「いやあ、幼馴染だけあって、二人まるで恋人同士みたいじゃないか」
「ははっ、この調子じゃ、そろそろうちのばか息子の結婚式にも出られそうだな。楽しみだよ!」
背後から神崎誠司の声が聞こえてきた瞬間、鹿乃はようやく我に返った。慌ててシャッターを切り、今夜のクライマックスとなるシーンをきっちりとカメラに収めた。
舞台上の二人はすぐに距離を取った。窈子は顔を真っ赤にしながら、三階に向かって手を振る。
「鹿乃、お疲れさま。今日はもう十分よ、ありがとう!」
その言葉に、鹿乃はようやく安堵の息を吐き、機材をまとめて下階へと降りた。神崎おじさんと母のそばに歩み寄ると、母が窈子の手を取って、にこやかに話しかけているところだった。
「道中ちょっとトラブルがあって遅くなっちゃって……窈子さん、気を悪くしてない?」
「そんなことありませんよ、叔母様、叔父様が来てくださって嬉しいです。ちょうどケーキを分けるところでしたし」
誠司は満足そうに息子を見やり、肩をポンと叩いた。
「湊、お前もようやく身を固める気になったんだな。父さんはうれしいよ。あのネックレスまで贈ったんだし、そろそろ窈子ちゃんのご両親も招いて、正式に結婚の話を進めたらどうだ?」
窈子の頬は一瞬で真っ赤に染まり、嬉しそうに湊を見つめた。そして次に視線を鹿乃へと向ける。
「私はもう大丈夫だと思うの。だけど、国内には友達が少ないから……結婚式のときは、鹿乃にもぜひ手伝ってほしいな。たとえば……私のブライズメイドになってくれたら嬉しいな」
鹿乃はカメラを持って疲れた手を揉んでいて、その言葉に気づかなかった。母が軽くつついて再度言ってくれたことで、ようやく反応を見せた。
ゆっくりと顔を上げる鹿乃。その表情は相変わらず淡々としていて、感情は読み取れなかった。
「すみません、先の予定が立て込んでいて、式には伺えないと思います。
でも……心から、義姉さんと湊兄の幸せをお祈りします。末永くお幸せに」
その言葉に、母と誠司、それに窈子まで笑顔を浮かべた。
ただ一人、神崎湊だけが違った。
彼の目は暗く沈み、じっと鹿乃を見つめた。口元の薄い笑みも、すっと消えていった。
長く、苦しい仕事を終えた鹿乃は、帰宅するなりバスルームへ直行した。シャワーを浴び、濡れた髪をタオルで拭きながら、疲れた体を引きずって部屋のドアを開ける。
その瞬間だった。
「……っ」
大きな手が彼女の腕を掴み、力強く廊下の壁に押し付けた。
そして、間髪入れずに降り注いだのは、雨のように途切れることのないキスの嵐。首筋に残る水滴の上を舌が這い、くっきりとした赤い痕を刻んでいく。
この突然の出来事に、鹿乃は思わず叫びそうになった。だが喉までこみ上げた悲鳴を、舌で必死に押しとどめ、左右に身をよじって彼の拘束から逃れようとした。
しかし、鹿乃が逃げれば逃げるほど、湊のキスはどんどん激しさを増していき、ついには彼女の顎を押さえつけてきた。
鹿乃は全身で抵抗し、階下から誰かが階段を上ってくる足音が聞こえ始めると、その瞳には恐怖の色が浮かんだ。
「……正気なの?」
この一言が口からこぼれた瞬間、湊は目を赤く染めたまま冷たい笑みを浮かべ、鹿乃の耳元に顔を近づけた。
「正気じゃないさ。そんなに嫌なら、大声で叫べばいい。みんなに見てもらおうじゃないか、俺たちがどんな関係なのかを。‘兄’が‘妹’をどうやって追い詰めてるのかをさ。」
やがて足音が階段を降りていくのを聞いて、鹿乃の凍りついた心もようやく落ち着きを取り戻した。彼女は力を振り絞って湊の腕を振りほどき、身体をかがめてすり抜けると、怯えを滲ませた声で言った。
「……本気で何考えてるの?」
湊の目線は鹿乃を追い、瞳に宿る影はまだ晴れない。
「本気でわかってないのか? 誰が『兄さん』なんて呼んでいいって言った? あいつのことも『義姉さん』だと? 」
鹿乃はその場で立ち止まった。
湊が自分に近づいてきたのは、復讐のためだった。
――それは、彼自身が言ったことだ。ならどうして、こんな些細な呼び方にまでこだわるのだろう。
「……『兄さん』って呼んで何が悪いの。あの人と結婚するんでしょ? 私の目の前でキスまでしてたじゃない……!」
「鹿乃!」湊の声が怒りに震える。
「何度説明すればいい!? あれはただの演技だ! 窈子にキスしたのは……父さんたちが来てたからだ!」
怒気を帯びた声だった。湊の怒りが本物なのかどうか、鹿乃にはもうわからなかった。
でも――彼女の中では、すでに「これはまた演技だ」という確信が芽生えていた。だからこそ、彼女はうなずいて言った。
「ええ、確かに。あなたって、本当に演技が上手だもの。」
――でも、そんな
私はもう、あなたの
そう思いながらも、鹿乃はその思いを口には出さなかった。ただ、何度かまばたきをしたあと、ついに堪えていた涙が溢れ出した。
もう、これ以上は無理だ。
もう、彼の茶番に付き合う気力は残っていなかった。
湊は、いつまで私を縛るつもりなのか。