春の朝。やさしい陽射しが、エルステリア侯爵家の広い窓辺を照らしていた。
空は高く澄んでいて、薄い雲が絹のように流れている。庭の草木が露を帯びながら、静かに朝の風を受けていた。
私はベッドの中で目を覚ました。あたたかなお布団に包まれているのに、胸の奥には、かすかにそわそわとした感情が渦巻いていた。
(きょう……ひとりになれたら、いいな)
そんな願いを胸に、私はこっそりとベッドの中で体を起こす。
侍女たちが来る前に身支度を済ませようと、そっと足を床に下ろすと、白いスリッパがやわらかく足を包んだ。
「おはようございます、シオン様」
……間に合わなかった。
扉の向こうから、侍女のミアの声が聞こえた。
いつも一番に部屋を訪れる彼女のことを、私は少しだけ恨めしく思ってしまった。
「お目覚めのようですね。今、朝のお湯をお持ちしますね」
やがて入ってきたミアは、大きな銀の盆を手に、笑顔で私の前に立った。
私はその笑顔に応えつつも、胸の中に潜ませた小さな作戦を思い返していた。
(きょうは、どうしても……一人になりたい)
温室に行くための時間がほしい。そのためには、家族や侍女たちの目をうまくすり抜けなくてはならない。
でも、正直に「魔法のことを調べに行きたい」なんて言えるわけがない。
だから、私は朝から“計画”を立てていたのだった。
ミアが朝の支度を整えてくれるあいだも、私の心はそわそわしていた。
鏡越しに映る自分の顔が、いつもよりも少し引き締まって見える。
リボンを結び終えた瞬間、私は小さな決意を胸に、口を開いた。
「ミア……きょうはね、お花を見たいの。一人で、静かに」
ミアが眉をひそめた。予想通りの反応だった。
「まあ……でも、お一人では危ないですわ。お庭でしたらご一緒いたしますので――」
「ちがうの。温室なの。あそこ、だれもこないでしょ……?」
少し目を伏せながら、私はルナちゃんを胸に抱きしめた。
ミアはしばらく私を見つめ、それから、困ったように微笑んだ。
「……侯爵様か奥様に、お許しをいただけるようお願いしてみましょうか」
「ううん……いいの。ないしょにして。ほんとに、ちょっとだけだから」
ミアはますます困ったような顔になったけれど、私の瞳をじっと見て、それから小さく息をついた。
「……わかりました。でも、途中で誰か見つけたら、すぐに戻ってきてくださいね」
「うん!」
私はぱっと顔を輝かせた。ミアは小さく首を横に振りながらも、どこか安心したように微笑んでいた。
中庭の回廊には、午前の光がやわらかく差し込んでいた。
私は、通りがかった侍女たちに気づかれないよう、そっと足音を忍ばせる。
(だいじょうぶ、いける)
植え込みの陰を抜け、裏手の渡り廊下を進む。途中、リネンを運ぶメイドとすれ違いそうになって、慌てて鉢の後ろに隠れる。
「……ふぅ」
心臓がどくどくしていた。けれど、それも少し楽しかった。
まるで、ひとりだけの冒険だった。
そっと顔を上げると、目的の建物――あの古い温室が、静かに佇んでいた。
近づくにつれ、胸の中がほんのり熱くなる。
今日、私はあの場所で、“うた”を試すんだ。
(お姉さまみたいに……光を呼べなくてもいい。
でも、私にしかできない“なにか”があるなら、きっとあの場所で見つけられる)
指先が、温室の取っ手に触れた。
その瞬間、胸の奥で、どくんと大きな音が鳴る。
私はそっと深呼吸をして、小さな力で扉を押し開けた――。
……きい、と扉が閉まると、外の喧騒はすっかり遮られた。
湿った土の匂い。やわらかく混じる花の香り。空気のすべてが、外とはまったく違って感じられた。
私は小さく深呼吸をして、そっと一歩踏み出す。石畳の床に足を下ろすと、かすかな冷たさが足裏に伝わってきた。
天窓から差し込む陽の光が、葉の上で反射している。葉脈を透かすように光が揺れて、そのきらめきが空中にこぼれていた。静かな水面のように、しんと澄んだ静けさが広がる。
ここは、私だけの、やさしい世界。
並んだ鉢植えの間を、ゆっくりと歩く。咲き誇る花たちの間を抜けて、私はまだ何かを探していた。
目を引く花はたくさんあるのに、不思議と心は落ち着かない。もっと、奥に。もっと、静かな場所に。
やがて、陽の差し込みが少し弱くなった場所――温室のいちばん奥に、小さな鉢がぽつんと置かれていた。
色のない、無地の鉢。飾り気もなく、葉も少しだけしおれて見える。咲いている花も、まだひとつもなかった。
でも、その真ん中に、小さな小さな蕾がひとつだけ……ひっそりと、そこにあった。
私は膝をつき、その鉢に顔を近づける。
そっと指先で、葉のふちをなぞった。
(ねえ……あなたも、まだこわいの?)
