春の午後。エルステリア侯爵家の中庭には、陽の光をたっぷりと浴びた花々がそよいでいた。
薄紅のチューリップが並び、白いクロッカスが芝生の縁を縫うように咲いている。足元には風に乗った花びらが、くるくると舞っていた。
その真ん中で、小さな背中が楽しげに跳ねていた。
「シオン、こっちー! あっ、だめよ、そっちは花壇!」
三歳の妹――シオンは、花びらの精のようにくるくると庭を駆けまわる。
白いワンピースの裾が風にゆれて、ふわりと空に舞うたびに、思わず見惚れてしまう。
その姿を見ているだけで、胸の奥にあたたかなものが広がっていった。
わたし、こんなふうに人を見つめたこと、あったかな――?
ベンチに腰かけたまま、リリカ・エルステリアは自分の胸に湧き上がる感情を、そっと探るように抱きしめた。
リリカがこの世界に生まれて、七年と少し。
八歳の誕生日を間近に控えた彼女にとって、「妹」という存在ができたのは、ほんの三年前のことだった。
妹のいる日常は、あたりまえのようで、どこか特別だった。
まるで、春の風みたいに。
触れたらほどけてしまいそうな優しさと、気づけば包まれているようなぬくもり。
シオンという存在は、わたしにとって、そんな不思議な“贈り物”だった。
◇
最初に感じたのは、本当に些細なことだった。
まだ妹が赤ちゃんだった頃――夜泣きがなかなか止まらず、乳母たちが困っていたとき。
たまたまそばを通りかかったわたしが、そっと覗き込んだだけで、シオンはふいに泣きやんだ。
そのときの、部屋の空気。
あれだけ騒がしかったのに、一瞬で静かになって、まるで風が止んだみたいに。
「この子、なんだか……あったかいね」
そう呟いたのは、侍女のミアだった。
言葉にできない何かがある――その場にいた誰もが、きっと感じていた。
それからというもの、わたしは妹の側にいる時間が増えた。
ぴたりとくっついても、くすぐったい笑い声を上げるだけで、全然嫌がらない。
ミルクの匂いと、やわらかな髪と、小さな手のひら。
それらすべてが、わたしにとっての「宝物」になった。
そしてある日、初めてことばを返してくれた日。
不器用に、でもまっすぐに「……りりか、あーと」と笑った妹を見て――
わたしは胸の奥で何かが“決まる”音を聞いた気がした。
(この子のことを、ずっと見ていたい)
そのときから、わたしの中には「妹がいる」というだけじゃない、もっと深くてあたたかな想いが生まれていたのかもしれない。
昨日のことが、まぶたの裏に浮かんでくる。
芝生の上で追いかけっこをしていたとき、わたしは足元の石に気づかず、思いきり踏みつけてしまった。
バランスを崩して、身体がふわっと傾いた、そのとき――
「……あぶないっ!」
シオンの声が、風を呼んだ。
それは、確かに“風”だった。
でもただの風じゃない。
冷たさも重さもない、まるで羽毛のような、やさしく柔らかな風。
その風が、わたしの身体をふんわりと受け止めて、まるで抱きとめるように地面まで運んでくれた。
痛くもなかった。どこにも傷はなかった。
「……いまの、なに?」
わたしは、芝生に手をついたまま、ぽかんと立ち尽くしていた。
シオンは、すぐそばにいて、手を伸ばすでもなく、ただ息を詰めたように立っていた。
その小さな手のひらから、なにかが――目には見えない、だけど確かに“出ていった”ような気がして。
「……魔法なの?」
そう訊いたけれど、妹は首を小さく横に振った。
それが「わからない」という意味だったのか、それとも「ちがうよ」だったのか――
わたしには、まだわからなかった。
けれど、あの風が、あの奇跡が、ただの偶然だったなんて思えなかった。
あのとき、確かに感じたのだ。
胸の奥に、なにかがふわっと届くような――あたたかさ。
◇
その日の夕方、わたしとシオンは並んでおやつを食べていた。
クッキーをぽりぽりと齧りながら、妹はふと、なにかを思い出したように言った。
「ねえ、リリカ姉さま。わたしね――」
「ん? なあに?」
そう問いかけると、妹はぱっと顔を輝かせて、胸を張った。
「わたし、あいどるになるの!」
一瞬、きょとんとしてしまった。
「あいどる……? それって、なあに? なんだか呪文みたい。“あいどる”……って、なにかの魔法?」
まるで精霊の名前のような響き。
けれど、シオンは得意げににこにこと笑って、まっすぐに答えた。
「ちがうよ〜。あいどるはね、みんなを笑顔にするおしごとなの!」
その言葉を聞いた瞬間、なぜかわたしの胸に、またふわりと風が吹いた。
意味は、わからなかった。
でも、その言い方と目の輝きに、きっとそれは――妹にとって、とても大事な“夢”なのだと、すぐにわかった。
だから、わたしは自然に笑っていた。
「ふふ、それは素敵なお仕事ね。
みんなを笑顔にするだなんて……シオンにぴったりかも」
わたしがそう言うと、シオンは嬉しそうに頷いて、わたしの手をぎゅっと握りしめた。
その手のぬくもりに、また胸がぽうっとあたたかくなる。
この子は――
きっと、誰かの心を動かす“力”を持っている。
言葉にできないものを、まっすぐに届ける力。
魔法のようで、魔法じゃない。
だけど、それ以上に“奇跡”みたいなもの。
それが、わたしの妹――シオンだった。
あの時の風の感触が、今でも腕の内側に残っている気がした。あたたかくて、でも不思議で、まるで誰かがそっと背中を押してくれたような……そんな優しい“力”。
ねえ、シオン。あなたはいったい、どこから来たの?
