それは恐怖でも、躊躇でもなかった。
もっと強くて、もっとまっすぐな――心の底から突き上げるような気持ち。
(助けなきゃ……!)
気づいたときには、もう走り出していた。
人の波をすり抜けて、まっすぐに。
騒然とする声も、がたがたと揺れる馬車の音も、耳に入らなかった。ただ、小さな子どもの姿が視界の中心に焼き付いていて――わたしは、その光景に向かって手を伸ばしていた。
(まにあって……お願い……!)
震える足で地面を蹴り、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめる。
胸の奥が苦しいほど熱くて、でもそれ以上に、「助けたい」という気持ちが溢れて止まらなかった。
次の瞬間、わたしは子どもの前にすべり込むように立ちふさがっていた。
逃げようともしないその子を、わたしの小さな背で包むようにかばう。
こわかった。足も手も震えていた。
でも、それ以上に――「守りたい」と思った。
わたしは、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめる。
そして、声にならない声で、願うように、祈るように――
「……まもって……」
小さな願いが、いつしか“うた”になった。
「――ひかりのうたが きみをつつむよ こわくない だいじょうぶ……♪」
震える声だった。でも、心の奥から、まっすぐに届くように歌った。
それは、前の世界で七瀬ルナが歌っていた“光のうた”。
病室のベッドで、何度もわたしに勇気をくれた歌。
詠唱でも呪文でもない。ただ想いを込めて紡いだ、心からの“うた”。
――その瞬間。
わたしの声が空気に溶けていったとたん、世界が、ふっと静まり返った。
春の風も止み、通りを満たしていたざわめきさえも消える。
まるで、音という音が、わたしの“うた”に耳を澄ませているかのように。
空気がわずかに震える。
その振動が、光の粒になって舞い上がっていく。
透明な波紋が、わたしの足元から広がり――
まるで水面に落ちた光の雫が、空へ向かって昇っていくようだった。
(……これが、わたしの“うた”)
胸の奥にあった熱が、やさしいぬくもりに変わって、指先まで満ちていく。
金色の光がふわりと舞い、通り全体が、淡い輝きに包まれていった。
誰かが、息を呑む音が聞こえる。
そのときだった。
暴れ狂っていた黒馬の脚が、金の光に触れた瞬間、がくりと膝を折った。
ひときわ大きな音を立てて、馬車が横転する。
地面が揺れ、空気が押し返されるような衝撃とともに――馬車は崩れるように止まった。
土ぼこりが舞い、ざわめきが戻るよりも早く、わたしはしゃがみ込んでいた男の子をぎゅっと抱きしめた。
「……よかった……」
胸の奥に残っていた恐怖が、ひとつ息を吐くようにほどけていく。
男の子の体は、小さくて、あたたかかった。
ふるえていた肩が、わたしの胸の中で、ゆっくりとおさまっていくのを感じる。
――でも、すべてが終わったわけではなかった。
わたしが、そっと振り返ると。
馬車がなぎ倒していった通りのあちこちに、人々の姿が見えた。
砕けた屋台。倒れた荷車。散らばった果物に、滲む赤い血。
呻き声。泣き声。誰かを呼ぶ叫び声が、耳に重く響く。
(……わたし、また……)
指先が、ふるえる。
さっきまでの光が消えかけるように、胸の奥でざわめきが広がった。
(“できるかどうか”じゃない。――“やらなきゃ”)
助けたい。助けなきゃ。
わたしは、小さく息を吸い込むと、ふるえる声で――もう一度、歌いはじめた。
わたしは、小さく息を吸い込むと、ふるえる声で――もう一度、歌いはじめた。
「……きずのいたみも なみだのいたみも
ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」
旋律が、ゆっくりと空気に溶けていく。
それはさっきよりも穏やかで、やさしくて、でも確かに“想い”がこもっていた。
わたしの足元から、ふわりとやわらかな光が広がっていく。
それは淡い金色の波のように、静かに、でも確かに倒れている人々へと伸びていった。
地面に座り込んでいた女性の体が、小さく光に包まれる。
