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12 祝福の旋律、歌の目覚め

それは恐怖でも、躊躇でもなかった。

 もっと強くて、もっとまっすぐな――心の底から突き上げるような気持ち。


(助けなきゃ……!)


 気づいたときには、もう走り出していた。


 人の波をすり抜けて、まっすぐに。

 騒然とする声も、がたがたと揺れる馬車の音も、耳に入らなかった。ただ、小さな子どもの姿が視界の中心に焼き付いていて――わたしは、その光景に向かって手を伸ばしていた。


(まにあって……お願い……!)


 震える足で地面を蹴り、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめる。

 胸の奥が苦しいほど熱くて、でもそれ以上に、「助けたい」という気持ちが溢れて止まらなかった。


 次の瞬間、わたしは子どもの前にすべり込むように立ちふさがっていた。

 逃げようともしないその子を、わたしの小さな背で包むようにかばう。


 こわかった。足も手も震えていた。

 でも、それ以上に――「守りたい」と思った。


 わたしは、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめる。


 そして、声にならない声で、願うように、祈るように――


「……まもって……」


 小さな願いが、いつしか“うた”になった。


「――ひかりのうたが きみをつつむよ こわくない だいじょうぶ……♪」


 震える声だった。でも、心の奥から、まっすぐに届くように歌った。


 それは、前の世界で七瀬ルナが歌っていた“光のうた”。

 病室のベッドで、何度もわたしに勇気をくれた歌。

 詠唱でも呪文でもない。ただ想いを込めて紡いだ、心からの“うた”。


 ――その瞬間。


 わたしの声が空気に溶けていったとたん、世界が、ふっと静まり返った。


 春の風も止み、通りを満たしていたざわめきさえも消える。

 まるで、音という音が、わたしの“うた”に耳を澄ませているかのように。


 空気がわずかに震える。

 その振動が、光の粒になって舞い上がっていく。


 透明な波紋が、わたしの足元から広がり――

 まるで水面に落ちた光の雫が、空へ向かって昇っていくようだった。


(……これが、わたしの“うた”)


 胸の奥にあった熱が、やさしいぬくもりに変わって、指先まで満ちていく。

 金色の光がふわりと舞い、通り全体が、淡い輝きに包まれていった。


 誰かが、息を呑む音が聞こえる。


 そのときだった。


 暴れ狂っていた黒馬の脚が、金の光に触れた瞬間、がくりと膝を折った。

 ひときわ大きな音を立てて、馬車が横転する。

 地面が揺れ、空気が押し返されるような衝撃とともに――馬車は崩れるように止まった。


 土ぼこりが舞い、ざわめきが戻るよりも早く、わたしはしゃがみ込んでいた男の子をぎゅっと抱きしめた。


「……よかった……」


 胸の奥に残っていた恐怖が、ひとつ息を吐くようにほどけていく。


 男の子の体は、小さくて、あたたかかった。

 ふるえていた肩が、わたしの胸の中で、ゆっくりとおさまっていくのを感じる。


 ――でも、すべてが終わったわけではなかった。


 わたしが、そっと振り返ると。


 馬車がなぎ倒していった通りのあちこちに、人々の姿が見えた。

 砕けた屋台。倒れた荷車。散らばった果物に、滲む赤い血。

 呻き声。泣き声。誰かを呼ぶ叫び声が、耳に重く響く。


(……わたし、また……)


 指先が、ふるえる。

 さっきまでの光が消えかけるように、胸の奥でざわめきが広がった。


(“できるかどうか”じゃない。――“やらなきゃ”)


