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8 リリカ、妹を想う

 春の午後。エルステリア侯爵家の中庭には、陽の光をたっぷりと浴びた花々がそよいでいた。

 薄紅のチューリップが並び、白いクロッカスが芝生の縁を縫うように咲いている。足元には風に乗った花びらが、くるくると舞っていた。


 その真ん中で、小さな背中が楽しげに跳ねていた。


「シオン、こっちー! あっ、だめよ、そっちは花壇!」


 三歳の妹――シオンは、花びらの精のようにくるくると庭を駆けまわる。

 白いワンピースの裾が風にゆれて、ふわりと空に舞うたびに、思わず見惚れてしまう。

 その姿を見ているだけで、胸の奥にあたたかなものが広がっていった。


 わたし、こんなふうに人を見つめたこと、あったかな――?


ベンチに腰かけたまま、リリカ・エルステリアは自分の胸に湧き上がる感情を、そっと探るように抱きしめた。


 リリカがこの世界に生まれて、七年と少し。

 八歳の誕生日を間近に控えた彼女にとって、「妹」という存在ができたのは、ほんの三年前のことだった。


 妹のいる日常は、あたりまえのようで、どこか特別だった。


 まるで、春の風みたいに。

 触れたらほどけてしまいそうな優しさと、気づけば包まれているようなぬくもり。

 シオンという存在は、わたしにとって、そんな不思議な“贈り物”だった。





 最初に感じたのは、本当に些細なことだった。


 まだ妹が赤ちゃんだった頃――夜泣きがなかなか止まらず、乳母たちが困っていたとき。

 たまたまそばを通りかかったわたしが、そっと覗き込んだだけで、シオンはふいに泣きやんだ。


 そのときの、部屋の空気。

 あれだけ騒がしかったのに、一瞬で静かになって、まるで風が止んだみたいに。


「この子、なんだか……あったかいね」


 そう呟いたのは、侍女のミアだった。

 言葉にできない何かがある――その場にいた誰もが、きっと感じていた。


 それからというもの、わたしは妹の側にいる時間が増えた。

 ぴたりとくっついても、くすぐったい笑い声を上げるだけで、全然嫌がらない。

 ミルクの匂いと、やわらかな髪と、小さな手のひら。


 それらすべてが、わたしにとっての「宝物」になった。


 そしてある日、初めてことばを返してくれた日。

 不器用に、でもまっすぐに「……りりか、あーと」と笑った妹を見て――

 わたしは胸の奥で何かが“決まる”音を聞いた気がした。


(この子のことを、ずっと見ていたい)


 そのときから、わたしの中には「妹がいる」というだけじゃない、もっと深くてあたたかな想いが生まれていたのかもしれない。


 昨日のことが、まぶたの裏に浮かんでくる。


 芝生の上で追いかけっこをしていたとき、わたしは足元の石に気づかず、思いきり踏みつけてしまった。

 バランスを崩して、身体がふわっと傾いた、そのとき――


「……あぶないっ!」


 シオンの声が、風を呼んだ。


 それは、確かに“風”だった。

 でもただの風じゃない。

 冷たさも重さもない、まるで羽毛のような、やさしく柔らかな風。


 その風が、わたしの身体をふんわりと受け止めて、まるで抱きとめるように地面まで運んでくれた。


 痛くもなかった。どこにも傷はなかった。


「……いまの、なに?」


 わたしは、芝生に手をついたまま、ぽかんと立ち尽くしていた。


 シオンは、すぐそばにいて、手を伸ばすでもなく、ただ息を詰めたように立っていた。

 その小さな手のひらから、なにかが――目には見えない、だけど確かに“出ていった”ような気がして。


「……魔法なの?」


 そう訊いたけれど、妹は首を小さく横に振った。

 それが「わからない」という意味だったのか、それとも「ちがうよ」だったのか――

 わたしには、まだわからなかった。


 けれど、あの風が、あの奇跡が、ただの偶然だったなんて思えなかった。


 あのとき、確かに感じたのだ。


 胸の奥に、なにかがふわっと届くような――あたたかさ。





 その日の夕方、わたしとシオンは並んでおやつを食べていた。

 クッキーをぽりぽりと齧りながら、妹はふと、なにかを思い出したように言った。


「ねえ、リリカ姉さま。わたしね――」


「ん? なあに?」


 そう問いかけると、妹はぱっと顔を輝かせて、胸を張った。


「わたし、あいどるになるの!」


 一瞬、きょとんとしてしまった。


「あいどる……? それって、なあに? なんだか呪文みたい。“あいどる”……って、なにかの魔法?」


 まるで精霊の名前のような響き。

 けれど、シオンは得意げににこにこと笑って、まっすぐに答えた。


「ちがうよ〜。あいどるはね、みんなを笑顔にするおしごとなの!」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜかわたしの胸に、またふわりと風が吹いた。


