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第3話

鹿乃の心がわずかに震えた。横目で窈子を見やると、彼女は挑発的な笑みを浮かべながらスマホを取り出し、アラームをセットしていた。

ちょうど1分後、アラームが鳴り始める。

窈子は電話に出るふりをし、数秒後には涙ぐんだ顔で前の座席に目を向けた。

「湊くん、さっき家の執事から電話があって……うちのワンちゃんが病気みたいなの。すごく心配……今すぐ送ってもらえない?」

湊は車を道路脇に止め、窓の外で降りしきる雨を見つめながら、眉をひそめて後部座席を振り返った。

しかし、泣きそうな窈子の顔を見ると、数秒間迷った末に、目線を鹿乃へと向け直した。

「今から窈子を西の街まで送るから、方向が違うんだ。鹿乃、お前はここで降りてタクシー拾って行ってくれ。」

鹿乃が拒否するのを恐れてか、窈子はすかさず傘を差し出した。

鹿乃の視線はふたりの間を行き来したが、何も言わずに車のドアを開けた。

破れた傘から雨が漏れ、あっという間に全身がびしょ濡れになった。

雨は激しく、なかなかタクシーもつかまらない。仕方なく彼女はカバンを頭にかざし、足早に走り出した。

三十分も走って、ようやくビザ申請所に到着。

手続きを終えて外に出たが、やはりタクシーは見つからない。

鹿乃はまたしても雨の中、一時間かけて家まで歩いて帰る羽目になった。

家に着いた時には、すっかり体が熱っぽくなっていた。全身がだるく、意識が朦朧としたままベッドに倒れ込んだ。

悪い夢をいくつも見た。全身が冷や汗にまみれ、何かに追われているような気がしてならなかった。

ようやく目をこじ開けると、夢に出てきた「怪物」は湊だった。

湊は彼女を抱きしめ、スプーンで薬を一口ずつ飲ませてくれる。

その声はどこか優しく、どこか痛ましい響きを含んでいた。

「いい子だ、薬を飲んで。すぐ良くなるからな。」

鹿乃はこれが現実なのか夢なのか、よくわからなかった。

薬を数口飲むと、再び眠りに落ちた。

次に目が覚めたときには、熱はすっかり引いていた。

反射的に隣を見たが、そこには誰もいなかった。

ただ、枕元のスマホが振動し続けている。

手に取って画面を見ると、湊の友人たちがグループチャットで彼を@し続けていた。


「湊、あんたの演技マジですごいな。あの妹ちゃんが熱出したって聞いた途端、何十億のプロジェクト蹴って家まで飛んで帰るとかさ。」

「なんかさ、本気に見えたんだよな。熱出したって聞いて、赤信号20回以上も突っ切って帰ってきたんだろ?あれ、本当に惚れてるんじゃねーの?」

「同感。あの焦りよう、芝居じゃなかった気がする。」

グループチャットの下には、湊の返信がただ一言だけ。

――「好き?俺が死なない限り、そんなことはない。ただの芝居だよ、徹底的にやらなきゃ意味がないだろ。そうすりゃ真相が明らかになった時に、もっと絶望するだろ?」

一文字一文字が、鹿乃の心の奥深くまで刺さる。

五年間も寄り添ってきたのに、彼の口から出たのはこれだなんて。

湊、あんたには本当に心なんてないの?

全身の力が抜ける感覚に襲われ、鹿乃は手からスマホを滑り落とした。

その瞬間、寝室のドアが開く音がした。

湯呑みを持って入ってきた湊は、鹿乃の様子を見て表情を強張らせ、すぐに駆け寄ってスマホを奪い取った。

その声からは、いつもの余裕など感じられず、わずかな緊張がにじんでいた。

「……何、見た?」

鹿乃はうつむき、赤くなった目を髪で隠しながら、かすれた声で答えた。

「……見ちゃいけないものでも、あった?」

なぜなのか、彼女には理解できなかった。

彼女がどれほど彼に心を奪われているか、湊自身が一番よく知っているはずなのに――

なぜ、終わらせないの?

