——それは、わたしが三歳の夏に出会った、小さな奇跡の舞台。
朝。窓辺のレースカーテン越しに、やわらかな陽ざしが射しこんでくる。
天井の装飾が、光をうけて、ゆるやかにきらめいていた。
鳥の声。風の音。
それなのに、わたしの胸はそわそわしていた。
なんだか、へん——。
いつもと同じなのに、同じじゃないような、そんな感じ。
そっと起きあがって、ベッドのそばに置かれていた柔らかな室内靴に足を通す。
かかとに飾られた薄桃色のリボンが、ちょこんと揺れた。
扉の取っ手に手をかけて、そろりと開ける。
きい、と音をたてたその向こうは……しんとしていた。
誰もいない廊下。
明るいのに、ひっそりとした空気が流れていて、まるで時間が止まってしまったようだった。
「……おはよう、ございます……?」
ちいさな声で呼んでみるけど、返ってくるものはなかった。
いつもなら、お部屋の前に侍女が立っていて、にこって笑ってくれるのに——
今日は、誰もいない。
不安になって、廊下を歩きだす。絨毯が足音を吸いこんで、音はとても静かだった。
角を曲がった先で、やっとひとりの侍女と出会った。
でも、その人は、わたしの方を見もしないで、すっと通りすぎていった。
「……え?」
思わず立ち止まる。
続けて、もう一人。こちらにも目を向けず、ただ黙々と歩いていく。
声をかけても、返事はない。
どきん、と胸が跳ねた。
どうして……? わたし、なにかしたの?
怒ってるの……?
そうして、だんだんと心細くなってきたとき——
「シオンお嬢様っ!」
ぱたぱたと軽やかな足音が響いて、目の前に現れたのはミア。
わたしの身の回りを見てくれる、いつも明るいお姉さんだった。
「ミア……!」
思わず駆け寄る。ミアはわたしの肩に手をのせて、真剣な顔で言った。
「お嬢様、大丈夫ですか? 屋敷の様子が……今朝から、どうもおかしいんです」
「……おかしい?」
「誰もが無言で、目を合わせようとしません……まるで……魔法か何かで操られているかのような——」
「まほう……」
その言葉に、ぞくりと背筋が冷たくなる。
ミアの目が、不安そうに揺れた。そのとき——
「きゃっ……!」
ぐらりと身体をくずして、ミアがばたりと床に倒れた。
「ミアっ!」
わたしが駆け寄ると、彼女は苦しげに顔をゆがめながら、わたしの手を握った。
「……シオンお嬢様……逃げて……」
それだけ言うと、静かに目を閉じた。
……こわい。
でも、逃げなきゃ……。
そう思って、わたしは走り出した。
絨毯の上を、夢中で駆ける。どこかへ、どこかへ——。
階段をおりて、長い廊下をぬけて、角を曲がったその先で。
「ようやく見つけたよ、シオン」
そこに立っていたのは——
「リート……兄さま……?」
でも、その姿は、見たことのない格好だった。
黒いマントのような布を肩にかけ、胸元にはきらりと光る赤い宝石。
目は細く笑っているのに、なぜかこわかった。
「もう、逃げられないよ。僕は……“魔王リート”様なのだから!」
「……え?」
どういうこと?
リート兄さまが……魔王?
わたしは思わず後ずさりして、息を呑んだ。
そのとき。
「そこまでよっ!」
きっぱりと響く、聞きなれた声。
くるりと振り向くと、まばゆい光の中に、スカートのすそがふわりと舞っていた。
「マジカル☆リリカ、参上っ!」
きらきらと飾りのついた衣装、ぴんとのびた背すじ、そして、どこまでも堂々とした声。 きらきらと飾りのついた衣装、ぴんとのびた背すじ、そして、どこまでも堂々とした声。
「……リリカ姉さま?」
「悪の手先めっ! これ以上シオンには近づかせないわ!」
右手には、きらびやかな羽根飾りのついたマジカルステッキ。
その先端が、光を反射して、きらりと輝いた——かと思ったら。
リリカ姉さまは、それを迷いなく、ひょいっと脇へ投げ捨てた。
「……えっ、ステッキ……!?」
わたしは思わず、小さく声をもらした。
魔法少女って……魔法を使うんじゃなかったの?
