朝の光が、塔の高窓から静かに差し込んでいた。
淡く、透き通る陽射しが、天蓋の揺れるベッドを優しく包み込む。
セレフィーナは静かに目を開けた。
毛布にくるまれ、昨夜はルークと寄り添っていたはずだった。けれど、目覚めた場所は――
塔の上の、大きな寝台の上だった。
「……運んでくれたのね」
微かに残るぬくもりに触れながら、彼女はゆっくりと身体を起こす。
カーテンを押し開けると、下の中庭で剣を振るう、陽を浴びた金髪が目に入った。
――ルークだ。
金糸のように光るざんばら髪。
鋭く力強い剣の動きの合間にも、兵士たちへ向ける声はどこまでも穏やか。
そのすべての所作が堂々としていた。
セレフィーナは思わず窓辺に歩み寄り、目を細める。
……知ってる。ずっと、見ていた。あの背中を――
まばゆい光の中、記憶が静かに呼び覚まされていく。
遠い昔。
私は、ただ見つめることしかできなかった。
――太陽のように輝く、あの青年を。
手を伸ばしても届かない。
彼は地上に降りた黄金の鷲のように、自由で、勇猛で、
女神である私には触れることすら許されなかった。
それでも私は、ただ、彼の背中を追い続けていた。
……ああ、思い出してしまう。
ふいに胸が締めつけられた。
憧れと焦がれ、愛しさと哀しさがないまぜになって、涙がにじむ。
だけど――
今、私はここにいる。
「……ルーク」
小さな囁きが風にさらわれる。
彼はきっと、もう気づいている。
あの太陽を見上げることしかできなかった記憶は、
いまや、すぐ隣で触れられる温もりに変わった。
セレフィーナは瞳を伏せ、胸に手を当てる。
「いま、こんなにも近くに……」
気がつくと、太陽が沈む頃まで、彼の姿を追っていた。
まるで、かつて女神だった頃の私のように。
ふと手を伸ばすと、風がふわりと舞い、ペガサスの羽が指先をすり抜けて宙を踊った。
「……あっ!」
そのまま塔を駆け下りる。
まるで、大切な約束を追いかけるように。
中庭で稽古の手を止めたルークが、彼女を見上げる。
風に揺れる髪。夢中で羽を追うあの姿――
胸の奥で、何かがぎゅっと軋んだ。
──あれは、あの男の証だ。
羽が草の上に舞い落ちる。
セレフィーナは膝をつき、そっとそれを両手で包み込むように抱きしめた。
「……ネイト……」
その囁きが、風に乗ってルークの耳に届く。
次の瞬間、足音もなく彼は彼女の背後に立っていた。
「……それは、あいつの……」
振り返ると、ルークの瞳が真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
怒りと寂しさ、そして焦がれるような想いが渦巻いている。
「……逃げるな」
その声が耳元で震えた瞬間、背中が冷たい石の感触に触れ、セレフィーナは息を呑む。
――ドンッ
彼の右手が、顔のすぐ脇に勢いよく伸ばされ、壁を叩くように支えた。
もう片方の手は顎先に触れ、彼女の顔をそっと固定する。
「ルーク……?そんな顔……しないで……」
かすれた声で名を呼んでも、彼の瞳はさらに深く、鋭く、彼女の心を覗き込んでいた。
「……どうして、お前は、囚われ続ける」
唇がわずかに歪む。
それは、嫉妬――心の奥で燃え上がる赤い焔だった。
「ペガサスの羽を追うお前を見た時、分かった。
――お前は、まだあいつを胸に抱いている」
セレフィーナは言葉を返せない。
彼の熱と視線、気迫に飲み込まれていた。
「お前から……ペガサスの匂いが消えない」
彼の顔が、ぐっと近づく。
息が、混じり合いそうな距離。
「ペガサスは……私を守るために、記憶を消したの。
そして、楽園に……」
「お前を守るため。……そうだとしても、俺には、それが許せない」
「どうして、そんなにネイトを嫌うの?」
「……あいつは昔からそうだった」
ルークの声が低く落ちる。
記憶の底から、封じられていた想いが湧き上がるように。
「いつも正しい言葉を選び、誰よりも冷静で、すべてを思い通りに動かす……まるで最初から、神に選ばれているみたいに」
眉が歪み、苦い笑みが浮かぶ。
「共に剣を振るった命の戦場でも、隣には並べなかった。
あいつは光の中にいて、俺は……闇に呑まれた」
セレフィーナが息を呑む。
「それなのに、あいつは何ひとつ汚れず、お前の前に現れた。
記憶を奪い、永遠を武器にして」
ルークが一歩、近づく。
「お前の口からネイトの名を聞くたび、胸が焼けるんだ」
そして――
唇が、迷いなく、セレフィーナの唇を塞いだ。
優しさより先に来たのは、激情。
彼女の心を支配しようとするような、強くて、真っ直ぐなキスだった。
その腕の中で、セレフィーナはもう、何も考えられなかった。
「違う……私は、ただ……」
「“ただ”じゃない。お前の目が、心が、まだあいつを見てる気がした。……だから」
もう一歩、近づく。
「俺は、俺のやり方で、あいつを超える」
「お前が誰を想っていようと、俺は……お前を奪う」
決して逃がさない熱を孕んだ口づけ。
手のひらが頬から首筋へ、背へと滑り、彼女の身体を引き寄せる。
「お前の匂いを、塗り替えてやる」
声が震えていた。怒りでも欲望でもない。
それは――愛という名の、どうしようもない嫉妬。
セレフィーナは胸の羽をぎゅっと握りしめたまま、彼の腕の中で目を閉じた。
けれど――目を閉じる前に、そっと心に問いかける。
「……私は、もう逃げたくない。
誰かが作った檻に、永遠に囚われるのは――いや……」
──あの空を焦がしたペガサスの羽は、
いま、彼女の心に落ちてきた金色の太陽の炎に、そっと溶けていく。
ルークの腕の中で、セレフィーナの小さな身体が微かに震える。
「ルーク…ひどい人……」
その名を呼んだ瞬間、彼の腕に力がこもる。
何度も、唇が重なった。
深く、強く、熱く――胸の奥が焼けるようだった。
気づけば、再び塔の部屋へと連れ戻されていた。
天蓋の揺れるベッド。
朝の光はいつの間にか夕映えに変わり、カーテンの隙間から差し込む金色の光が、二人の肌をやわらかく照らしていた。
ルークは黙ったまま、セレフィーナの髪を撫でる。
「……俺は、お前の過去を消せない。
あいつとの記憶も、羽に込めた永遠の誓いも……どうにもできない」
その声は、低く、深く。
「だけど、お前の“これから”は……俺が、全部、塗り替える」
セレフィーナの瞳が揺れた。
「ルーク、あなたに、捕えられた……」
「……今、お前に、俺を刻む」
その言葉と共に、彼の手が頬から、肩、背へと滑り――
ゆっくりと、けれど確かな決意と共に、衣をほどいていく。
逃げ場のない熱の中で、彼女はもう、抗わなかった。