泉のさざ波が、ふたりの足元をやさしく撫でる。
風が白い花をさらい、空へと舞わせた。
「セレフィーナ、ここにいたのか」
その声に、セレフィーナは振り返ることなく、ただ見つめていた。
無造作に揺れる金色の髪。
海の底のように静かな蒼の瞳は、かすかな影を宿していた。
「……辿り着いたのか」
それは、あまりにも静かな声音だった。
なのに、幾千年の時を越え、祈りのように心に響いた。
「……覚えてる気がする。ここを」
セレフィーナの声は、泉の水よりも風よりも繊細に震えていた。
「忘れるはずがない。お前が……俺を救ってくれた場所だ」
目を伏せたルークの横顔は、まるで罪を祈る聖人のようだった。
「この地で、俺は一度、死んだ」
「……死んだ?」
「呪いに堕ちた俺を、誰も……俺自身でさえも、止められなかった」
沈黙が流れる。
だが、ふたりの間を隔てていたものは、いまや静かにほどけていく。
「世界が俺を敵と呼ぶなか、お前だけが……俺の傍にいてくれた」
セレフィーナの胸に、遠い記憶の欠片がよみがえっていく。
熱にうなされ、命の灯が今にも消えようとする彼の身体を、抱き締めた夜。
鼓動を探して耳をあて、祈るように泣いたあの瞬間。
凍りついた頬に、ひと粒の涙が落ちた、あの日。
「……けれど、私はあなたを残して去った」
「そうだ。お前が俺を救った代償として……神々はお前を罰した」
「そんな……そんなはず……」
「許してくれ、セレフィーナ……」
ルークはそっと手を差し出した。
その掌には、かつて彼女が握った温もりが、今も宿っていた。
「この地に国を築いたのは、お前の帰る場所を作りたかったからだ。
たとえ記憶をなくしても、迷い込んだときに、もう一度、迎えられるように」
その声は震えていた。
かつて世界を照らした男が、今はただ、一人の少女の帰りを願う少年のように。
「ルーク……」
「遅すぎたかもしれない。けれど……俺は、ずっと――」
そのとき、風が白い花を巻き上げた。
花弁は雪のようにふたりを包み込み、静かに降り注いだ。
セレフィーナは、彼の手をそっと取った。
「遅くなんて、ないわ」
「私は帰ってきた。たとえ記憶がまだ曖昧でも、心が覚えている。
あなたが誰で、私が誰なのか――もう迷わない」
その言葉は、どんな呪いよりも強く、どんな魔法よりも優しかった。
彼女の声が、長く凍てついていた彼の胸を、そっと溶かしていく。過去の贖罪の記憶が、彼の腕を一瞬止めたけれど、それでも目の前の乙女の儚さに引き寄せられるようにー
ルークは、セレフィーナを抱きしめた。
過去も、罪も、時のすべてを、ひとつに包み込むように。
泉の水面に、ふたりの影が重なる。
やがて水は揺れ、まるで封じられた記憶が目を覚ますように――
あの日と同じ、柔らかな陽が、ふたりを照らしていた。
記憶がひと雫、零れ落ちる。
それは、世界がまだ神話だった頃――
月が近くで輝き、山も海も眠るように静かだった時代。
だが、その静寂を破ったのは、深淵の闇だった。
黒の波が空を蝕み、大地を呑み込み、命を塵へと変えていった。
人と神が手を取り合い、絶望に立ち向かった。
その先陣に立ったのが、金の髪を持つひとりの青年――ルーク。
風のように自由で、太陽のように輝いた英雄。
彼の眩しさに、妖精の国の女神セレフィーナは、ただ心を奪われた。
天より生まれし白き女神。
どんな神よりも清らかに、彼の背中を、遠くからそっと見守っていた。
だが運命は、容赦なく牙をむいた。
闇との戦いの末、ルークは黒き炎をその身に封じ、呪われた。
ドラゴンと化し、理性を失い、かつて守った世界を、自ら焼き払った。
白き森は灰となり、空を舞う羽根たちは地に堕ちた。
セレフィーナの小さな手では、何ひとつ守れなかった。
それでも彼女は、彼を憎まなかった。
炎の奥、血に濡れた瞳のなかに――確かに、あの日の光が残っていたから。
そして、世界はついに堕ちた英雄に刃を向けた。
だがその瞬間、彼のもとに舞い降りたのは、ひとりの女神。
灰の大地に咲いた、一輪の白い花のように。
「もう、ひとりにしない」と。
その言葉が、世界の理を変えた。
神々の怒りは天を裂き、セレフィーナは神の座を追われた。
光ではなく、影と共に生きるよう命じられ――
ひとり呪いを背負い、彷徨う運命を与えられた。
それでも、彼女の胸の奥には
金の髪と海の瞳を持つ青年の記憶だけが、ひとつの光として残っていた。
セレフィーナの視線が、泉の向こうを見つめている。
「……ここに来て、思い出した気がするの」
「何を?」
「遥か昔の記憶。でも、今はもう関係ないの。だってあなたが教えてくれたから。
私は、過去ではなく今を生きている。自分の足で立っていると」
――今なら、わかる気がする。
ネイトが記憶を消し、私を楽園に閉じ込めようとした理由も。
そしてルークが、その楽園から私を連れ出した理由も。
それは、ただ祈るだけの無垢な存在から、
愛する者と並び、己の意思で世界に向き合うため――
ひとりの乙女として、眠れる心に翼を得る旅だった。
この瞬間、ふたりの物語は、
過去の神話ではなく、今という現実の中で、
静かに、確かに、再び始まっていた。