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第23話

大学が始まってからというもの、授業以外の時間は、鹿乃と悠真はほとんど一緒にいた。

新しい生活にすぐ馴染んだ鹿乃は、少しずつ過去の出来事を心の奥にしまい込んでいった。

たまに母から電話がかかってきては、あれこれ世間話をしてくる。

その中で、こんな話を聞かされた。

──湊がヨーロッパから帰国してすぐ、名取窈子との婚約を一方的に破棄すると言い出した。

名取はそれを受け入れられず、何度も神崎家に押しかけてきたが、彼はまったく相手にしなかったという。ふたりは冷戦状態のままだ。

そのうえ湊は、父親の神崎湊と大喧嘩をして、突如神崎グループからの脱退を宣言した。

母の言葉を、鹿乃は黙って聞いていた。

もはや彼女にとって神崎家と自分を繋ぐ唯一の存在は──母だけだ。

母が無事でいてくれれば、神崎家に何が起ころうと、彼女には関係のないことだった。

電話を切ったあと、鹿乃は時刻を確認して、悠真にメッセージを送った。

「今日、何時に授業終わるの?」

返事はすぐに返ってきた。

「今日は夕方から飲み会あるから、先に帰ってて大丈夫。」

なるほど、と鹿乃はスマホをしまい、荷物を片付けてひとりで大学を出た。

──さて、晩ごはんどうしようかな。

スマホを見ながら考えていたそのとき、道端に一台の車が急停車した。

その音に驚いて顔を上げた次の瞬間──

強い力で腕を掴まれ、車内に無理やり引き込まれた。

一瞬で、鹿乃の胸に恐怖と絶望が押し寄せる。

必死に暴れ、抵抗し、相手の手を噛んだ。

すると、その人影から低く苦しげなうめき声が漏れた。

──この声……神崎湊。

彼だと気づいた瞬間、鹿乃は抵抗をやめた。

冷たい声で問いかける。

「……あなた、何してるの?」

彼女の怒りを帯びた口調に、湊は軽く笑った。

「……誘拐だよ。鹿乃、わからない?」

そう言いつつも、彼女の腕に残る赤い痕を見て、彼は手を離した。

鹿乃は体を起こし、窓の外の景色に目をやった。

道の向きからして、進んでいるのは海側──

彼は、自分を連れて英国から出ようとしている。

その事実に気づいた瞬間、鹿乃の心は冷たく沈んだ。

だが次の瞬間、彼の顔を見て、思わず息を呑んだ。

わずか一ヶ月足らずで、彼は別人のようにやつれていた。

痩せこけ、頬はこけ、目は血走っている。

「……誰だかわからなかった?」

湊は、彼女の驚いた表情に気づいたようだった。

血走った目に、影のような疲労がにじんでいる。

「一ヶ月。たった一ヶ月、お前は俺に連絡ひとつくれなかった。鹿乃……お前、どれだけ冷たいんだよ。」

その口ぶりは、昔と同じように軽い調子だった。

だが鹿乃には、わかっていた。

それは彼が装っている仮面にすぎない。

母や他人の前で、彼はずっとを演じてきた。

──だが、今、目の前にいる彼こそが、本物の神崎湊だった。

陽気さや優しさの仮面を脱ぎ捨て、奥底に隠していた狂気と執着をそのまま晒している。

豹変した彼を見つめながら、鹿乃は思わず問いかけていた。

「……本当に、こうするしかなかったの? お兄さん。」

その言葉を聞いた瞬間、彼の顔から笑みが消えた。

ぐっと手を伸ばし、彼女の顎を掴む。

怒りを必死に押し殺すように、彼の顔が歪んでいた。

「……お兄さんなんて、呼ぶな。鹿乃、これから俺は──お前のだ。俺たちはポルトガルに行って、結婚するんだ。前にそう約束しただろ?」

鹿乃は、ようやく確信した。

──神崎湊は、もう壊れてしまっている。

彼の顔に浮かぶ狂気に、鹿乃は言葉を失い、叫び声を上げた。

「嫌! 私は、あなたと結婚なんてしたくない!」

はっきりと、一語一語を噛みしめながら告げた。

その言葉を聞いた湊の目から、少しずつ熱が失われていく。

冷たい瞳で鹿乃を見据え、唇を動かす。

「……そんなの関係ない。鹿乃。俺は言ったよな。お前は──俺だけのものなんだって。」


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