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9 四歳になったわたし

 朝の光が、エルステリア侯爵家の中庭をやわらかく照らしていた。


 ふわりと舞い上がる花びらが、淡い陽射しを受けてきらめく。薄紅のチューリップ、真白なスノードロップ、木々の新芽。季節が変わったのだと、庭の空気がやさしく教えてくれる。


 わたしは小さな手を広げて、舞い降りてくる花びらを追いかけた。笑いながら、軽やかな足取りでくるくると回る。裾の広がるワンピースがふわっと広がるたび、なんだか空に浮かべるような気がした。


 そして、心の中で、そっとつぶやく。


(わたし、今日で四歳になったんだ……)


 ふわふわしてる。でも、ちゃんとわかってる。


 昨日とは違う今日。昨日までの「三歳のわたし」は、もういない。

 わたしは今、確かに「四歳のわたし」になったのだ。



「お誕生日、おめでとうございます、シオンお嬢様!」


 朝、目を覚ましたとき、一番に聞こえたのは侍女たちの明るい声だった。


 カーテンが開けられ、陽の光が部屋の中に差し込むと、ベッドの脇には色とりどりの花束やリボンで飾られたぬいぐるみたちが並べられていた。


「わあ……!」


 思わず声が漏れた。ふわふわの花の香り。ひらひらと揺れるリボン。


 ルナちゃんをぎゅっと抱きしめながら起き上がると、ミアがふんわりと笑った。


「お嬢様、おはようございます。今日の主役は、もちろんシオン様ですから、素敵なドレスもご用意しておりますよ」


「どれ……す?」


「はい。ピンク色の春のお姫様のようなドレスです。どうぞ、お楽しみに」


 わたしはぱあっと笑顔になった。今日は特別な日。みんなが笑って、わたしのために色んなことを用意してくれている。それがとても嬉しくて、胸がぽかぽかしていた。



 鏡の前でくるりと回って、ドレスの裾をふわりと揺らす。


 淡いピンクに、白いレースが縁取られた春色のドレス。胸元には小さな金の葉模様があしらわれていて、まるでおとぎ話のお姫様みたい。


 髪は左右で緩やかに編まれ、リボンでまとめられている。耳元で揺れる小さな花の飾りは、リリカ姉さまが選んでくれたものだそうだ。


「とっても、かわいい……!」


 思わずつぶやくと、鏡の向こうの自分がにこっと笑った。


 その笑顔が、少しだけ“大人びて”見えたような気がして、私はドキッとする。


(四歳って、こういうこと……?)


 昨日とそんなに違わないのに、でも、なにかが変わったような気がする。


 自分の中の何かが、ひとつ階段を上ったみたいに。


 朝食の間、ダイニングはいつもより少しだけにぎやかだった。


「誕生日、おめでとう。今日の主役は、君だね」


 父さまが、穏やかな微笑みで声をかけてくださった。


「……ありがとう、父様」


 そう言いながら、私はそっと姿勢を正した。


 今朝のわたしは、ちょっとだけ“レディ”らしくしてみたかったから。

 でも、緊張で背中に少し力が入っていたこと、きっとみんなにばれていたと思う。


「わあ……シオン、かわいい!」


 リリカ姉さまが目を輝かせて、わたしのリボンに手を伸ばした。


「このお花、わたしが選んだやつでしょ? すっごく似合ってる! まるで、お庭の妖精さんみたい!」


「うふふ……ありがと、リリカ姉さま」


 リート兄さまも、少し照れくさそうに口をひらいた。


「……おめでとう、シオン。今日くらいは、好きなだけ甘えていいぞ」


「ほんと?」


「ほんとだ。ただし、チョコレートのおかわりは一回だけな」


「えー……」


 思わず口をとがらせてしまうと、リート兄さまがふっと笑って、頭をなでてくれた。


 そのぬくもりが、じんわりと心にしみこんでいく。


 家族って、いいな。

 こんなふうに、あたりまえみたいに隣にいてくれて、わたしのために微笑んでくれて、名前を呼んでくれて。


(こんな一日が、ずっと続いたらいいのに)


