大学が始まってからというもの、授業以外の時間は、鹿乃と悠真はほとんど一緒にいた。
新しい生活にすぐ馴染んだ鹿乃は、少しずつ過去の出来事を心の奥にしまい込んでいった。
たまに母から電話がかかってきては、あれこれ世間話をしてくる。
その中で、こんな話を聞かされた。
──湊がヨーロッパから帰国してすぐ、名取窈子との婚約を一方的に破棄すると言い出した。
名取はそれを受け入れられず、何度も神崎家に押しかけてきたが、彼はまったく相手にしなかったという。ふたりは冷戦状態のままだ。
そのうえ湊は、父親の神崎湊と大喧嘩をして、突如神崎グループからの脱退を宣言した。
母の言葉を、鹿乃は黙って聞いていた。
もはや彼女にとって神崎家と自分を繋ぐ唯一の存在は──母だけだ。
母が無事でいてくれれば、神崎家に何が起ころうと、彼女には関係のないことだった。
電話を切ったあと、鹿乃は時刻を確認して、悠真にメッセージを送った。
「今日、何時に授業終わるの?」
返事はすぐに返ってきた。
「今日は夕方から飲み会あるから、先に帰ってて大丈夫。」
なるほど、と鹿乃はスマホをしまい、荷物を片付けてひとりで大学を出た。
──さて、晩ごはんどうしようかな。
スマホを見ながら考えていたそのとき、道端に一台の車が急停車した。
その音に驚いて顔を上げた次の瞬間──
強い力で腕を掴まれ、車内に無理やり引き込まれた。
一瞬で、鹿乃の胸に恐怖と絶望が押し寄せる。
必死に暴れ、抵抗し、相手の手を噛んだ。
すると、その人影から低く苦しげなうめき声が漏れた。
──この声……神崎湊。
彼だと気づいた瞬間、鹿乃は抵抗をやめた。
冷たい声で問いかける。
「……あなた、何してるの?」
彼女の怒りを帯びた口調に、湊は軽く笑った。
「……誘拐だよ。鹿乃、わからない?」
そう言いつつも、彼女の腕に残る赤い痕を見て、彼は手を離した。
鹿乃は体を起こし、窓の外の景色に目をやった。
道の向きからして、進んでいるのは海側──
彼は、自分を連れて英国から出ようとしている。
その事実に気づいた瞬間、鹿乃の心は冷たく沈んだ。
だが次の瞬間、彼の顔を見て、思わず息を呑んだ。
わずか一ヶ月足らずで、彼は別人のようにやつれていた。
痩せこけ、頬はこけ、目は血走っている。
「……誰だかわからなかった?」
湊は、彼女の驚いた表情に気づいたようだった。
血走った目に、影のような疲労がにじんでいる。
「一ヶ月。たった一ヶ月、お前は俺に連絡ひとつくれなかった。鹿乃……お前、どれだけ冷たいんだよ。」
その口ぶりは、昔と同じように軽い調子だった。
だが鹿乃には、わかっていた。
それは彼が装っている仮面にすぎない。
母や他人の前で、彼はずっと
──だが、今、目の前にいる彼こそが、本物の神崎湊だった。
陽気さや優しさの仮面を脱ぎ捨て、奥底に隠していた狂気と執着をそのまま晒している。
豹変した彼を見つめながら、鹿乃は思わず問いかけていた。
「……本当に、こうするしかなかったの? お兄さん。」
その言葉を聞いた瞬間、彼の顔から笑みが消えた。
ぐっと手を伸ばし、彼女の顎を掴む。
怒りを必死に押し殺すように、彼の顔が歪んでいた。
「……お兄さんなんて、呼ぶな。鹿乃、これから俺は──お前の
鹿乃は、ようやく確信した。
──神崎湊は、もう壊れてしまっている。
彼の顔に浮かぶ狂気に、鹿乃は言葉を失い、叫び声を上げた。
「嫌! 私は、あなたと結婚なんてしたくない!」
はっきりと、一語一語を噛みしめながら告げた。
その言葉を聞いた湊の目から、少しずつ熱が失われていく。
冷たい瞳で鹿乃を見据え、唇を動かす。
「……そんなの関係ない。鹿乃。俺は言ったよな。お前は──俺だけのものなんだって。」