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第16話

飛行機でぐっすり眠れたおかげで、鹿乃は到着初日から時差ボケに悩まされることもなかった。

夜の十一時を過ぎたあたりで急に眠気が襲いかかり、あくびを噛み殺しながらベッドに潜り込む。

──だが、午前二時。

けたたましく鳴り響いたスマートフォンの着信音が、彼女を眠りの底から無理やり引き戻した。

ぼんやりとした頭でディスプレイを確認すると、発信者は「理咲さん」ではなく──神崎湊だった。

眠気にまみれた指で通話ボタンを押す。

次の瞬間、聞き慣れた、けれども怒気を含んだ低い声が耳元で炸裂した。

「……鹿乃、お前、勝手に英国なんか行ってんじゃねえよ!」

その声に、意識が一気に冴え渡る。

彼女はベッドサイドのスタンドライトをつけて身を起こし、時計を一瞥しながら落ち着いた口調で答えた。

「今はロンドン時間で、夜中の二時だよ、お兄さん。」

その一言一言が、白石悠真の神経を鋭く逆撫でする。

歯を噛み締めるような声音で、彼は叫んだ。

「俺に《お兄さん》って呼ぶなって言っただろ!」

「でも、私たちは戸籍上、兄妹だよ。これはもう変えられない事実でしょ?」

淡々と語る彼女の声に、湊の中に潜む恐怖がついに臨界点を超えた。

崩壊寸前の理性が、最後の一線を越える。

「じゃあ──俺の下で喘いでたとき、お前、兄妹だってこと思い出したか?」

沈黙が落ちた。

言葉が刃となって空気を裂いた後、世界は静寂に包まれる。

湊自身も、口走ってしまったことに気づいて、内心で凍りついた。

けれど──謝罪の言葉は一切出ない。

彼はただ、彼女の反応を待っていた。

これほど下劣で、侮辱的な言葉を吐いてまで、彼は確かめたかった。

鹿乃の心に、自分がまだ存在しているのかを。

だが、返ってきたのは、息苦しいほどの沈黙だけだった。

その無音が彼の胸に深く食い込み、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。

もう駄目だ──そう思った瞬間。

彼女の声が、静かに、しかし確かに届いた。

「私は、あの頃のことを一度も後悔したことはない。あのときは、本当にあなたを愛していたから。」

「でもね、私の愛は無敵じゃない。外からの中傷には耐えられても、心の中の腐った真実までは抱えきれなかった。」

「母さんは、あなたの両親の離婚には何の関係もない。後ろめたいことなんて何もしてない。私も、そう。」

「ただ、あなたと私の間には、あまりにも多くのが絡んでた。これ以上続けていけば、傷つくのは私たちだけじゃない。」

「終わりにしよう、お兄さん。これが、私たちにとって──いちばん丸く収まる結末なんじゃないかな?」

──

その言葉に、神崎湊は凍りついた。

十二歳のあの日、両親の離婚を知ってからというもの、「円満な結末」などという言葉に、彼は一切期待を抱かなくなった。

ずっと、依織さんが家庭を壊した張本人だと思い込んでいた。

だから憎んだ。けれど、同時に──彼女の娘・鹿乃が、あまりにも眩しすぎて、どうしようもなく惹かれてしまった。


十年間。

復讐と情愛の板挟みで、心がすり減るほどに引き裂かれた十年。と決めておきながら、彼女に抱く気持ちは、いつしかどうしようもないほどに膨らんでいた。

そして今、彼はようやく気づいた。

このゲームの駒は、もうとっくに彼女ではなく──自分自身だったのだと。

彼女は、盤面を降りて、ただ静かに言った。

「あなたの第一歩は、間違ってた」と。

──それでも、湊は納得できなかった。

どうしても、鹿乃がことが信じられない。

ならばと、彼はすがるように問うた。

「帰ってきてくれ。……ちゃんと話そう。な?」


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