朝靄が、まだ街を柔らかく抱きしめていた。
石畳には砂が舞い、風は遠くの市場から香辛料の匂いを運んでくる。空は澄み渡り、乾いた光が織物の影を石壁に落としていた。
セレフィーナは、指先で金貨の袋を軽くつまみながら歩いていた。
「……好きにしろ」
彼はそれだけを言い残して、朝焼けの空に溶けるように姿を消した。仮面のように無表情だったが、どこかに言葉ではない優しさがあった。あたたかさを湛えた、無言の別れ。
目の前に広がるのは、色とりどりの異国の景色。
絨毯が敷き詰められた小道。天幕の影で歌う吟遊詩人。香ばしく焼かれる羊肉と、甘い果実の香り。噴水に群れる赤い鳥たち。
――ここは見知らぬ地、なのにどこか懐かしい。
果物を籠に積む老婆が、彼女の視線に気づいて微笑んだ。
「よそから来たんだね、お嬢さん」
「……はい」
「この国のこと、まだ知らないだろう?」
セレフィーナが頷くと、老婆は皺だらけの手をゆっくりと空にかざした。
「この国はね、ルーク様が創られたのよ。もともとは、なにもない荒野だったの。水も道もない場所……でもあの方が、すべてを変えた」
「すべてを?」
「ええ。戦争で家族を失った子、奴隷にされた者たち、行き場をなくした民。みんな、あの方のもとに集まった。ルーク様は、誰一人拒まなかったよ。病人も、兵士も、傷を負った者も」
「どうしてそんなことを?」
「さあね。でも、ただ一つだけ言える。あの方は語らない。ただ静かに、人を救う。それが――あの人なのさ」
老婆が指さした丘の上には、白い建物があった。風に乗って、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえてくる。
「孤児院さ。あれも、ルーク様が建てた。あそこにいる子たちはみんな、戦争の落とし子。でも今は……笑って生きている」
セレフィーナは言葉を失っていた。胸の奥で、何かが軋む。
その先では、布を売る青年が声を張っていた。
「ルーク様? ああ、伝説の人さ。竜の血が流れてるって噂もあるし、昔は勇者だったとも言う。どれも作り話みたいだけど、信じたくなるんだよ、あの人を見てると」
遊牧民の長老も語る。
「我らがこの地に来たとき、他の国では拒まれた。だが、あの男は受け入れてくれた。戦の技しか持たぬ者も、家のない者も、ここでは生きていける」
――誰もが語る、けれど誰一人、彼の真実を語りきれない。
けれど、そこには確かな敬愛と、静かな感謝があった。
乾いた風が、街の広場を吹き抜ける。コロッセウムの練習が始まり、剣がぶつかる音と歓声が響いていた。
ここでは、命が生きていた。
彼は、いったい何者なのか。なぜ、このような国を築けたのか。
答えを知る者はいない。ただ皆が、彼を“物語”のように語る。
歩けば歩くほど、街のあちこちにルークの影が落ちていた。けれどその影は、誰もが求めていた――優しさの形だった。
セレフィーナは空を仰いだ。
……あなたは、いったい何を失って、こんな世界を作ったの?
その問いは、心に芽生えたばかりの種子のように、静かに風に溶けていった。
やがて彼女は、人気のない小道を歩いていた。
石壁に絡まる蔦、屋根の上でまどろむ猫。遠くで水車がゆっくりと回っている。喧騒の中に、まるで時間が止まったような一角。
ふと足元に伸びた影に気づき、振り返る。
そこには、一本の木の下に腰を下ろす老人がいた。肌は日に焼け、唇は乾いていたが、その瞳は若者のように澄んでいた。
「迷い込んだのかい、お嬢さん」
優しい声だった。
「……いえ。ただ、歩いていただけです」
「この国は広いが、どこへ行ってもあの男の痕跡はある」
その言葉に、セレフィーナの足が止まった。
「……ルークのこと、ですか?」
「そうだ。わしは、かつてあの男と肩を並べて戦った。もう何百年も前のことだがな」
「……え?」
焼き菓子の包みが、指先から滑り落ちた。
「竜の血は、長命をもたらす。だがそれだけじゃない。あれは、時の外に立つ存在……光でもなく、闇でもなく。だが、誰よりも人を知っている」
老人は空を仰ぎ、静かに続けた。
「あの男は、戦いに明け暮れ、英雄と呼ばれ、神にさえ恐れられた。……だが最後に選んだのは、“国を創る”という静かな戦だった」
「どうして……?」
「わからんさ。だが、ひとつだけ言える。あの男は、誰にも言わぬ、深い痛みを抱えている」
沈黙が落ちる。
空を鳥が横切り、羽音だけが時間を打つ。
セレフィーナは胸元に手を当て、そっと目を伏せた。
(……私は、あの人の何も知らなかった)
けれど、だからこそ――彼女は、この地に導かれたのだ。
偶然ではない。そんな気が、確かに風の中にあった。
陽は高く昇り、街に金色の影を落とした。
――歩こう。まだ知らないこの街を、そして、まだ知らないあなたを。
風より静かで、風より確かな足取りだった。
そして、南の丘陵へ。陽の市から遠く離れた場所。
そこには、「始まりの場所」と呼ばれる聖域があった。
火山の噴火によって穿たれた大地の裂け目。今では静かな泉が広がり、空と花々の色を水面に映している。風が吹けば、白い花弁が舞い落ちる。まるで、天からこぼれ落ちた記憶のかけら。
「……妖精の花園に、似てるわ」
無意識にこぼれた言葉。
気づけば、セレフィーナはそこに立っていた。導かれるように。呼ばれるように。
泉の中央には、ひっそりと石の女神像が佇んでいた。蔦に覆われ、自然に溶け込んでいる。
「……誰が建てたの?」
自分の声が、水に揺れて返ってくる。
泉が、像が、大地が――彼女の記憶の奥底に眠っていた何かを揺さぶっていた。輪郭は曖昧で、けれど美しい。まるで、夢のように。
指先を泉に浸す。冷たい。けれど、どこか懐かしい。
「ここは……あの人がいた場所……」
ぽつりと漏れた言葉。その先の記憶は、まだ霧の向こう。
だが、胸の奥で何かが音を立てた。凍てついていた何かが、静かに、溶け始める。
そして――
彼女はまだ気づいていなかった。この女神像の面差しが、かつての自分にどこか似ていることに。
「……ここにいたのか、セレフィーナ」
懐かしい声が、風を撫でて届く。
振り返ると、そこにルークが立っていた。