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10 小さな開花

 春の朝。やさしい陽射しが、エルステリア侯爵家の広い窓辺を照らしていた。

 空は高く澄んでいて、薄い雲が絹のように流れている。庭の草木が露を帯びながら、静かに朝の風を受けていた。


 私はベッドの中で目を覚ました。あたたかなお布団に包まれているのに、胸の奥には、かすかにそわそわとした感情が渦巻いていた。


(きょう……ひとりになれたら、いいな)


 そんな願いを胸に、私はこっそりとベッドの中で体を起こす。

 侍女たちが来る前に身支度を済ませようと、そっと足を床に下ろすと、白いスリッパがやわらかく足を包んだ。


「おはようございます、シオン様」


 ……間に合わなかった。

 扉の向こうから、侍女のミアの声が聞こえた。

 いつも一番に部屋を訪れる彼女のことを、私は少しだけ恨めしく思ってしまった。


「お目覚めのようですね。今、朝のお湯をお持ちしますね」


 やがて入ってきたミアは、大きな銀の盆を手に、笑顔で私の前に立った。

 私はその笑顔に応えつつも、胸の中に潜ませた小さな作戦を思い返していた。


(きょうは、どうしても……一人になりたい)


 温室に行くための時間がほしい。そのためには、家族や侍女たちの目をうまくすり抜けなくてはならない。

 でも、正直に「魔法のことを調べに行きたい」なんて言えるわけがない。

 だから、私は朝から“計画”を立てていたのだった。


 ミアが朝の支度を整えてくれるあいだも、私の心はそわそわしていた。

 鏡越しに映る自分の顔が、いつもよりも少し引き締まって見える。

 リボンを結び終えた瞬間、私は小さな決意を胸に、口を開いた。


「ミア……きょうはね、お花を見たいの。一人で、静かに」


 ミアが眉をひそめた。予想通りの反応だった。


「まあ……でも、お一人では危ないですわ。お庭でしたらご一緒いたしますので――」


「ちがうの。温室なの。あそこ、だれもこないでしょ……?」


 少し目を伏せながら、私はルナちゃんを胸に抱きしめた。

 ミアはしばらく私を見つめ、それから、困ったように微笑んだ。


「……侯爵様か奥様に、お許しをいただけるようお願いしてみましょうか」


「ううん……いいの。ないしょにして。ほんとに、ちょっとだけだから」


 ミアはますます困ったような顔になったけれど、私の瞳をじっと見て、それから小さく息をついた。


「……わかりました。でも、途中で誰か見つけたら、すぐに戻ってきてくださいね」


「うん!」


 私はぱっと顔を輝かせた。ミアは小さく首を横に振りながらも、どこか安心したように微笑んでいた。


 中庭の回廊には、午前の光がやわらかく差し込んでいた。

 私は、通りがかった侍女たちに気づかれないよう、そっと足音を忍ばせる。


(だいじょうぶ、いける)


 植え込みの陰を抜け、裏手の渡り廊下を進む。途中、リネンを運ぶメイドとすれ違いそうになって、慌てて鉢の後ろに隠れる。


「……ふぅ」


 心臓がどくどくしていた。けれど、それも少し楽しかった。

 まるで、ひとりだけの冒険だった。


 そっと顔を上げると、目的の建物――あの古い温室が、静かに佇んでいた。


 近づくにつれ、胸の中がほんのり熱くなる。


 今日、私はあの場所で、“うた”を試すんだ。


(お姉さまみたいに……光を呼べなくてもいい。

 でも、私にしかできない“なにか”があるなら、きっとあの場所で見つけられる)


