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第23話 まだ知らないあなたへ

朝靄が、まだ街を柔らかく抱きしめていた。


石畳には砂が舞い、風は遠くの市場から香辛料の匂いを運んでくる。空は澄み渡り、乾いた光が織物の影を石壁に落としていた。


セレフィーナは、指先で金貨の袋を軽くつまみながら歩いていた。


「……好きにしろ」


彼はそれだけを言い残して、朝焼けの空に溶けるように姿を消した。仮面のように無表情だったが、どこかに言葉ではない優しさがあった。あたたかさを湛えた、無言の別れ。


目の前に広がるのは、色とりどりの異国の景色。


絨毯が敷き詰められた小道。天幕の影で歌う吟遊詩人。香ばしく焼かれる羊肉と、甘い果実の香り。噴水に群れる赤い鳥たち。


――ここは見知らぬ地、なのにどこか懐かしい。


果物を籠に積む老婆が、彼女の視線に気づいて微笑んだ。


「よそから来たんだね、お嬢さん」


「……はい」


「この国のこと、まだ知らないだろう?」


セレフィーナが頷くと、老婆は皺だらけの手をゆっくりと空にかざした。


「この国はね、ルーク様が創られたのよ。もともとは、なにもない荒野だったの。水も道もない場所……でもあの方が、すべてを変えた」


「すべてを?」


「ええ。戦争で家族を失った子、奴隷にされた者たち、行き場をなくした民。みんな、あの方のもとに集まった。ルーク様は、誰一人拒まなかったよ。病人も、兵士も、傷を負った者も」


「どうしてそんなことを?」


「さあね。でも、ただ一つだけ言える。あの方は語らない。ただ静かに、人を救う。それが――あの人なのさ」


老婆が指さした丘の上には、白い建物があった。風に乗って、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえてくる。


「孤児院さ。あれも、ルーク様が建てた。あそこにいる子たちはみんな、戦争の落とし子。でも今は……笑って生きている」


セレフィーナは言葉を失っていた。胸の奥で、何かが軋む。


その先では、布を売る青年が声を張っていた。


「ルーク様? ああ、伝説の人さ。竜の血が流れてるって噂もあるし、昔は勇者だったとも言う。どれも作り話みたいだけど、信じたくなるんだよ、あの人を見てると」


遊牧民の長老も語る。


「我らがこの地に来たとき、他の国では拒まれた。だが、あの男は受け入れてくれた。戦の技しか持たぬ者も、家のない者も、ここでは生きていける」


――誰もが語る、けれど誰一人、彼の真実を語りきれない。


けれど、そこには確かな敬愛と、静かな感謝があった。


乾いた風が、街の広場を吹き抜ける。コロッセウムの練習が始まり、剣がぶつかる音と歓声が響いていた。


ここでは、命が生きていた。


彼は、いったい何者なのか。なぜ、このような国を築けたのか。


答えを知る者はいない。ただ皆が、彼を“物語”のように語る。


歩けば歩くほど、街のあちこちにルークの影が落ちていた。けれどその影は、誰もが求めていた――優しさの形だった。


セレフィーナは空を仰いだ。


……あなたは、いったい何を失って、こんな世界を作ったの?


その問いは、心に芽生えたばかりの種子のように、静かに風に溶けていった。


やがて彼女は、人気のない小道を歩いていた。


石壁に絡まる蔦、屋根の上でまどろむ猫。遠くで水車がゆっくりと回っている。喧騒の中に、まるで時間が止まったような一角。


ふと足元に伸びた影に気づき、振り返る。


そこには、一本の木の下に腰を下ろす老人がいた。肌は日に焼け、唇は乾いていたが、その瞳は若者のように澄んでいた。


「迷い込んだのかい、お嬢さん」


優しい声だった。


「……いえ。ただ、歩いていただけです」


「この国は広いが、どこへ行ってもあの男の痕跡はある」


その言葉に、セレフィーナの足が止まった。


「……ルークのこと、ですか?」


「そうだ。わしは、かつてあの男と肩を並べて戦った。もう何百年も前のことだがな」


「……え?」


焼き菓子の包みが、指先から滑り落ちた。


「竜の血は、長命をもたらす。だがそれだけじゃない。あれは、時の外に立つ存在……光でもなく、闇でもなく。だが、誰よりも人を知っている」


老人は空を仰ぎ、静かに続けた。


「あの男は、戦いに明け暮れ、英雄と呼ばれ、神にさえ恐れられた。……だが最後に選んだのは、“国を創る”という静かな戦だった」


「どうして……?」


「わからんさ。だが、ひとつだけ言える。あの男は、誰にも言わぬ、深い痛みを抱えている」


沈黙が落ちる。


空を鳥が横切り、羽音だけが時間を打つ。


セレフィーナは胸元に手を当て、そっと目を伏せた。


(……私は、あの人の何も知らなかった)


けれど、だからこそ――彼女は、この地に導かれたのだ。


偶然ではない。そんな気が、確かに風の中にあった。


陽は高く昇り、街に金色の影を落とした。


――歩こう。まだ知らないこの街を、そして、まだ知らないあなたを。


風より静かで、風より確かな足取りだった。


そして、南の丘陵へ。陽の市から遠く離れた場所。


そこには、「始まりの場所」と呼ばれる聖域があった。


火山の噴火によって穿たれた大地の裂け目。今では静かな泉が広がり、空と花々の色を水面に映している。風が吹けば、白い花弁が舞い落ちる。まるで、天からこぼれ落ちた記憶のかけら。


「……妖精の花園に、似てるわ」


無意識にこぼれた言葉。


気づけば、セレフィーナはそこに立っていた。導かれるように。呼ばれるように。


泉の中央には、ひっそりと石の女神像が佇んでいた。蔦に覆われ、自然に溶け込んでいる。


「……誰が建てたの?」


自分の声が、水に揺れて返ってくる。


泉が、像が、大地が――彼女の記憶の奥底に眠っていた何かを揺さぶっていた。輪郭は曖昧で、けれど美しい。まるで、夢のように。


指先を泉に浸す。冷たい。けれど、どこか懐かしい。


「ここは……あの人がいた場所……」


ぽつりと漏れた言葉。その先の記憶は、まだ霧の向こう。


だが、胸の奥で何かが音を立てた。凍てついていた何かが、静かに、溶け始める。


そして――


彼女はまだ気づいていなかった。この女神像の面差しが、かつての自分にどこか似ていることに。


「……ここにいたのか、セレフィーナ」


懐かしい声が、風を撫でて届く。


振り返ると、そこにルークが立っていた。


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