、少しだけ掠れていた。
「混乱させただろう。……いろいろ……詰め込みすぎた」
セレフィーナが顔を上げようとすると、彼は手を上げて制するように言った。
「……もう、寝ろ。今日は……休んだ方がいい」
その目は、どこか切なげで、けれど、優しかった。
彼は立ち上がり、自分のベッドをぽんと軽く叩いた。
「使え。……ちゃんと、洗ってある」
「え……でも……」
「気にすんな。俺は、下の部屋で寝る」
「でも、ここはあなたの……」
「いいって言ってるだろ」
その言い方はぶっきらぼうだったけれど、その瞳はどこまでも真剣だった。
彼はそっぽを向いたまま、ゆっくりとドアに向かう。
「……おやすみ。セレフィーナ」
名前を呼ぶその声は、まるで宝石のように、そっと夜に落ちていった。
セレフィーナは呆然としたまま、ベッドの隅に座る。
ドアが静かに閉まり、彼の気配が去ったあとも、胸はざわめいていた。
⸻
ルークは薄暗い別室の簡素な寝台に身を沈めると、天井を見つめたまま、大きく息をついた。
「……まいったな」
低くつぶやき、腕を額に乗せる。
彼の中で、先ほどの光景が何度も何度も再生された。
セレフィーナが、戸惑いながらも自分に指を伸ばした瞬間。
小さく震える声。
触れた肌の柔らかさ。
あの、まっすぐな瞳。
「……あんなに綺麗だったか……」
光の中に立つセレフィーナの姿が、記憶の中より遥かに鮮やかに蘇ってくる。
髪が揺れ、瞳が揺れ、唇がわずかに震えて――それでも立ち尽くしていた、あの姿。
「変わってない……いや……もっと綺麗になってる」
静かに、ルークは微笑んだ。
けれどその笑みは、少しだけ苦くもあった。
「……俺みたいなのが、そばにいていいのかよ……」
そんな自嘲が浮かんでも、不思議と胸はあたたかかった。
再び彼女と巡り逢えたこと。
彼女の声を聞き、瞳を見つめられたこと。
それだけで、世界が少し救われた気がした。
「……もう、失いたくない」
そう、胸の奥で強く、誓うように呟いた。
夜はまだ深く、静寂は続く。
やがてその出逢いが、彼という太陽のもとに咲く、たったひとつの花となることを――
ルークは、まだ知らなかった。