そんな問いかけが、ふと胸の奥に浮かぶ。
でも、すぐにかぶりを振る。わたしはお姉ちゃん。そういう難しいことじゃなくて、今はただ、目の前の妹のことをまっすぐ見ていたい。
もしも、シオンの中に“ふつうじゃない何か”があるとしても、それはきっと、悪いものなんかじゃない。むしろ……とても大切な何か。光のかけらみたいに、きらきらしていて、見ているだけで心があたたかくなる。
あの時、笑っちゃいけないって思った。
よくわからない言葉だった。“あいどる”って、なに? 本当に、呪文かと思ったくらい。
でも、その言葉を言うときのシオンの顔が……すっごくきれいだったから。
あのときの目。光ってた。胸を張って、笑って。
「みんなを笑顔にするおしごとになるの!」って、キラキラした声で言ってたっけ。
まだ小さいのに、大きな夢を語っていた。
(夢って、こういうふうに生まれるんだ)
わたしは今まで、夢って“将来なりたいもの”とか、“お勉強をがんばって目指すもの”だって思ってた。でも、違ったんだね。
夢って、“うまれる”ものなんだ。心の奥から、ぽこんって出てくる。きらきらしてて、あたたかくて、誰にも止められないもの。
あの時のシオンの顔を、わたしはきっと一生忘れない。
だから、決めたの。
わたし、あの子のいちばんの味方になる。
シオンの夢を守りたい。それは、ただの願いじゃない。わたしの心の中で、ちゃんと根を張っている。
お姉ちゃんとして、何ができるか。まだ小さいから、できることはそんなに多くないかもしれない。
でも――気持ちなら、負けない。
わたしは、あの子の“あいどる”っていう夢を、笑わない。
意味がわからなくても、笑顔になるお仕事だっていうなら、わたしは信じる。
だって、シオンの笑顔は、もうたくさんの人を幸せにしてるから。
「ねえ、シオン。おうえんってね、すごくパワーがあるんだよ?」
昔、母様が教えてくれたことがあった。
誰かががんばるとき、その背中を押してくれる魔法みたいな力――それが“応援”。
「じゃあ、“あいどる”になるシオンのこと、お姉ちゃんはいーっぱい応援しなくちゃね!」
自分で言っておいて、ちょっと照れくさくなって笑ってしまう。
でも、それがわたしの本心だった。
今はまだ、何もできないかもしれない。でも、シオンの隣にいられる。手をつなぐことができる。笑って「がんばって」って言ってあげられる。
それだけでも、きっと……伝わるはず。
ふと見上げた空は、どこまでも青くて、雲がひとつもなかった。
まるで、シオンの未来みたい。
なにが待っているかなんて、わたしにも分からないけど――
どんなことがあっても、この子のことを信じていよう。
あのまっすぐな瞳を、夢を、決して曇らせたくない。
それがきっと、“お姉ちゃん”としての、わたしの最初の約束。
その日のおやつは、キッチンの侍女たちが作ってくれたバタークッキーだった。
春の香りがふわっとするラベンダーの砂糖がまぶされていて、一口食べると、口の中でほろりとほどける。
「おいし〜いっ!」
シオンが目を輝かせて笑う。
その笑顔は、わたしの胸の奥をふわりとあたためてくれた。
「もっと食べたい?」
「うん!」
自分の分をそっと差し出すと、シオンはびっくりしたように目を丸くして、それから遠慮がちに受け取った。
「……ありがとう、リリカ姉さま。だいすき!」
――ああ、もう。
そんなふうに言われたら、もう何でもあげたくなっちゃうじゃない。
いつも思うのだ。
この子の「だいすき」は、なんてまっすぐで、なんてあたたかいんだろうって。
この言葉が、どんな魔法よりもわたしを救ってくれる。
泣きたいときも、くやしいときも、迷ったときも――シオンの「だいすき」は、すぐに心に届く。
わたしは、ちゃんとお姉ちゃんでいられているかな。
この子の未来に、ちゃんと寄り添えているかな。
小さな手のひらを、そっと重ねてみる。
まだまだ小さくて、あたたかくて、でも――すごく力強い。
この子はきっと、わたしが思っているより、ずっと遠くまで歩いていくんだ。
