「もう、私たちは元に戻れないよ……湊。」
鹿乃は、そう答えることしかできなかった。いや、そう答えたかった。
受話器の向こうからは、沈黙が長く続いた。
途切れそうな呼吸音だけが伝わり、彼が今にも崩れ落ちそうなことは、鹿乃にもすぐにわかった。
彼をこれ以上怒らせたくなかった。取り乱させて、この家を壊すような真似をしてほしくなかった。
だから、彼女は最後に心からの声で懇願した。
「お母さんを、見逃してあげて。お願い……母は本当に、なにも悪いことしてないの。湊、母はあなたにも、誠司叔父さんにも、この家にも誠実に向き合ってきた。
たった一つ、静かで穏やかな幸せが欲しかっただけ。だから……お願い、もうやめて。」
その震えるような声に、神崎湊の胸の奥に燃え続けていた復讐の火は、音もなく消えていった。
現実とも幻ともつかない感覚が、じわじわと彼の中に広がっていく。
自分は、いったい何を憎み、何を愛してきたのか。
それすらも曖昧になっていった。
まるで霧の中の花を見つめているようで、水面に映る月を掬おうとするような──
神崎湊はスマートフォンを手に、ベランダでしばらくじっと立ち尽くしていた。
ふと、ドアをノックする音に我に返る。
振り向くと、そこには依織さんが立っていた。
彼は反射的に視線を逸らす。
依織はいつも通り、手にコーヒーを持っており、穏やかな声で話しかけてきた。
「鹿乃とケンカしたの? あの子も家を離れるの、名残惜しいだけだと思うよ。ただちょっと、若いうちにいろんな景色を見てみたいだけ。あなたが忙しいのもわかってるし、心配かけたくなくて、私たちにも内緒にしてたのよ。」
変わらぬその優しさに、湊は小さくうなずくだけだった。スマートフォンを返して、その場を離れようとする。
どうしても、依織と向き合う気持ちになれなかった。
だが、玄関まで来たところで、母の声が彼を呼び止めた。
「湊、もうすぐあなたの誕生日でしょう? お祝いはどうしたい? お友達と? それとも私が何か準備しようか?」
朝からの感情の揺れが激しすぎて、湊はそのことをすっかり忘れていた。
皮肉にも、誕生日を気にかけてくれた唯一の人物が、かつて最も嫌っていたはずの人間だったことに気づき、複雑な気持ちが胸にこみ上げる。
しばし迷って、彼はやんわりと断った。
「いいよ。午後からヨーロッパに行く。」
「ヨーロッパ? ……」
疑わしげな声に、湊はすかさず付け加える。
「……母に会いに。」
その夜のやり取りのせいで、鹿乃は結局あまり眠れなかった。
目覚ましが鳴るころには、なんとか体を起こした。
人の家に泊まっている以上、だらしない印象は与えたくない──その一心だった。
けれど階下に降りてみると、リビングには誰もいなかった。
白石家の人々は、早起きなのか? それとも寝坊派?
鹿乃は少し戸惑いながら、外に出て散歩でもしようかと玄関へ向かったところで、不意に現れた影にびくりとした。
現れたのは、白石悠真だった。
彼は軽く会釈をして、手にしていた朝食を差し出す。
「ロンドン着いて、そんなに早起き? 時差ボケは大丈夫?」
胸を押さえながら、鹿乃は小さく息を整える。少し迷った末に、朝食を受け取ってダイニングに腰を下ろした。
「まあまあかな。幸次さんと理咲さんは……お出かけ?」
悠真はもう一皿朝食を取りにキッチンへ戻ると、ジュースも添えて彼女の前に置いた。
「まだ寝てるよ。あの二人、基本十時過ぎないと起きない。気にしなくていいよ、好きなときに起きて、好きなときに食べればいい。」
このゆるさが、いかにも白石家らしい。
鹿乃はなんとなく納得し、明日からはアラームを九時に設定しようと心に決めた。
二人は静かに朝食を終えた。
ふと、鹿乃は彼に問いかける。
「今日、週末だよね。時間ある? アパートのほうを少し見に行きたいんだけど……」
悠真はすぐに理解したようにうなずいた。
「あるよ。送っていく。」