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11 街へ、はじめてのおでかけ

 春の夕暮れ。西の空に陽がゆるやかに傾きはじめ、エルステリア侯爵家の食堂には、穏やかな光と家族のぬくもりが満ちていた。


 淡い茜色がカーテン越しに差し込み、銀の食器やガラスの器が、ほんのりとした夕映えを受けてきらめく。やわらかな灯りが揺れるなか、長い食卓を囲んでいるのは、わたしの大切な家族たち。


 母さま、父さま、リート兄さま、リリカ姉さま――そして、わたし。


 この時間が、昔からとても好きだった。


 けれどその日の食卓には、ほんの少しだけ、いつもと違う空気があった。


「シオン、最近ますます落ち着いてきたな」

 父さまが、ゆったりとナイフを置いて、ふと目を細めた。


「ええ、本当に。礼儀作法も学びに真剣に取り組んでおりますし」

 母さまがにこやかにうなずくと、リリカ姉さまもその隣で静かに微笑む。


「うん。この前も、詩の朗読をひとりで暗誦してみせたんだよ」

 リート兄さまがそう言って、わたしの頭をそっと撫でる。


「……えへへ」


 少し照れながらも、わたしはお皿の上の果物をひとつ、そっとつまみあげた。

 そのまま口に運ぼうとした、そのとき――

 母さまが視線を向けてきた。


「シオン」


「はい?」


「明日……みんなで、街へ出かけてみましょうか」


「……えっ?」


 一瞬、時が止まったような気がした。

 わたしの手が、果物を持ったままぴたりと止まる。


「わたしが……街へ?」


「ええ」

 母さまは、やさしくうなずいて続けた。

「そろそろ、シオンにも外の世界を見せてあげたいと思っていたの」


「最近は、外のことにも興味を持ち始めたようだからな」

 父さまが低く穏やかに言うと、リート兄さまもこくりと頷いた。


「もちろん、わたくしたちも一緒よ。危ない場所へ行くわけではありませんもの」

 リリカ姉さまが、やわらかな声でそう添えてくれる。


「……ほんとうに……いいの?」


 震える声が、自然と漏れていた。

 胸の奥が、ぽうっと温かくなる。


「行ってみたいところはあるか?」

 リート兄さまにそう尋ねられて、わたしはふるふると首を振る。


「わからない……まだ、行ったことないから。でも……街って、どんなところなんだろうって、ずっと思ってたの」


「ふふっ、それなら明日、いろんなところを案内してあげる」

 リリカ姉さまが、くすっと笑う。


「はいっ……! ありがとう、みんな!」


 わたしは椅子の上で背すじをぴんと伸ばし、足元に座っていたルナちゃんを抱き上げて、ぎゅっと胸に抱いた。



 夜。


 ベッドの上で、わたしはルナちゃんを胸に抱いたまま、天蓋のレース越しに窓の外を見上げていた。


 空には春の星たちが、ひとつ、またひとつと瞬いている。


「ねえ、ルナちゃん……明日、ついに街に行けるんだって……!」


 そっと語りかけると、ルナちゃんの長い耳がぽよんと跳ねる。

 まるで、「よかったね」って言ってくれているみたいだった。


「楽しみだね。どんな景色なんだろう。どんな人たちがいるのかな。……わたし、ちゃんとがんばれるかな」


 まだ少しだけ、不安もある。

 けれど、胸の奥に灯った光は、きっと――わたしの“うた”にもつながっている。


「がんばろうね、ルナちゃん。きっと……いい日になるよ」


 わたしは、そっと目を閉じた。


 明日が来るのが、待ちきれないくらい――今は、うれしくてたまらなかった。


◇ ◇ ◇


 朝の陽射しが、屋敷の庭をやさしく照らしていた。


 玄関前に用意された馬車は、光沢のある黒い車体に、金の細工がほどこされた立派なものだった。車輪の横には、エルステリア家の紋章がさりげなく刻まれていて、緋色の布で覆われた座席がちらりと見える。


