その一言と、理由もなくこぼれ落ちた涙に、湊の心も不意にざわめいた。
――付き合って四年。
こんなふうに、鹿乃が心底から力なく、苦しそうな顔を見せたのは、初めてだった。どんなに辛いことがあっても、どんなに落ち込んでいても――
彼女はいつも湊の前では、笑っていた。明るく、前向きで、頑張っているふりをしていた。それは、彼に誤解されたくなかったから。
この秘密関係に、もう自信が持てなくなったなんて、知られたくなかったから。何がきっかけで鹿乃がこんな表情をしたのか、湊にはわからなかった。
けれど本能的に、彼は鹿乃を抱きしめていた。
「……ごめん、鹿乃。泣かないで。全部、兄さんが悪かった。
今日、君があの子のこと『義姉さん』って呼んだから……
俺、頭に血が上ってた。もう絶対に、こんなことしないから。な?」
そう言って、湊はまた唇を寄せようとした。
今回は、いつになく優しい動きだった。
だが――鹿乃は、静かに彼を押しのけた。
「……生理中。」
「えっ……もう何日目だ? まだ終わってなかったのか?」
「うん……この前、熱を出してから、ずっと体調も変で……」
あの夜、高熱でうわごとを呟きながらぐったりしていた鹿乃の姿が脳裏をよぎり、湊の目に一瞬、心配の色が浮かんだ。
無理強いするのをやめ、彼は鹿乃をそっと抱き上げて寝室に連れて行った。
灯りを消し、ベッドに彼女を横たえ、自分もそっと隣に寝転がった。鹿乃は、もう目も開けられないほど疲れきっていた。
ベッドに触れた瞬間、すぐに眠りに落ちてしまった。
小さなナイトライトの光に照らされた彼女の寝顔を見つめながら、湊はぼんやりとした表情を浮かべていた。
心の中に、過去の思い出が次々と浮かんでは消えていく。
結局、彼がようやくまぶたを閉じたのは、深夜三時を回った頃だった。
その前に一度だけ、彼はとても大切なものに触れるように、鹿乃の額にそっと口づけた。
――カーテンを閉め忘れた部屋に、朝の光が差し込む。
まぶた越しに感じるまぶしさで、湊は目を覚ました。
隣には、まだすやすやと眠る鹿乃の姿。彼女が寝返りをうった拍子に、しびれていた湊の腕に痛みが走る。
彼は目を開き、テーブルの上にある時計を見た――時刻は九時を回っていた。
(……えっ?)
思わず、彼は固まった。
いつもなら、体内時計で時間ぴったりに目が覚めるのに……。
今日はどうして寝過ごしたのか。ふと思い出す――家での朝食の時間が、ちょうど今ぐらいだったことを。
「……やばっ見つかっちゃう」
そう呟いて、湊はベッドから飛び起きた。
そっとドアを開けた湊は、足音を忍ばせながら向かいの自室に戻ろうとした。だが、数歩進んだところで――
階段の踊り場に現れた母と鉢合わせた。
彼女は湊の姿を見て、その場に固まった。
「……湊?」
湊も思わず、自分の乱れたパジャマの襟元に視線を落とし、心臓が飛び出しそうになった。
母の顔に浮かぶ疑念の色は、みるみる濃くなる。
「……湊? なんで鹿乃の部屋から出てきたの?」
頭の中はまだ寝起きでぼんやりしていて、うまく言葉が出てこない。どう答えるべきか分からず固まっていると――
背後で、部屋のドアが開いた。
鹿乃はすでに身支度を終えており、冷静な表情で二人の前に現れた。
「おはよう、母さん」
「お兄ちゃん、朝ご飯呼んでくれたんじゃなかったの? どうしてそんなに先に行っちゃうの?」
……どうやら、ただの誤解だったらしい。
母は胸をなで下ろし、笑顔を浮かべて二人を手招きした。
「さあ、早くご飯にしましょうね」
「うん」
鹿乃は小走りで駆け寄ると、母の手を取って一緒に階段を降りた。
だが、食卓に着いた瞬間、鹿乃の足が止まった。
そこには、窈子が笑顔で座っており、手を振っている。
「鹿乃ちゃん、今日はね、湊と結婚式のことを話し合いたくて来たの。邪魔じゃないわよね?」
鹿乃が口を開く前に、母が先に答えた。
「何言ってるの、鹿乃は湊の妹でしょ? あなたは湊の恋人なんだから、結婚の話をしても何も問題ないじゃない」
鹿乃は口元をわずかに引きつらせながら、黙って頷いた。
――そう。これから先、わたしは
彼女は無言で席に着き、窈子が湊の腕を引きながら、式の相談を始めるのをただ静かに見つめた。
「湊、式は芝生の上がいいかな? それとも海辺? 指輪はダイヤがいい? 宝石の方が好き?」
鹿乃は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた――まるで、心のどこかを切り取られたように。