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第22話

目を覚ますと、家の中はひっそりと静まり返っていた。

悠真はすでに出かけており、テーブルの上にはメモが一枚残されていた。

《ちょっと出かけてくる。また連絡する。》

鹿乃は特に気にすることもなく、朝食を済ませて自室に戻り、パソコンを開いて勉強を始めた。

ちょうど一話分読み終えたところで、机の上のスマホが鳴った。

画面を見ると、見知らぬ国際番号。

数秒ほど迷ったが、結局出ることにした。

「……もしもし?」

何度か呼びかけても、相手は黙ったまま。

切ろうとした瞬間、ようやく聞こえてきたのは──

低く沈んだ、湊の声だった。

「今、おまえが住んでる家の前にいる。鹿乃……誕生日、いっしょに過ごしてくれないか?」

なぜ彼がここを突き止められたのかはわからない。

けれど、彼の性格を知っている鹿乃には察しがついた。

──今日、一度でも外に出れば、彼はあらゆる手を使って自分を連れて行くだろう。

それが嫌で、鹿乃は毅然と断った。

「遠江さんと過ごしてあげて。あの人、久しぶりに湊に会いたがってたよ。私は行かないけど……誕生日、おめでとう。」

そのまま一息に言い切ると、受話器の向こうからはしばらく沈黙が返ってきた。

やがて、かすかに重たい呼吸音だけが聞こえてきて──

鹿乃にはわかった。

これは、湊が怒る前の予兆だった。

これ以上、言い争いになりたくない。

そう思って、鹿乃は電話を切り、そのままスマホの電源も落とした。

その日一日、彼女は部屋にこもって勉強に集中した。

翌朝、ようやくスマホの電源を入れると、着信履歴には100件以上の不在着信。

鹿乃はしばらく画面を見つめ、何も言わずにそのまま履歴を削除した。

──それからの半月、彼女はほとんど家を出なかった。

白石家の食事会に付き合うことはあったが、普段は屋敷で勉強したり、白石と雑談したり。

そんな穏やかな日々の中で、時は過ぎていく。

やがて、九月がやってきた。

開学まであと三日というところで、鹿乃は理咲さんに話を持ちかけた。

「そろそろ、自分のアパートに引っ越そうと思ってて……」

理咲さんは名残惜しそうに何度も引き留めてくれたが、鹿乃の決意が固いと悟ると、渋々了承してくれた。


翌日──

白石家族と共に、荷物を車に詰め込んで、鹿乃の新居へと向かった。

行き先は、大学に近い便利なエリア。

荷物は最初の予定の倍になっていた。

玄関前で荷物を運び終えたとき、ふと気づいた。

悠真だけ、車に戻らずその場に立っている。

「……あれ? 一緒に帰らないの?」

鹿乃が尋ねると、彼は肩をすくめた。

「帰らないよ。俺ももうすぐ開講日だし──実は、君の先輩になるんだ。」

「えっ……悠真もロンドン大学だったの?」

その言葉に鹿乃は思わず目を見開いた。

そういえば、彼がこの辺りの事情にやたら詳しかったのも納得がいく。

荷物を見渡してみると、彼の分がないことにも気づく。

「でも、荷物は……?」

悠真は無言で、彼女の部屋の向かいを指さした。

「君が選んだこのアパート、俺の部屋の真正面だったんだ。」

「……まさか、そんな偶然ってあるの?」

鹿乃は思わず吹き出してしまった。

けれど、心のどこかではちょっと嬉しかった。

「じゃあ、これからもよろしくね、お隣さん。」

悠真は軽やかにスーツケースを持ち上げると、口元に微笑を浮かべた。

「任せて、後輩。」

「……ちょっと待って!」

その言葉に鹿乃はむっとしたように彼を見上げた。

「たしかに私は1年遅れで入学だけど、誕生日は私の方が一日早いの。だから後輩って呼ばれる筋合いはないからね?」

悠真はちらりと彼女を見て、静かに頷いた。

「──たった一日、だろ?」

その声は、なぜか少しだけ、優しかった。


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