御者の方が「お荷物はすべてお積みしました」と告げ、母さまに恭しく頭を下げる。


 わたしは少しだけ後ろから、とことこと足を進める。

 リリカ姉さまが横に立っていて、そっと背を押してくれた。


「大丈夫。ゆっくりでいいわよ」


「……うんっ」


 胸の奥がどきどきしていたけれど、わたしは大きく息を吸い込んで、馬車の前に立った。


 リート兄さまが先に乗り込み、手を差し伸べてくれる。


「シオン、こっちだよ」


「ありがとう、兄さま」


 わたしは一歩だけ深呼吸してから、スカートの裾をそっとつまんで持ち上げ――

 リート兄さまの手につかまりながら、馬車に乗り込んだ。ふわっと香る革の匂い。足元にはやわらかい絨毯が敷かれていて、まるで小さなサロンのような空間だった。


 続いて、リリカ姉さまと母さまも馬車に乗り込み、扉が、かちりと控えめな音を立てて閉まる。


 がたん、と揺れて馬車が動き出す。

 ゆっくりと、けれど確かに進み出す、その響きに――わたしの胸の鼓動も、一緒に高鳴っていた。


 春の風が、頬をくすぐるように窓辺をすり抜けていく。

 わたしは馬車の中、少し高めの座席から外をのぞきこむように身をのばしていた。


 石畳の街道には、ちらほらと花びらが舞っている。街の向こうに見える塔の輪郭は、ほんの少しだけ陽にかすんで、まるで絵本の挿絵みたいだった。


(ほんとうに……街に行けるんだ)


 胸の奥で、そっと囁くような気持ち。

 それは、ずっと夢見ていた“はじめて”のときめきだった。


 今日、わたしは母さまとリリカ姉さま、それにリート兄さまと一緒に街へお出かけする。

 家族みんなでの“街へのおでかけ”は、これが初めてだった。


 父さまは領主としてのお仕事でお屋敷を離れられなかったけれど、それでも――この日を、ずっと楽しみにしていた。


 わたしは、おひざの上にちょこんと乗せたルナちゃんをぎゅっと抱きしめる。

 耳の先までふわふわした毛並みの、月色のうさぎのぬいぐるみ。リート兄さまが、何も言わずにそっとプレゼントしてくれた、大切なぬくもり。


(大丈夫……ちゃんと、練習してきたから)


 心の奥で、不安と期待がまじる。

 わたしだけに起きた“声にのせる魔力”の感覚――それは、普通の魔法とは少しちがっていて、誰にも話せていない秘密。


 こっそりと、うたを練習して、魔力をそっとのせて……指先に、小さな光の花を咲かせてみたり。

 朝露のしずくを、そっと風に乗せてみたり。


 うまくできた日は、胸の奥がぽかぽかして、ルナちゃんと一緒にこっそりよろこんだ。


(……でも、街って、どんなところなんだろう)