 意味は、わからなかった。

 でも、その言い方と目の輝きに、きっとそれは――妹にとって、とても大事な“夢”なのだと、すぐにわかった。


 だから、わたしは自然に笑っていた。


「ふふ、それは素敵なお仕事ね。

 みんなを笑顔にするだなんて……シオンにぴったりかも」


 わたしがそう言うと、シオンは嬉しそうに頷いて、わたしの手をぎゅっと握りしめた。

 その手のぬくもりに、また胸がぽうっとあたたかくなる。


 この子は――

 きっと、誰かの心を動かす“力”を持っている。


 言葉にできないものを、まっすぐに届ける力。

 魔法のようで、魔法じゃない。

 だけど、それ以上に“奇跡”みたいなもの。


 それが、わたしの妹――シオンだった。


 あの時の風の感触が、今でも腕の内側に残っている気がした。あたたかくて、でも不思議で、まるで誰かがそっと背中を押してくれたような……そんな優しい“力”。


 ねえ、シオン。あなたはいったい、どこから来たの?


 そんな問いかけが、ふと胸の奥に浮かぶ。


 でも、すぐにかぶりを振る。わたしはお姉ちゃん。そういう難しいことじゃなくて、今はただ、目の前の妹のことをまっすぐ見ていたい。


 もしも、シオンの中に“ふつうじゃない何か”があるとしても、それはきっと、悪いものなんかじゃない。むしろ……とても大切な何か。光のかけらみたいに、きらきらしていて、見ているだけで心があたたかくなる。


 あの時、笑っちゃいけないって思った。


 よくわからない言葉だった。“あいどる”って、なに? 本当に、呪文かと思ったくらい。


 でも、その言葉を言うときのシオンの顔が……すっごくきれいだったから。


あのときの目。光ってた。胸を張って、笑って。

「みんなを笑顔にするおしごとになるの!」って、キラキラした声で言ってたっけ。

まだ小さいのに、大きな夢を語っていた。


(夢って、こういうふうに生まれるんだ)