ステッキは床の上をころんと転がって、音もなく止まった。
そんなわたしの困惑をよそに、リリカ姉さまはびしっと指をさして——
「まじかるぱーんち☆!」
「ぐはっ!」
魔王リートは、ばたりと倒れた。
ぽかんとしたまま、わたしはその場に立ち尽くしていた。
でも、すこしずつ、わかってきた。
これは——
これは、えんぎだったんだ。
「もう大丈夫よ、シオン」
すっくと立つリリカ姉さまの声は、いつものやさしさそのままで。
こわばっていた胸の奥が、ふわりとほどけていくようだった。
「……リリカ姉さま……これ……ぜんぶ……」
おそるおそる尋ねると、リリカ姉さまは、ちょっとだけ得意げな顔をした。
「ふふっ、気づいちゃった?」
ころんと笑う顔が、まるでほんものの魔法使いみたいで。
リート兄さまも、さっきの“魔王の声”を忘れたみたいに、にこにこ笑って起き上がっていた。
「ひどいよ、僕に悪役をやらせるなんて……」
「だって、似合いそうだったんだもん。ね、シオン?」
リリカ姉さまは、ちょっといたずらっぽく笑って、わたしの手をぎゅっとにぎった。
「ね、楽しかった?」
「……うん……びっくりしたけど……こわかったけど……
でも……すごく、すごく、うれしかった」
わたしは胸の奥からぽろりとこぼれたことばに、自分で驚いた。
だけど、それはほんとうのきもちだった。
ミアも、リート兄さまも、そしてリリカ姉さまも——
みんなで、わたしのために、ひとつのお芝居をしてくれたんだ。
それが、なによりも、うれしかった。
* * *
その夜。
おやすみの時間になって、ベッドに横になったわたしの部屋に、そっとリリカ姉さまが入ってきた。
月の光がレースのカーテン越しにやさしく差しこみ、部屋の中がふんわりと銀色に染まっていた。
リリカ姉さまは枕もとに腰をおろすと、わたしの髪をそっと撫でながら、微笑んだ。
「シオン、今日は……ほんとにありがとうね」
「……ううん。こっちこそ……たのしかった……」
わたしがそう言うと、リリカ姉さまは、すこしだけ顔を赤くして、でもとても嬉しそうに笑った。
「ねえ、覚えてる? この前……“夢で見たの”って、教えてくれたこと」
「……ゆめ?」
「そう。まだ寒かったころだったかな。
シオンが、“魔法少女が出てくる夢を見たの”って言ってたの。
それで、わたしが“魔法少女ってなに?”って聞いたら……」
リリカ姉さまは、わたしの顔を見ながら、くすっと笑った。
「シオン、すっごく真剣な顔で——“パンチとキックで戦うの!”って」
わたしは思わず、枕の中で笑ってしまった。
「……うん。そう言った……」
「わたし、びっくりして“魔法少女なのに?”って聞き返したのに、シオン、まったく迷わず言ったのよね」
「……“おやくそくだから”って……」
「そうそう、それ!」
リリカ姉さまは少し声を弾ませて笑った。
「で、“お約束ってなに?”って聞いたら、シオンは——」
「……わかんないけど、そういうものなの……!」
二人で目を見合わせて、くすくすと笑いあった。
「だから今日、わたし……その“お約束”どおり、ちゃんとパンチで戦ったのよ」
わたしは枕に顔をうずめて、こくんとうなずいた。
「ほんとに……ありがとう、リリカ姉さま……」
しばらく静かな時間が流れてから、リリカ姉さまはちょっと小声で続けた。
「衣装ね、じつは……わたしが作ったの」
「えっ?」
「夜にこっそり裁縫室を使って。リボンがぜんぜんまっすぐ縫えなくて、何度もやり直したのよ?」
「……ほんとに?」
「ほんとに。あのスカートの飾り、ちょっと傾いてたでしょ? あれは失敗作そのままなの、うふふっ」
わたしは、それを思い出して、くすっと笑った。
「ミアにも手伝ってもらったの。小道具とか、台詞のタイミングとか。
あの“倒れ方”も、何度か練習してたのよ?」
「ミア……たおれるの、うまかった……」
「ふふ。で、リート兄さまはね——最初、“やだ、悪役なんて!”って言ってたのに、
最後は“魔王の登場セリフ、もっと増やしてもいい?”なんて言い出して。
意外とノリノリだったのよ?」
「……うん。こわかったけど……でも……たのしかった」
わたしはもう一度、そっと目をとじて、言った。
「リリカ姉さま……ありがとう」
「ふふっ……きっとシオンも、いつか……ほんとうの魔法少女になれるかもしれないわね♪」
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
リリカ姉さまの手が、やさしくわたしの髪を撫でてくれていて、
そのぬくもりの中で、まぶたが少しずつ重くなっていく。
夢の中では、今日の続きを見た気がした。
マジカルリリカと、悪の魔王リートと、侍女戦士ミアが一緒に冒険している夢。
たのしくて、ちょっぴりこわくて、でも、
なにより——
だいすきな家族に守られている、そんな夢。