なぜ、まだ演じ続けるの?

なぜ、バレないようにって、必死になるの?嘘と演技の五年間。そんなに疲れないの?

もう……いい。

彼の目的はもう達成された。

彼女の心は、もうズタズタだ。だが湊は、そんな彼女の心の内にまったく気づいていない。

ただ体調不良で機嫌が悪いのだろうと勘違いし、彼女を抱き寄せて優しく囁いた。「違うよ、鹿乃。実はサプライズを用意してたんだ。内緒にしたかっただけで……怒らせたなら、今ここで言うよ?」

「調べたんだ。デンマークなら、血のつながってない兄妹でも結婚できるって。だから俺たち、あっちに移民して籍を入れよう?もう手配も始めてる。」

こんな話は、今まで何度となく深夜の枕元で交わしてきた。

でも今、改めて聞いても、鹿乃の心には何のときめきも湧かない。ただ、冷たい湖面のように静まり返っているだけだった。

もうわかっている。

彼らに、未来はない。

十日後――湊の人生に、鹿乃という存在はいなくなる。

鹿乃の人生からも、湊は消えるのだ。


「湊、あんたの演技マジですごいな。あの妹ちゃんが熱出したって聞いた途端、何十億のプロジェクトも蹴って家まで飛んで帰るとかさ。」

「なんかさ、本気に見えたんだよな。熱出したって聞いて、赤信号20回以上も突っ切って帰ってきたんだろ?湊、本当に惚れてるんじゃねーの?」

「同感。あの焦りよう、芝居じゃなかった気がする。」

グループチャットの下には、湊の返信がただ一言だけ。

――「好き?俺が死なない限り、そんなことはない。ただの芝居だよ、徹底的にやらなきゃ意味がないだろ。そうすりゃ真相が明らかになった時に、もっと絶望するだろ?」

一文字一文字が、鹿乃の心の奥深くまで刺さる。

五年間も寄り添ってきたのに、彼の口から出たのは「好き?俺が死なない限り」だなんて。

湊湊、あんたには本当に心なんてないの?

全身の力が抜ける感覚に襲われ、鹿乃は手からスマホを滑り落とした。

その瞬間、寝室のドアが開く音がした。

湯呑みを持って入ってきた湊は、鹿乃の様子を見て表情を強張らせ、すぐに駆け寄ってスマホを奪い取った。

その声からは、いつもの余裕など感じられず、わずかな緊張がにじんでいた。

「……何、見た?」

鹿乃はうつむき、赤くなった目を髪で隠しながら、かすれた声で答えた。

「……見ちゃいけないものでも、あった?」

なぜなのか、鹿乃には理解できなかった。

自分がどれほど彼に心を奪われているか、湊自身が一番よく知っているはずなのに――

なぜ、終わらせないの?

なぜ、まだ演じ続けるの?

なぜ、バレないようにって、必死になるの?嘘と演技の五年間。そんなに疲れないの?

もう……いい。

彼の目的はもう達成された。

鹿乃の心は、もうズタズタだ。だが湊は、そんな鹿乃の心の内にまったく気づいていない。

ただ体調不良で機嫌が悪いのだろうと勘違いし、鹿乃を抱き寄せて優しく囁いた。「違うよ、鹿乃。実はサプライズを用意してたんだ。内緒にしたかっただけで……怒らせたなら、今ここで言うよ?」

「調べたんだ。デンマークなら、血のつながってない兄妹でも結婚できるって。だから俺たち、あっちに移民して籍を入れよう?もう手配も始めてる。」

こんな話は、今まで何度となく深夜の枕元で交わしてきた。

でも今、改めて聞いても、鹿乃の心には何のときめきも湧かない。ただ、冷たい湖面のように静まり返っているだけだった。

もうわかっている。

彼らに、未来はない。

十日後――湊の人生に、鹿乃という存在はいなくなる。

鹿乃の人生からも、湊は消えるのだ。


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