彼女はお腹を押さえながら、信じられないように目を見開いた。
「う、うそ……痛く、ない……?」
血で染まっていた布が、やわらかな光に包まれて溶けるように消えていき、
代わりに、やさしい風がその肌を撫でていった。
別の場所では、足をくじいていた少年が、小さな声で何かをつぶやいた。
「ぼく……もう走れる……!」
彼はおそるおそる立ち上がり、足を動かして――ぱたぱたと歩き出した。
泣いていた表情が、驚きと笑顔に変わっていく。
通りには、さっきまでの混沌とはちがう、やさしいざわめきが戻りはじめていた。
誰もが見守る中で、わたしはただ、歌っていた。
詠唱でもない。
魔法陣もない。
魔力をぶつけることもしない。
ただ――心からの“うた”を、わたしは届けていた。
(これが……わたしの力)
誰かの痛みを、ぬくもりに変えていく旋律。
その力が、確かに届いているのを、わたしの心が感じていた。
⸻
◇
「なんだ……この魔法……?」
「見たことない……歌で癒やすなんて……」
「まさか……聖女様……?」
誰かがそうつぶやいたのをきっかけに、通りのあちこちでざわめきが生まれた。
まるで、それが“答え”であるかのように。
人々が、ひとり、またひとりと、わたしの前で跪きはじめる。
胸に手を当てて、祈るような仕草で頭を垂れる。
「……神の加護だ……!」
「この子が、奇跡を……!」
「聖女様……どうか、お名前を……!」
誰かの声が、祈るように響いた。
わたしは、胸に手を当てて、小さく息を吸う。
「……わたしの、名前は……」
そのとき――
「シオン!」
懐かしくて、あたたかい声が聞こえた。
はっとして振り返る。
その声に、心がやさしくほどけていくような気がした。
口にしかけた“名前”の続きを、自然と飲み込む。
(……わたしの、名前……)
そのとき、すぐそばから声が届いた。
「おねえちゃん……ありがとう……」
泣きながら、それでも笑って――
男の子が、まっすぐにわたしを見上げていた。
(それだけで、もう……)
胸の奥が、あたたかく満たされていく。
⸻
◇
やがて、名前を呼んだ声の主が、群衆の中から駆け寄ってくる。
「シオン!」
その声は、たしかに母さまだった。
次の瞬間、わたしはその腕にぎゅっと抱きしめられた。
「無事でよかった……シオン……!」
リート兄さまがすぐにわたしの前に立ち、リリカ姉さまが優しく背を支える。
「シオン……あれ、あなたが……?」
わたしは、小さく、でもはっきりとうなずいた。
そして、まっすぐ目を見て、言った。
「――みんなを、助けたかったの」
それだけを、ちゃんと、伝えた。
⸻
◇
春の陽ざしが、通りにやさしく降り注いでいた。
人々のざわめきは、やがてひとつの言葉へと変わっていく。
「……聖女様だ……!」
「小さな……歌の聖女様だ……!」
わたしは、母さまの腕の中で、そっと目を閉じた。
この“うた”が、誰かの心に届いたなら――
(……きっと私は、夢に近づけた)
“アイドル”という名の、心を照らす存在へ。
◇
市場の混乱が落ち着き、人々の祈りやざわめきが、波のように静まっていく。
母さまとリート兄さまに囲まれながら、わたしはゆっくりと馬車へと歩いていた。街に来たときとは違う、どこかやわらかく、あたたかな空気に包まれて。
「シオン、大丈夫かい?」
「疲れたら、すぐに横になってね」
リリカ姉さまのやさしい声に、わたしは小さくうなずいた。
足取りは少しだけおぼつかなくて、それでも胸の奥は不思議なほど穏やかだった。
やがて馬車の扉が開き、母さまに手を引かれて中に入る。ふかふかのクッションに体をあずけた瞬間、ほっと安堵がこぼれた。
(……だいじょうぶ、ちゃんと……届いたよね)
胸に抱きしめたルナちゃんのぬくもりが、しんとした静けさの中に染みてくる。
まぶたを閉じると、通りに舞った金の光が、まだ心の奥に揺れている気がした。
馬車の揺れが、やさしい子守歌のように身体を包み、呼吸のひとつひとつが、少しずつ夢へと溶けていく。
(……よかった……)
ただ、それだけを胸に抱きながら――
わたしは静かに、やわらかな眠りへと落ちていった。
それは、まるで“祝福”のような眠りだった。