 そんなふうに思った。



 食後には、小さなプレゼントの贈呈式が行われた。


 母様からは、春色のレースがほどこされたハンカチと、ちいさなハート形のブローチ。

 リート兄さまからは、あたたかな金色の羊毛で編まれた肩かけ。

 リリカ姉さまからは、手作りのしおりと、本を一冊。


「これはね、シオンがもう少し大きくなったら読むといいって、母様が選んでくれたの。きれいな絵がいっぱい載ってるのよ」


「ありがとう、リリカ姉さま……だいすき!」


 その言葉に、リリカ姉さまは少しだけ照れたように笑って、わたしの頭をやさしく撫でてくれた。


 プレゼントは全部、大切に宝箱に入れておきたいと思った。

 ひとつひとつが、わたしのために選ばれた、大切な“贈りもの”。

 どれが一番、なんて決められない。だって、全部“だいすき”だったから。


 贈り物はひとつひとつ、どれも心がこもっていて、触れるたびに胸の奥があたたかくなった。


 リボンの結び目をほどくたび、小さな喜びが広がっていく。


(だいすきな人たちから、だいすきな気持ちが届いたみたい……)


 ルナちゃんをそっと抱きしめながら、わたしは静かに微笑んだ。


 そのぬくもりは、これからもずっと、私の背中を押してくれる気がした。


 そのときの、胸の奥のきゅっとした気持ちは、言葉にはできないけれど、たぶん――大事な“第一歩”だった。


 お昼をすぎると、私はひとり、自室で過ごすことにした。


 ぬいぐるみのルナちゃんと一緒に、お気に入りのクッションを抱えて、窓辺のベンチにちょこんと座る。


 カーテン越しに差し込む光は、やわらかくて、春のにおいがした。

 窓の外には、花壇の向こうで風にそよぐ草花たち。

 チューリップ、クロッカス、リリィベル――どれも少しずつ顔をのぞかせていて、春のドレスをまとっているみたいだった。


「きれいだね、ルナちゃん。……あの子たち、もっと咲いてくれたら嬉しいな」


 わたしはそうつぶやいて、胸のなかで、ふわりと小さな想いを浮かべる。


 そっと、手のひらを窓に向けてみた。

 花の名前も、花言葉もよく知らないけれど、でも――ただ、やさしく語りかけたくなった。


「……ねえ、がんばって。たくさん光をあびて、きれいに咲いてくれたら……うれしいな♪」


 歌うように、でもほんのり囁くように。

 それは歌と呼べるほど整った旋律じゃない。

 ただ、気持ちのこもった“つぶやき”みたいなもの。


 ……そのとき、不思議な感覚が胸に残った。

 風も吹いていないのに、草花がふるりと揺れたような、そんな気がしたのだ。


「……え?」


 思わず、ルナちゃんをぎゅっと抱きしめる。

 見間違い? 気のせい? それとも、ただの偶然?


 ――わからない。

 けれど、私の声が、ほんの少しでも届いたような気がした。


 その記憶を胸に、私は静かに、深く息を吸い込んだ。


 ルナちゃんを胸に抱いたまま、そっと囁く。


「大丈夫。わたし、がんばるよ」


 たとえ、まだ何も咲いていなくても。

 たとえ、誰にも届いていなくても。


 “種”は、ちゃんとこの胸にまかれている。


 あとは、歌いながら育てていくだけ。

 自分の声で、想いで――光を灯す“歌の魔法”を。


 その未来を、私は夢見ている。


 そっと目を閉じると、春の庭がふわりとまぶたの裏に浮かんだ。


 風にそよぐ草花たち。

 きらきらと降る陽の光。

 心にあたたかさをくれた、今日という一日。


 わたしはそのぬくもりを、ぎゅっと胸の奥に抱きしめた。


 明日も、きっといい日になる。

 そう信じながら、私は小さな寝息を立てて――静かに、夢の世界へと旅立っていった。


 夢の中で、わたしは歌っていた。

 風のようなメロディが広がっていく。見上げれば、光の粒が舞いながら夜空を彩っていた。

 その中心に、やわらかな光でできた“舞台”が浮かんでいる。

 花のような拍手の音が、どこからともなく響いた。


(……こんな場所で、うたえたら)


 それは、まだ誰も知らない未来。

 でも、わたしの心が確かに望んでいる光景だった。


 “うた”が、わたしをそっと導いてくれる。

 まだ見ぬ光の中へ――夢の続きの、その先へ。

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