 助けたい。助けなきゃ。


 わたしは、小さく息を吸い込むと、ふるえる声で――もう一度、歌いはじめた。


 わたしは、小さく息を吸い込むと、ふるえる声で――もう一度、歌いはじめた。


「……きずのいたみも なみだのいたみも

 ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」


 旋律が、ゆっくりと空気に溶けていく。

 それはさっきよりも穏やかで、やさしくて、でも確かに“想い”がこもっていた。


 わたしの足元から、ふわりとやわらかな光が広がっていく。

 それは淡い金色の波のように、静かに、でも確かに倒れている人々へと伸びていった。


 地面に座り込んでいた女性の体が、小さく光に包まれる。

 彼女はお腹を押さえながら、信じられないように目を見開いた。


「う、うそ……痛く、ない……?」


 血で染まっていた布が、やわらかな光に包まれて溶けるように消えていき、

 代わりに、やさしい風がその肌を撫でていった。


 別の場所では、足をくじいていた少年が、小さな声で何かをつぶやいた。


「ぼく……もう走れる……!」


 彼はおそるおそる立ち上がり、足を動かして――ぱたぱたと歩き出した。

 泣いていた表情が、驚きと笑顔に変わっていく。


 通りには、さっきまでの混沌とはちがう、やさしいざわめきが戻りはじめていた。


 誰もが見守る中で、わたしはただ、歌っていた。


 詠唱でもない。

 魔法陣もない。

 魔力をぶつけることもしない。

 ただ――心からの“うた”を、わたしは届けていた。


(これが……わたしの力)


 誰かの痛みを、ぬくもりに変えていく旋律。

 その力が、確かに届いているのを、わたしの心が感じていた。




「なんだ……この魔法……?」

「見たことない……歌で癒やすなんて……」

「まさか……聖女様……?」


 誰かがそうつぶやいたのをきっかけに、通りのあちこちでざわめきが生まれた。

 まるで、それが“答え”であるかのように。


 人々が、ひとり、またひとりと、わたしの前で跪きはじめる。

 胸に手を当てて、祈るような仕草で頭を垂れる。


「……神の加護だ……!」

「この子が、奇跡を……!」

「聖女様……どうか、お名前を……!」


 誰かの声が、祈るように響いた。


 わたしは、胸に手を当てて、小さく息を吸う。


「……わたしの、名前は……」


 そのとき――


「シオン!」


 懐かしくて、あたたかい声が聞こえた。


 はっとして振り返る。


 その声に、心がやさしくほどけていくような気がした。

 口にしかけた“名前”の続きを、自然と飲み込む。


 (……わたしの、名前……)


 そのとき、すぐそばから声が届いた。


「おねえちゃん……ありがとう……」


 泣きながら、それでも笑って――

 男の子が、まっすぐにわたしを見上げていた。


(それだけで、もう……)


 胸の奥が、あたたかく満たされていく。




 やがて、名前を呼んだ声の主が、群衆の中から駆け寄ってくる。


「シオン!」


 その声は、たしかに母さまだった。


 次の瞬間、わたしはその腕にぎゅっと抱きしめられた。


「無事でよかった……シオン……!」


 リート兄さまがすぐにわたしの前に立ち、リリカ姉さまが優しく背を支える。


「シオン……あれ、あなたが……?」


 わたしは、小さく、でもはっきりとうなずいた。


 そして、まっすぐ目を見て、言った。


「――みんなを、助けたかったの」


 それだけを、ちゃんと、伝えた。




 春の陽ざしが、通りにやさしく降り注いでいた。


 人々のざわめきは、やがてひとつの言葉へと変わっていく。


「……聖女様だ……!」

「小さな……歌の聖女様だ……!」


 わたしは、母さまの腕の中で、そっと目を閉じた。


 この“うた”が、誰かの心に届いたなら――


(……きっと私は、夢に近づけた)


 “アイドル”という名の、心を照らす存在へ。


 ◇


 市場の混乱が落ち着き、人々の祈りやざわめきが、波のように静まっていく。


 母さまとリート兄さまに囲まれながら、わたしはゆっくりと馬車へと歩いていた。街に来たときとは違う、どこかやわらかく、あたたかな空気に包まれて。


「シオン、大丈夫かい?」

「疲れたら、すぐに横になってね」


 リリカ姉さまのやさしい声に、わたしは小さくうなずいた。


 足取りは少しだけおぼつかなくて、それでも胸の奥は不思議なほど穏やかだった。


 やがて馬車の扉が開き、母さまに手を引かれて中に入る。ふかふかのクッションに体をあずけた瞬間、ほっと安堵がこぼれた。


(……だいじょうぶ、ちゃんと……届いたよね)


 胸に抱きしめたルナちゃんのぬくもりが、しんとした静けさの中に染みてくる。


 まぶたを閉じると、通りに舞った金の光が、まだ心の奥に揺れている気がした。


 馬車の揺れが、やさしい子守歌のように身体を包み、呼吸のひとつひとつが、少しずつ夢へと溶けていく。


(……よかった……)


 ただ、それだけを胸に抱きながら――


 わたしは静かに、やわらかな眠りへと落ちていった。


 それは、まるで“祝福”のような眠りだった。

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