目を覚ますと、家の中はひっそりと静まり返っていた。
悠真はすでに出かけており、テーブルの上にはメモが一枚残されていた。
《ちょっと出かけてくる。また連絡する。》
鹿乃は特に気にすることもなく、朝食を済ませて自室に戻り、パソコンを開いて勉強を始めた。
ちょうど一話分読み終えたところで、机の上のスマホが鳴った。
画面を見ると、見知らぬ国際番号。
数秒ほど迷ったが、結局出ることにした。
「……もしもし?」
何度か呼びかけても、相手は黙ったまま。
切ろうとした瞬間、ようやく聞こえてきたのは──
低く沈んだ、湊の声だった。
「今、おまえが住んでる家の前にいる。鹿乃……誕生日、いっしょに過ごしてくれないか?」
なぜ彼がここを突き止められたのかはわからない。
けれど、彼の性格を知っている鹿乃には察しがついた。
──今日、一度でも外に出れば、彼はあらゆる手を使って自分を連れて行くだろう。
それが嫌で、鹿乃は毅然と断った。
「遠江さんと過ごしてあげて。あの人、久しぶりに湊に会いたがってたよ。私は行かないけど……誕生日、おめでとう。」
そのまま一息に言い切ると、受話器の向こうからはしばらく沈黙が返ってきた。
やがて、かすかに重たい呼吸音だけが聞こえてきて──
鹿乃にはわかった。
これは、湊が怒る前の予兆だった。
これ以上、言い争いになりたくない。
そう思って、鹿乃は電話を切り、そのままスマホの電源も落とした。
その日一日、彼女は部屋にこもって勉強に集中した。
翌朝、ようやくスマホの電源を入れると、着信履歴には100件以上の不在着信。
鹿乃はしばらく画面を見つめ、何も言わずにそのまま履歴を削除した。
──それからの半月、彼女はほとんど家を出なかった。
白石家の食事会に付き合うことはあったが、普段は屋敷で勉強したり、白石と雑談したり。
そんな穏やかな日々の中で、時は過ぎていく。
やがて、九月がやってきた。
開学まであと三日というところで、鹿乃は理咲さんに話を持ちかけた。
「そろそろ、自分のアパートに引っ越そうと思ってて……」
理咲さんは名残惜しそうに何度も引き留めてくれたが、鹿乃の決意が固いと悟ると、渋々了承してくれた。
翌日──
白石家族と共に、荷物を車に詰め込んで、鹿乃の新居へと向かった。
行き先は、大学に近い便利なエリア。
荷物は最初の予定の倍になっていた。
玄関前で荷物を運び終えたとき、ふと気づいた。
悠真だけ、車に戻らずその場に立っている。
「……あれ? 一緒に帰らないの?」
鹿乃が尋ねると、彼は肩をすくめた。
「帰らないよ。俺ももうすぐ開講日だし──実は、君の先輩になるんだ。」
「えっ……悠真もロンドン大学だったの?」
その言葉に鹿乃は思わず目を見開いた。
そういえば、彼がこの辺りの事情にやたら詳しかったのも納得がいく。
荷物を見渡してみると、彼の分がないことにも気づく。
「でも、荷物は……?」
悠真は無言で、彼女の部屋の向かいを指さした。
「君が選んだこのアパート、俺の部屋の真正面だったんだ。」
「……まさか、そんな偶然ってあるの?」
鹿乃は思わず吹き出してしまった。
けれど、心のどこかではちょっと嬉しかった。
「じゃあ、これからもよろしくね、お隣さん。」
悠真は軽やかにスーツケースを持ち上げると、口元に微笑を浮かべた。
「任せて、後輩。」
「……ちょっと待って!」
その言葉に鹿乃はむっとしたように彼を見上げた。
「たしかに私は1年遅れで入学だけど、誕生日は私の方が一日早いの。だから後輩って呼ばれる筋合いはないからね?」
悠真はちらりと彼女を見て、静かに頷いた。
「──たった一日、だろ?」
その声は、なぜか少しだけ、優しかった。