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第17話

「もう、私たちは元に戻れないよ……湊。」

鹿乃は、そう答えることしかできなかった。いや、そう答えたかった。

受話器の向こうからは、沈黙が長く続いた。

途切れそうな呼吸音だけが伝わり、彼が今にも崩れ落ちそうなことは、鹿乃にもすぐにわかった。

彼をこれ以上怒らせたくなかった。取り乱させて、この家を壊すような真似をしてほしくなかった。

だから、彼女は最後に心からの声で懇願した。

「お母さんを、見逃してあげて。お願い……母は本当に、なにも悪いことしてないの。湊、母はあなたにも、誠司叔父さんにも、この家にも誠実に向き合ってきた。

たった一つ、静かで穏やかな幸せが欲しかっただけ。だから……お願い、もうやめて。」

その震えるような声に、神崎湊の胸の奥に燃え続けていた復讐の火は、音もなく消えていった。

現実とも幻ともつかない感覚が、じわじわと彼の中に広がっていく。

自分は、いったい何を憎み、何を愛してきたのか。

それすらも曖昧になっていった。

まるで霧の中の花を見つめているようで、水面に映る月を掬おうとするような──

神崎湊はスマートフォンを手に、ベランダでしばらくじっと立ち尽くしていた。

ふと、ドアをノックする音に我に返る。

振り向くと、そこには依織さんが立っていた。

彼は反射的に視線を逸らす。

依織はいつも通り、手にコーヒーを持っており、穏やかな声で話しかけてきた。

「鹿乃とケンカしたの? あの子も家を離れるの、名残惜しいだけだと思うよ。ただちょっと、若いうちにいろんな景色を見てみたいだけ。あなたが忙しいのもわかってるし、心配かけたくなくて、私たちにも内緒にしてたのよ。」

変わらぬその優しさに、湊は小さくうなずくだけだった。スマートフォンを返して、その場を離れようとする。

どうしても、依織と向き合う気持ちになれなかった。

だが、玄関まで来たところで、母の声が彼を呼び止めた。

「湊、もうすぐあなたの誕生日でしょう? お祝いはどうしたい? お友達と? それとも私が何か準備しようか?」

朝からの感情の揺れが激しすぎて、湊はそのことをすっかり忘れていた。

皮肉にも、誕生日を気にかけてくれた唯一の人物が、かつて最も嫌っていたはずの人間だったことに気づき、複雑な気持ちが胸にこみ上げる。

しばし迷って、彼はやんわりと断った。

「いいよ。午後からヨーロッパに行く。」

「ヨーロッパ? ……」

疑わしげな声に、湊はすかさず付け加える。

「……母に会いに。」

その夜のやり取りのせいで、鹿乃は結局あまり眠れなかった。

目覚ましが鳴るころには、なんとか体を起こした。

人の家に泊まっている以上、だらしない印象は与えたくない──その一心だった。

けれど階下に降りてみると、リビングには誰もいなかった。

白石家の人々は、早起きなのか? それとも寝坊派?

鹿乃は少し戸惑いながら、外に出て散歩でもしようかと玄関へ向かったところで、不意に現れた影にびくりとした。

現れたのは、白石悠真だった。

彼は軽く会釈をして、手にしていた朝食を差し出す。

「ロンドン着いて、そんなに早起き? 時差ボケは大丈夫?」

胸を押さえながら、鹿乃は小さく息を整える。少し迷った末に、朝食を受け取ってダイニングに腰を下ろした。

「まあまあかな。幸次さんと理咲さんは……お出かけ?」

悠真はもう一皿朝食を取りにキッチンへ戻ると、ジュースも添えて彼女の前に置いた。

「まだ寝てるよ。あの二人、基本十時過ぎないと起きない。気にしなくていいよ、好きなときに起きて、好きなときに食べればいい。」

このゆるさが、いかにも白石家らしい。

鹿乃はなんとなく納得し、明日からはアラームを九時に設定しようと心に決めた。

二人は静かに朝食を終えた。

ふと、鹿乃は彼に問いかける。

「今日、週末だよね。時間ある? アパートのほうを少し見に行きたいんだけど……」

悠真はすぐに理解したようにうなずいた。

「あるよ。送っていく。」


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