胸の奥が、少しだけきゅっとなった。
そのつぼみは、まるで震えているように見えた。咲くことをためらっているみたいに。まるで、私みたいに。
あの病室の白い天井。音はあっても、心に届くものなんてなかった。
誰にも届かないと思っていた声。
でも、だからこそ――あの人の歌だけが、まっすぐに届いた。
その歌に、私は救われた。
だから今、私も――
私は、ぎゅっとルナちゃんを抱きしめた。
このつぼみが、咲くことをためらっているのなら……
私が、そっと背中を押してあげたい。
再び、光が降り注いだ。
天窓から差し込んだ陽の光が、まっすぐに、そのつぼみに届いた。
その瞬間だった。
……ふるり。
まるで世界がそっと息を吐いたように、つぼみの先端がかすかに動いた。
私は思わず、息を止めて見つめていた。
それは本当に、ほんのすこし。けれどたしかに、あの蕾は……今、目を覚まそうとしていた。
音も、風もない。私も、触れていない。
ただ、歌が、あたたかな想いが、この空間にやさしく広がっていた。
……ゆっくりと、つぼみの端がほどける。
ぎゅっと閉ざされていたその小さな殻が、陽の光に導かれるように、ほんのわずかに開いた。
それは奇跡のような瞬間だった。
(ほんとうに……開いた……)
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
私のうたが、届いた。そう思えた。
ただの偶然だったかもしれない。きっと、そう言われれば、それまでなのかもしれない。
でも、私にはわかったのだ。
この子は、応えてくれた。私の“うた”に、私の想いに。
それが、涙が出るほど、うれしかった。
(ありがとう……)
声にならない声で、そっとつぶやく。
頬を伝う涙を、指でぬぐいながら、私はもう一度、つぼみを見つめた。
まだ完全に咲いてはいない。でも、その小さな一歩が、私の心に大きな灯りをともしてくれた。
(わたしも……変われるのかな)
ふと思う。
あの病室で、ただ窓の外を眺めていた日々。
誰かの歌に救われた、あの時間。
あのときの私に届いたように――
いま、私の“うた”が、この小さなつぼみに届いたのなら。
(……ありがとう)
その奇跡は、きっと本物だった。
私は静かに立ち上がる。
そっと、両手で胸にルナちゃんを抱きしめる。
小さな花の前に、頭を下げてささやいた。
「……ありがとう。あなたのこと、ずっと忘れないよ」
光が、天窓からまっすぐ差し込み、私の足元にやわらかな影を落とす。
その光の中に包まれながら、私は静かに歩き出した。
扉へと向かうその背中に、さっきまで見つめていた小さな蕾が、静かに揺れていた。
まだ咲ききってはいないけれど、あの花はもう、はじまりを迎えたのだ。
私のうたで。
そして、私自身の“はじまり”でもあった。
もう一度、振り返る。
温室の奥。あの蕾のほうを見つめながら、心の中で、ゆっくりと呟いた。
(ありがとう。わたしも、咲いてみるね)
扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと開ける。
外の光が、ふわりと差し込んだ。
春の陽射しは、あいかわらず優しく、まるで何も知らないふりをしながら、すべてを包み込んでいた。