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第26話 胸焦がす炎

朝の光が、塔の高窓から静かに差し込んでいた。

淡く、透き通る陽射しが、天蓋の揺れるベッドを優しく包み込む。


セレフィーナは静かに目を開けた。

毛布にくるまれ、昨夜はルークと寄り添っていたはずだった。けれど、目覚めた場所は――

塔の上の、大きな寝台の上だった。


「……運んでくれたのね」


微かに残るぬくもりに触れながら、彼女はゆっくりと身体を起こす。

カーテンを押し開けると、下の中庭で剣を振るう、陽を浴びた金髪が目に入った。


――ルークだ。


金糸のように光るざんばら髪。

鋭く力強い剣の動きの合間にも、兵士たちへ向ける声はどこまでも穏やか。

そのすべての所作が堂々としていた。


セレフィーナは思わず窓辺に歩み寄り、目を細める。


……知ってる。ずっと、見ていた。あの背中を――


まばゆい光の中、記憶が静かに呼び覚まされていく。


遠い昔。

私は、ただ見つめることしかできなかった。


――太陽のように輝く、あの青年を。


手を伸ばしても届かない。

彼は地上に降りた黄金の鷲のように、自由で、勇猛で、

女神である私には触れることすら許されなかった。


それでも私は、ただ、彼の背中を追い続けていた。


……ああ、思い出してしまう。


ふいに胸が締めつけられた。

憧れと焦がれ、愛しさと哀しさがないまぜになって、涙がにじむ。


だけど――


今、私はここにいる。


「……ルーク」


小さな囁きが風にさらわれる。

彼はきっと、もう気づいている。


あの太陽を見上げることしかできなかった記憶は、

いまや、すぐ隣で触れられる温もりに変わった。


セレフィーナは瞳を伏せ、胸に手を当てる。


「いま、こんなにも近くに……」


気がつくと、太陽が沈む頃まで、彼の姿を追っていた。

まるで、かつて女神だった頃の私のように。


ふと手を伸ばすと、風がふわりと舞い、ペガサスの羽が指先をすり抜けて宙を踊った。


「……あっ!」


そのまま塔を駆け下りる。

まるで、大切な約束を追いかけるように。


中庭で稽古の手を止めたルークが、彼女を見上げる。

風に揺れる髪。夢中で羽を追うあの姿――


胸の奥で、何かがぎゅっと軋んだ。


──あれは、あの男の証だ。


羽が草の上に舞い落ちる。

セレフィーナは膝をつき、そっとそれを両手で包み込むように抱きしめた。


「……ネイト……」


その囁きが、風に乗ってルークの耳に届く。


次の瞬間、足音もなく彼は彼女の背後に立っていた。


「……それは、あいつの……」


振り返ると、ルークの瞳が真っ直ぐに彼女を射抜いていた。

怒りと寂しさ、そして焦がれるような想いが渦巻いている。


「……逃げるな」


その声が耳元で震えた瞬間、背中が冷たい石の感触に触れ、セレフィーナは息を呑む。


――ドンッ


彼の右手が、顔のすぐ脇に勢いよく伸ばされ、壁を叩くように支えた。

もう片方の手は顎先に触れ、彼女の顔をそっと固定する。


「ルーク……?そんな顔……しないで……」


かすれた声で名を呼んでも、彼の瞳はさらに深く、鋭く、彼女の心を覗き込んでいた。


「……どうして、お前は、囚われ続ける」


唇がわずかに歪む。

それは、嫉妬――心の奥で燃え上がる赤い焔だった。


「ペガサスの羽を追うお前を見た時、分かった。

 ――お前は、まだあいつを胸に抱いている」


セレフィーナは言葉を返せない。

彼の熱と視線、気迫に飲み込まれていた。


「お前から……ペガサスの匂いが消えない」


彼の顔が、ぐっと近づく。

息が、混じり合いそうな距離。


「ペガサスは……私を守るために、記憶を消したの。

 そして、楽園に……」


「お前を守るため。……そうだとしても、俺には、それが許せない」


「どうして、そんなにネイトを嫌うの?」


「……あいつは昔からそうだった」


ルークの声が低く落ちる。

記憶の底から、封じられていた想いが湧き上がるように。


「いつも正しい言葉を選び、誰よりも冷静で、すべてを思い通りに動かす……まるで最初から、神に選ばれているみたいに」


眉が歪み、苦い笑みが浮かぶ。


「共に剣を振るった命の戦場でも、隣には並べなかった。

 あいつは光の中にいて、俺は……闇に呑まれた」


セレフィーナが息を呑む。


「それなのに、あいつは何ひとつ汚れず、お前の前に現れた。

 記憶を奪い、永遠を武器にして」


ルークが一歩、近づく。


「お前の口からネイトの名を聞くたび、胸が焼けるんだ」


そして――

唇が、迷いなく、セレフィーナの唇を塞いだ。


優しさより先に来たのは、激情。

彼女の心を支配しようとするような、強くて、真っ直ぐなキスだった。


その腕の中で、セレフィーナはもう、何も考えられなかった。


「違う……私は、ただ……」


「“ただ”じゃない。お前の目が、心が、まだあいつを見てる気がした。……だから」


もう一歩、近づく。


「俺は、俺のやり方で、あいつを超える」


「お前が誰を想っていようと、俺は……お前を奪う」


決して逃がさない熱を孕んだ口づけ。

手のひらが頬から首筋へ、背へと滑り、彼女の身体を引き寄せる。


「お前の匂いを、塗り替えてやる」


声が震えていた。怒りでも欲望でもない。

それは――愛という名の、どうしようもない嫉妬。


セレフィーナは胸の羽をぎゅっと握りしめたまま、彼の腕の中で目を閉じた。


けれど――目を閉じる前に、そっと心に問いかける。


「……私は、もう逃げたくない。

 誰かが作った檻に、永遠に囚われるのは――いや……」


──あの空を焦がしたペガサスの羽は、

いま、彼女の心に落ちてきた金色の太陽の炎に、そっと溶けていく。


ルークの腕の中で、セレフィーナの小さな身体が微かに震える。


「ルーク…ひどい人……」


その名を呼んだ瞬間、彼の腕に力がこもる。

何度も、唇が重なった。

深く、強く、熱く――胸の奥が焼けるようだった。


気づけば、再び塔の部屋へと連れ戻されていた。

天蓋の揺れるベッド。

朝の光はいつの間にか夕映えに変わり、カーテンの隙間から差し込む金色の光が、二人の肌をやわらかく照らしていた。


ルークは黙ったまま、セレフィーナの髪を撫でる。


「……俺は、お前の過去を消せない。

 あいつとの記憶も、羽に込めた永遠の誓いも……どうにもできない」


その声は、低く、深く。


「だけど、お前の“これから”は……俺が、全部、塗り替える」


セレフィーナの瞳が揺れた。


「ルーク、あなたに、捕えられた……」


「……今、お前に、俺を刻む」


その言葉と共に、彼の手が頬から、肩、背へと滑り――

ゆっくりと、けれど確かな決意と共に、衣をほどいていく。


逃げ場のない熱の中で、彼女はもう、抗わなかった。


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