鹿乃は最初から最後まで、ただ黙って食事を続けていた。一度も顔を上げず、湊がどう答えているのかも耳を貸さなかった。
食べ終わって席を立とうとしたそのとき、スマホにいくつかの通知が届いた。
窈子からの振込だった。――200万円。きっちり、欠けることなく。
鹿乃が顔を上げると、ちょうど彼女と目が合った。窈子の笑みには、挑発の色が隠されていた。
すぐさま、もう一通メッセージが届く。
「昨日あなたが撮ってくれた写真、すごく気に入ったの。特にあの数枚、綺麗だったわ。絶対に湊にも見せてあげる。あなたの努力、無駄にはしないからね!」
鹿乃は「了解」とだけ返信し、すべての振込を確認してから、すぐに口座へ入金した。
ちょうど三千万円。預金残高を見つめ、鹿乃はかすかに笑った。
食卓ではまだ話が続いている。誰も彼女に注意を払っていない隙に、鹿乃は部屋へ戻り、手早く服を着替えた。
今日は数人の女友達と会って、渡航前の別れを告げる約束がある。遅れるわけにはいかなかった。
急ぎながらも、鹿乃はぴったり正午に会員制クラブに到着した。
友人たちと軽く言葉を交わす。どの声にも名残惜しさがにじんでいた。
「鹿乃、本当に留学行っちゃうの? どれくらい? 戻ってくるの?」
「うん、三年の予定。その後は向こうで仕事して、落ち着くつもり。
たぶん、帰ってこない」
思いもよらぬ答えに、三人の友人は驚きの表情を浮かべた。
「じゃあ、お兄さんは? 彼は日本にいるでしょ? 結婚するって言ってたじゃない!」
鹿乃と湊の関係は、彼女たちには隠していなかった。社会には認められない関係だったけれど、ずっと心に押し込めていると壊れてしまいそうで、信頼できる友人たちにだけ話していた。
今になってこんなふうに問われ、鹿乃は唇を引きつらせる。
「もう終わったの。彼のことは……もう好きじゃない」
あっけらかんとした口調。でも、友人たちは知っていた。彼女がどれほどの苦しみと葛藤を乗り越えてきたか。詳しい事情は分からなくても、彼女の決断を支える気持ちは変わらない。
「終わらせて正解だよ! これでお母さんにバレる心配もないし」
「そうそう、イギリスにはイケメンも多いんでしょ? 素敵な彼氏すぐできるよ! 私、まだイギリス行ったことないんだよね〜。鹿乃、行ったらビデオ通話してよ! 鳩にパンあげてるところ見せて~!」
そんな他愛もない話を聞きながら、鹿乃の顔にもようやく柔らかな笑みが戻ってきた。
――そう、もうすぐ新しい人生が始まる。
過去のことで、心を縛られている暇なんてないのだ。
その後しばらくのあいだ、湊は家に戻ってこなかった。
けれど、鹿乃は彼がどこに行っているかなど気にもしなかった。
出発を控えた日々、母とできるだけ多くの時間を過ごした。
二人で街を歩いて、思い出の店で食事をして、母は一人暮らしの心得をたくさん語ってくれた。
日常のささやかな幸福のなかで、時間は穏やかに過ぎていった。
出発の五日前、母は誠司の出張に同行して家を空けた。
その日の午後、鹿乃は叔母から電話を受ける。
父の墓地が都市計画により移転されることになり、親族が対応に行かなければならないという話だった。
母は嫁いでからずっと、神崎家の親族から陰口を叩かれてきた。これ以上母に恥をかかせたくなかった鹿乃は、自分一人で行くことを決めた。
急いで連絡を取り、納得のいく新しい墓地を手配した。
骨壺を受け取りに出ようとしたそのとき――玄関に、久しぶりに見る顔が立っていた。
神崎湊。
「どこ行くんだ?」と尋ねられ、事情を話すと、湊は眉をひそめ、彼女の手を握った。
「……お前、俺のこと本当に彼氏だと思ってるのか? あんたのお父さんって、俺にとっても親父だろ。こんな大事なこと、一人で行くなんておかしいだろ?」
「いいから乗れ。俺も一緒に行く」
真剣な顔でそう言われて、鹿乃には、もう彼の気持ちが本心なのか演技なのか分からなくなっていた。