神崎湊が家に戻ったとき、父は依織さんを連れて外出したばかりだった。
家の中は静まり返っており、人の気配はまるでない。
聞こえるのは、彼の靴が階段を踏みしめる「コツ、コツ」という音だけだった。彼の頭には、ひとつのことしかなかった。
あの扉を開けること——
これまで何度も開けてきた、あの扉を。けれど今回、それを開いた先にあったのは、がらんとした空間だった。
バスルーム、クローゼット、小さな書斎——
その部屋のすべての隅々まで、何が置かれていたか、彼は熟知していた。しかし今、視界に映るものは「何もない」だった。
彼らの秘密を詰め込んでいたはずの全てが、跡形もなく消えていた。
そしてようやく、神崎湊は現実を受け入れた。
——鹿乃は、本当に出て行ったのだ。
その瞬間、彼が長年築いてきた精神の防壁は、音を立てて崩れ落ちた。
波のように押し寄せる焦りと絶望が、彼の神経を容赦なく支配する。震える手で、彼は狂ったように部屋中を探し回った。
クローゼット、机の裏、ドアの影……
人が隠れられる場所をすべて探し尽くし、部屋はひどく散らかっていた。最後の望みを、乱れたベッドに託して布団をめくる。
——いない。すぐさま自分の部屋に戻り、枕下の手紙を開いた。
中に書かれていたのは、たった三つの言葉だった。
一つ、別れを告げ、名取窈子と幸せになるよう祈っていると。
二つ、カードの三千万円は、神崎家に返すべき金であると。
三つ、母・依織は不倫相手ではなく、遠江律と神崎誠司の離婚は公表よりも二年前であり、その時点では依織は誠司さんと無関係だったと。
——一文ごとに、鋭い刃のような痛みが胸に突き刺さる。
心臓が皮ごと剥がれていくような、耐え難い苦しみ。
そして湊は、とうとう気づいてしまった。
鹿乃は、彼が心に秘めていた「秘密」をすべて知っていたのだ。
それは、彼が完璧に隠したと思っていた復讐だった。
母を傷つけた依織さんに対する、そして無意識に鹿乃にすら向けていた……
その「仕返し」は、すでに彼女に見抜かれていた。だが鹿乃は、何も言わなかった。
怒りもせず、恨みもせず、ただ——
彼のもとから、静かに、完全に去ったのだった。湊は想像していた。
彼女が真実を知ったとき、泣き叫び、怒り、多少なりとも仕返ししてくるのではないかと。だが、彼女がしたのは「去ること」だけだった。
火の中に飛び込むように、自ら傷つきながら彼を愛し、
最後の最後まで「恨み言」ひとつ残さなかった。自分のしたこと——信頼を裏切り、心を弄び、
そして依織さんへの憎しみを、鹿乃の存在に重ねていたこと——それらすべてが、今や誇りどころか、ただの罪になった。
それでも鹿乃は、彼を憎んでくれなかった。
——どうして、恨んでくれなかったんだ。
愛していたなら、どうしてそんなに静かに消えてしまえるんだ。
それとも、最初から彼女にとっても「遊び」だったのか?
ただの芝居で、愛なんてなかったのか?そう考えた瞬間、湊の全身を、氷のような恐怖が貫いた。
彼女の「無関心」こそが、彼にとって最大の罰だった。
なぜなら、憎しみの裏にあるのは「愛」。
——憎まないということは、愛していないということ。
彼はそれを、どうしても認めたくなかった。
愛されていなかったという結論より、恨まれていた方が、はるかに救いだったのだ。
だが、からっぽの部屋はその「否定」を許さなかった。
憎しみと無関心、二つの感情が頭の中でせめぎ合い、精神は限界に達した。
頭を抱えて床に崩れ落ち、こめかみを打ちつけながら、
彼は叫びたくなる衝動を必死に抑えていた。この瞬間の神崎湊は、まるで十歳のあの日——雨に打たれ、母親に捨てられたあの夜に戻っていた。そして今回の悲劇のすべては——
まぎれもなく、自らの手で招いた報いだった。