 指先が、温室の取っ手に触れた。


 その瞬間、胸の奥で、どくんと大きな音が鳴る。


 私はそっと深呼吸をして、小さな力で扉を押し開けた――。


 ……きい、と扉が閉まると、外の喧騒はすっかり遮られた。


 湿った土の匂い。やわらかく混じる花の香り。空気のすべてが、外とはまったく違って感じられた。


 私は小さく深呼吸をして、そっと一歩踏み出す。石畳の床に足を下ろすと、かすかな冷たさが足裏に伝わってきた。


 天窓から差し込む陽の光が、葉の上で反射している。葉脈を透かすように光が揺れて、そのきらめきが空中にこぼれていた。静かな水面のように、しんと澄んだ静けさが広がる。


 ここは、私だけの、やさしい世界。


 並んだ鉢植えの間を、ゆっくりと歩く。咲き誇る花たちの間を抜けて、私はまだ何かを探していた。


 目を引く花はたくさんあるのに、不思議と心は落ち着かない。もっと、奥に。もっと、静かな場所に。


 やがて、陽の差し込みが少し弱くなった場所――温室のいちばん奥に、小さな鉢がぽつんと置かれていた。


 色のない、無地の鉢。飾り気もなく、葉も少しだけしおれて見える。咲いている花も、まだひとつもなかった。


 でも、その真ん中に、小さな小さな蕾がひとつだけ……ひっそりと、そこにあった。


 私は膝をつき、その鉢に顔を近づける。


 そっと指先で、葉のふちをなぞった。


(ねえ……あなたも、まだこわいの?)


 胸の奥が、少しだけきゅっとなった。


 そのつぼみは、まるで震えているように見えた。咲くことをためらっているみたいに。まるで、私みたいに。


 あの病室の白い天井。音はあっても、心に届くものなんてなかった。


 誰にも届かないと思っていた声。

 でも、だからこそ――あの人の歌だけが、まっすぐに届いた。


 その歌に、私は救われた。

 だから今、私も――


 私は、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめた。


 このつぼみが、咲くことをためらっているのなら……

 私が、そっと背中を押してあげたい。


 再び、光が降り注いだ。


 天窓から差し込んだ陽の光が、まっすぐに、そのつぼみに届いた。


 その瞬間だった。


 ……ふるり。


 まるで世界がそっと息を吐いたように、つぼみの先端がかすかに動いた。


 私は思わず、息を止めて見つめていた。


 それは本当に、ほんのすこし。けれどたしかに、あの蕾は……今、目を覚まそうとしていた。


 音も、風もない。私も、触れていない。


 ただ、歌が、あたたかな想いが、この空間にやさしく広がっていた。


 ……ゆっくりと、つぼみの端がほどける。


 ぎゅっと閉ざされていたその小さな殻が、陽の光に導かれるように、ほんのわずかに開いた。


 それは奇跡のような瞬間だった。


(ほんとうに……開いた……)


 胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。


 私のうたが、届いた。そう思えた。


 ただの偶然だったかもしれない。きっと、そう言われれば、それまでなのかもしれない。


 でも、私にはわかったのだ。

 この子は、応えてくれた。私の“うた”に、私の想いに。


 それが、涙が出るほど、うれしかった。


(ありがとう……)


 声にならない声で、そっとつぶやく。


 頬を伝う涙を、指でぬぐいながら、私はもう一度、つぼみを見つめた。


 まだ完全に咲いてはいない。でも、その小さな一歩が、私の心に大きな灯りをともしてくれた。


(わたしも……変われるのかな)


ふと思う。


 あの病室で、ただ窓の外を眺めていた日々。

 誰かの歌に救われた、あの時間。


 あのときの私に届いたように――

 いま、私の“うた”が、この小さなつぼみに届いたのなら。


(……ありがとう)


 その奇跡は、きっと本物だった。


 私は静かに立ち上がる。


 そっと、両手で胸にルナちゃんを抱きしめる。


 小さな花の前に、頭を下げてささやいた。


「……ありがとう。あなたのこと、ずっと忘れないよ」


 光が、天窓からまっすぐ差し込み、私の足元にやわらかな影を落とす。


 その光の中に包まれながら、私は静かに歩き出した。


 扉へと向かうその背中に、さっきまで見つめていた小さな蕾が、静かに揺れていた。


 まだ咲ききってはいないけれど、あの花はもう、はじまりを迎えたのだ。


 私のうたで。


 そして、私自身の“はじまり”でもあった。


 もう一度、振り返る。


 温室の奥。あの蕾のほうを見つめながら、心の中で、ゆっくりと呟いた。


(ありがとう。わたしも、咲いてみるね)


 扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと開ける。


 外の光が、ふわりと差し込んだ。


 春の陽射しは、あいかわらず優しく、まるで何も知らないふりをしながら、すべてを包み込んでいた。

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