でも、だからこそ。
(わたしは、いま、隣にいよう)
笑って、つないで、名前を呼んで。
小さな手を、ぎゅっと握って。
この時間を、大切にしたい。
今だけじゃない。
これから先も、ずっとずっと――
その晩、お母様――アリエッタ様と少しだけお話をする時間があった。
食後、お父様が書斎に戻った後、お母様とわたしは暖炉のある小さな応接間でティーカップを傾けていた。
この部屋は、家族以外が立ち入ることのない、ちょっと特別な空間。
暖炉の火は小さく揺れていて、赤く照らされた壁の模様がゆらゆらと踊っていた。
「シオンは今日も元気でしたか?」
お母様がやわらかく微笑む。
その微笑みの奥には、いつもと同じようでいて、どこか深い思慮が宿っていた。
「はい。……今日、お庭でクッキーを一緒に食べたんです。とても嬉しそうで」
「ふふ、それはよかったわ。あの子は、リリカのことが大好きなのね」
わたしは照れくさくなって、紅茶に目を落とす。
「……わたしも、シオンのことが大好きです。ほんとうに」
その言葉に、お母様は目を細めて、小さくうなずいた。
少しの間、湯気の立つティーカップの音だけが部屋に流れる。
「あなた、最近、少し変わりましたね」
「え?」
「なんていうか……優しさの質が、深くなった気がするの。たぶん、シオンのおかげかしらね」
言葉を失った。
でも、なぜかすっと胸の奥にしみてきて――わたしは、うれしかった。
「お母様。わたし……ちゃんとお姉さまでいられてますか?」
気づいたら、ぽろりとこぼれていた。
お母様は少しだけ驚いたようにまばたきをして、それから、そっとわたしの手を取った。
「ええ、とても。あなたは、とても素敵なお姉さまです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ありがとう……ございます」
あたたかい手のひら。
子どもの頃から変わらない、お母様のやさしさ。
その手のぬくもりに包まれて、わたしは少しだけ、自信を取り戻した。
そして心の中で、もう一度、静かに誓う。
(わたしは、あの子の夢を支える。ずっと、隣で見守っていく)
それが、お姉ちゃんとしての――
そしてリリカという一人の人間としての、大切な“願い”になっていた。
その夜、眠りにつく前の静かな時間。
カーテンの隙間から月明かりが差し込んで、ベッドの上には銀色の影が揺れていた。
部屋は静かで、ただ外の木々が風に揺れる音が、やわらかく耳に届いてくる。
わたしはベッドの中でシーツを胸まで引き寄せながら、今日のことをもう一度、そっと思い返していた。
――「わたし、あいどるになるの!」
あのときの、シオンの得意げな顔。
まるで世界中に宣言するみたいに、大きな声で、胸を張って言った。
最初は意味がわからなかった。だって、「あいどる」なんて、聞いたこともない言葉だったから。
でも、シオンはきらきらした目で、「みんなを笑顔にするおしごとなの!」って言った。
それを聞いたとき、胸がじんわりと熱くなった。
(あの子は本気なんだ)
わからないなりに、伝わってくるものがあった。
たった三歳の子が、あんなに真っ直ぐな瞳で未来を見ている。
それがどれほど強くて、どれほどあたたかいことか。
わたしは、あの子の「夢」を笑いたくない。
知らない言葉だからって、変な響きだからって、呪文みたいだなんて、簡単に片づけたくない。
だって――
(あの子は、ほんとうに“あいどる”になる気がする)
意味も、形も、今はわからない。
でも、わたしは信じたい。あの子が言う「夢」を。
だから、隣で笑っていたい。
泣きたいときは手を引いて、迷ったときは話を聞いて、転びそうになったら支えて――
そうやって、一緒に歩いていけたらいい。
小さな妹は、わたしに“リリカ姉さま”という名前をくれた。
その名前に、ちゃんと応えられるように。
月明かりが、そっと瞼を照らしていた。
夢の中でも、きっとまたシオンと笑っていられますように――
そう願いながら、わたしは静かに目を閉じた。