飛行機でぐっすり眠れたおかげで、鹿乃は到着初日から時差ボケに悩まされることもなかった。
夜の十一時を過ぎたあたりで急に眠気が襲いかかり、あくびを噛み殺しながらベッドに潜り込む。
──だが、午前二時。
けたたましく鳴り響いたスマートフォンの着信音が、彼女を眠りの底から無理やり引き戻した。
ぼんやりとした頭でディスプレイを確認すると、発信者は「理咲さん」ではなく──神崎湊だった。
眠気にまみれた指で通話ボタンを押す。
次の瞬間、聞き慣れた、けれども怒気を含んだ低い声が耳元で炸裂した。
「……鹿乃、お前、勝手に英国なんか行ってんじゃねえよ!」
その声に、意識が一気に冴え渡る。
彼女はベッドサイドのスタンドライトをつけて身を起こし、時計を一瞥しながら落ち着いた口調で答えた。
「今はロンドン時間で、夜中の二時だよ、お兄さん。」
その一言一言が、白石悠真の神経を鋭く逆撫でする。
歯を噛み締めるような声音で、彼は叫んだ。
「俺に《お兄さん》って呼ぶなって言っただろ!」
「でも、私たちは戸籍上、兄妹だよ。これはもう変えられない事実でしょ?」
淡々と語る彼女の声に、湊の中に潜む恐怖がついに臨界点を超えた。
崩壊寸前の理性が、最後の一線を越える。
「じゃあ──俺の下で喘いでたとき、お前、兄妹だってこと思い出したか?」
沈黙が落ちた。
言葉が刃となって空気を裂いた後、世界は静寂に包まれる。
湊自身も、口走ってしまったことに気づいて、内心で凍りついた。
けれど──謝罪の言葉は一切出ない。
彼はただ、彼女の反応を待っていた。
これほど下劣で、侮辱的な言葉を吐いてまで、彼は確かめたかった。
鹿乃の心に、自分がまだ存在しているのかを。
だが、返ってきたのは、息苦しいほどの沈黙だけだった。
その無音が彼の胸に深く食い込み、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
もう駄目だ──そう思った瞬間。
彼女の声が、静かに、しかし確かに届いた。
「私は、あの頃のことを一度も後悔したことはない。あのときは、本当にあなたを愛していたから。」
「でもね、私の愛は無敵じゃない。外からの中傷には耐えられても、心の中の腐った真実までは抱えきれなかった。」
「母さんは、あなたの両親の離婚には何の関係もない。後ろめたいことなんて何もしてない。私も、そう。」
「ただ、あなたと私の間には、あまりにも多くの
「終わりにしよう、お兄さん。これが、私たちにとって──いちばん丸く収まる結末なんじゃないかな?」
その言葉に、神崎湊は凍りついた。
十二歳のあの日、両親の離婚を知ってからというもの、「円満な結末」などという言葉に、彼は一切期待を抱かなくなった。
ずっと、依織さんが家庭を壊した張本人だと思い込んでいた。
だから憎んだ。けれど、同時に──彼女の娘・鹿乃が、あまりにも眩しすぎて、どうしようもなく惹かれてしまった。
十年間。
復讐と情愛の板挟みで、心がすり減るほどに引き裂かれた十年。
そして今、彼はようやく気づいた。
このゲームの駒は、もうとっくに彼女ではなく──自分自身だったのだと。
彼女は、盤面を降りて、ただ静かに言った。
「あなたの第一歩は、間違ってた」と。
──それでも、湊は納得できなかった。
どうしても、鹿乃が
ならばと、彼はすがるように問うた。
「帰ってきてくれ。……ちゃんと話そう。な?」