 まだ知らない世界。

 楽しみだけど、ちょっとだけ、こわい。


 この力は――本当に、使ってもいいものなのかな。

 わたしの“うた”は、ほんとうに誰かを助けることができるのかな。


 そんなことを考えていると、馬車の足音が少しずつ遅くなっていく。



「……あっ」


 がたん、と小さく揺れた拍子に、窓の外がぱっと開けた。

 通りの向こうに、白い街並みと、色とりどりの屋台が見えてくる。


「シオン、ついたわよ」


 リリカ姉さまの声がして、わたしはおずおずと手をのばした。

 ドアが開かれた瞬間、外の空気が雪崩のように流れ込んでくる。


「うわぁ……」


 まぶしい光。

 人の声、馬の蹄の音、花の香り、果物やパンのにおい――すべてがまざりあっていて、息をのむほどに鮮やかだった。


「大丈夫よ、シオン。手、にぎっててあげる」


 リリカ姉さまが差し出した手を、そっと握りしめる。

 少しひんやりとした指先が、わたしの緊張をそっと和らげてくれた。


「うん……ありがとう、リリカ姉さま」


 石畳の上に足を下ろすと、靴の裏から細かな振動が伝わってくる。

 通りの先には、色とりどりの屋台が並び、人々の笑い声がこだましていた。


「母さま、あの屋台の花、見てもいい?」


「ええ、ゆっくり見てまわりましょうね」


 母さまがやわらかく微笑んでくれて、わたしの胸がふんわりあたたかくなる。


「じゃあ、僕は少し向こうの通りを見てくるよ。気になってた店があるんだ。あとで合流する」


 リート兄さまがわたしたちにそう声をかけ、軽やかな足取りで別の通りへと歩いていった。

 その背中はまっすぐで、どこか頼もしくて、ちょっとだけ背伸びしたくなるような気持ちになる。


「さあ、行きましょうか。今日は特別な日なんですもの」


 母さまの言葉に、わたしはこくりとうなずいた。


 屋台の並ぶ通りを、三人でゆっくりと歩く。

 リボンや香水瓶、飴細工、きらきらと輝くガラス細工。

 風が吹くたびに鈴の音が聞こえて、まるで街そのものが歌っているようだった。


「ねえ、リリカ姉さま、見て! あの小瓶、うたのかけらみたい!」


 わたしが指さすと、リリカ姉さまがふふっと笑う。


「本当ね。シオンの目には、世界が魔法でできてるみたいに映るのね」


 母さまもやさしいまなざしで見守ってくれていた。


(街って……こんなに明るくて、にぎやかなんだ……)


 わたしの世界が、またひとつ、広がっていく。

 知らなかった色と音が、次々に胸の中に入りこんできて――

 それは、どこか“うた”に似ている気がした。


 そのとき――


「道を開けろーっ! 危ないぞ!」


 突然、誰かの叫び声が響いた。



 それは、ほんの一瞬のことだった。

 通りの向こう側で、突如として人波がざわめき始める。


「道を開けろーっ! 危ないぞ!」


 怒号が鋭く響き、すぐに誰かの悲鳴とぶつかり合った。

 ざらりと空気が緊張に変わり、人々の顔が一斉に動揺に染まっていく。


 ――パカラッ、パカラッ!


 乾いた蹄音が、石畳を叩きつけるように響いた。


 わたしは、無意識に振り返った。


 目に飛び込んできたのは、明らかに制御を失った一台の馬車だった。前のめりになった御者が必死に手綱を引いているが、黒馬は泡を吹き、狂ったように地面を蹴りつけている。


 轟音とともに、その巨体が大通りを突き抜け、市場の中央へと一直線に突っ込んでくる。


「きゃああっ!」「逃げて!」「子どもが……!」


 次の瞬間、果物や反物、そして木箱が宙を舞った。悲鳴、叫び声、打ちつけられる衝撃音が重なり、耳がちぎれそうなほどの混沌が広がっていた。


 地面には誰かの帽子が転がり、商人の荷車が粉々に砕けて、赤い果実が潰れて広がっていく。


 まるで、時間が止まったかのように、わたしはその場に立ち尽くしてしまった。


 目の前で、あまりにも唐突に、日常が崩れ去っていく。


 人々が恐怖に押し流されるように逃げていく中、暴走する馬車はなおも止まらない。


 (たくさんの人が……このままじゃ――!)


 そのとき、わたしは、見てしまった。


 市場の中央、崩れた布地の陰から――


 一人の小さな男の子が、ぽつんと立ち尽くしていた。


 顔は強張り、手には片方だけの靴。周囲の混乱に呑まれたのか、逃げることもできずにその場に取り残されていた。


 (まにあわない……!)


 あまりにも近い。あまりにも速い。


 このままでは――!


 わたしの胸の奥で、何かがはじけた。

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