 わたしは今まで、夢って“将来なりたいもの”とか、“お勉強をがんばって目指すもの”だって思ってた。でも、違ったんだね。


 夢って、“うまれる”ものなんだ。心の奥から、ぽこんって出てくる。きらきらしてて、あたたかくて、誰にも止められないもの。


 あの時のシオンの顔を、わたしはきっと一生忘れない。


 だから、決めたの。


 わたし、あの子のいちばんの味方になる。


 シオンの夢を守りたい。それは、ただの願いじゃない。わたしの心の中で、ちゃんと根を張っている。


 お姉ちゃんとして、何ができるか。まだ小さいから、できることはそんなに多くないかもしれない。

 でも――気持ちなら、負けない。


 わたしは、あの子の“あいどる”っていう夢を、笑わない。

 意味がわからなくても、笑顔になるお仕事だっていうなら、わたしは信じる。

 だって、シオンの笑顔は、もうたくさんの人を幸せにしてるから。


「ねえ、シオン。おうえんってね、すごくパワーがあるんだよ?」


 昔、母様が教えてくれたことがあった。

 誰かががんばるとき、その背中を押してくれる魔法みたいな力――それが“応援”。


「じゃあ、“あいどる”になるシオンのこと、お姉ちゃんはいーっぱい応援しなくちゃね!」


 自分で言っておいて、ちょっと照れくさくなって笑ってしまう。


 でも、それがわたしの本心だった。


 今はまだ、何もできないかもしれない。でも、シオンの隣にいられる。手をつなぐことができる。笑って「がんばって」って言ってあげられる。


 それだけでも、きっと……伝わるはず。


 ふと見上げた空は、どこまでも青くて、雲がひとつもなかった。

 まるで、シオンの未来みたい。


 なにが待っているかなんて、わたしにも分からないけど――


 どんなことがあっても、この子のことを信じていよう。

 あのまっすぐな瞳を、夢を、決して曇らせたくない。


 それがきっと、“お姉ちゃん”としての、わたしの最初の約束。


 その日のおやつは、キッチンの侍女たちが作ってくれたバタークッキーだった。

 春の香りがふわっとするラベンダーの砂糖がまぶされていて、一口食べると、口の中でほろりとほどける。


「おいし〜いっ!」


 シオンが目を輝かせて笑う。

 その笑顔は、わたしの胸の奥をふわりとあたためてくれた。


「もっと食べたい?」


「うん!」


 自分の分をそっと差し出すと、シオンはびっくりしたように目を丸くして、それから遠慮がちに受け取った。


「……ありがとう、リリカ姉さま。だいすき!」


 ――ああ、もう。


 そんなふうに言われたら、もう何でもあげたくなっちゃうじゃない。


 いつも思うのだ。

 この子の「だいすき」は、なんてまっすぐで、なんてあたたかいんだろうって。


 この言葉が、どんな魔法よりもわたしを救ってくれる。

 泣きたいときも、くやしいときも、迷ったときも――シオンの「だいすき」は、すぐに心に届く。


 わたしは、ちゃんとお姉ちゃんでいられているかな。

 この子の未来に、ちゃんと寄り添えているかな。


 小さな手のひらを、そっと重ねてみる。

 まだまだ小さくて、あたたかくて、でも――すごく力強い。


 この子はきっと、わたしが思っているより、ずっと遠くまで歩いていくんだ。


 でも、だからこそ。


(わたしは、いま、隣にいよう)


 笑って、つないで、名前を呼んで。

 小さな手を、ぎゅっと握って。


 この時間を、大切にしたい。


 今だけじゃない。

 これから先も、ずっとずっと――


 その晩、お母様――アリエッタ様と少しだけお話をする時間があった。


 食後、お父様が書斎に戻った後、お母様とわたしは暖炉のある小さな応接間でティーカップを傾けていた。

 この部屋は、家族以外が立ち入ることのない、ちょっと特別な空間。


 暖炉の火は小さく揺れていて、赤く照らされた壁の模様がゆらゆらと踊っていた。


「シオンは今日も元気でしたか?」


 お母様がやわらかく微笑む。

 その微笑みの奥には、いつもと同じようでいて、どこか深い思慮が宿っていた。


「はい。……今日、お庭でクッキーを一緒に食べたんです。とても嬉しそうで」


「ふふ、それはよかったわ。あの子は、リリカのことが大好きなのね」


 わたしは照れくさくなって、紅茶に目を落とす。


「……わたしも、シオンのことが大好きです。ほんとうに」


 その言葉に、お母様は目を細めて、小さくうなずいた。

 少しの間、湯気の立つティーカップの音だけが部屋に流れる。


「あなた、最近、少し変わりましたね」


「え?」


「なんていうか……優しさの質が、深くなった気がするの。たぶん、シオンのおかげかしらね」


 言葉を失った。

 でも、なぜかすっと胸の奥にしみてきて――わたしは、うれしかった。


「お母様。わたし……ちゃんとお姉さまでいられてますか?」


 気づいたら、ぽろりとこぼれていた。


 お母様は少しだけ驚いたようにまばたきをして、それから、そっとわたしの手を取った。


「ええ、とても。あなたは、とても素敵なお姉さまです」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「ありがとう……ございます」


 あたたかい手のひら。

 子どもの頃から変わらない、お母様のやさしさ。


 その手のぬくもりに包まれて、わたしは少しだけ、自信を取り戻した。


 そして心の中で、もう一度、静かに誓う。


(わたしは、あの子の夢を支える。ずっと、隣で見守っていく)


 それが、お姉ちゃんとしての――

 そしてリリカという一人の人間としての、大切な“願い”になっていた。


 その夜、眠りにつく前の静かな時間。


 カーテンの隙間から月明かりが差し込んで、ベッドの上には銀色の影が揺れていた。

 部屋は静かで、ただ外の木々が風に揺れる音が、やわらかく耳に届いてくる。


 わたしはベッドの中でシーツを胸まで引き寄せながら、今日のことをもう一度、そっと思い返していた。


 ――「わたし、あいどるになるの!」


 あのときの、シオンの得意げな顔。

 まるで世界中に宣言するみたいに、大きな声で、胸を張って言った。


 最初は意味がわからなかった。だって、「あいどる」なんて、聞いたこともない言葉だったから。

 でも、シオンはきらきらした目で、「みんなを笑顔にするおしごとなの!」って言った。


 それを聞いたとき、胸がじんわりと熱くなった。


(あの子は本気なんだ)


 わからないなりに、伝わってくるものがあった。

 たった三歳の子が、あんなに真っ直ぐな瞳で未来を見ている。

 それがどれほど強くて、どれほどあたたかいことか。


 わたしは、あの子の「夢」を笑いたくない。

 知らない言葉だからって、変な響きだからって、呪文みたいだなんて、簡単に片づけたくない。


 だって――


(あの子は、ほんとうに“あいどる”になる気がする)


 意味も、形も、今はわからない。

 でも、わたしは信じたい。あの子が言う「夢」を。


 だから、隣で笑っていたい。

 泣きたいときは手を引いて、迷ったときは話を聞いて、転びそうになったら支えて――

 そうやって、一緒に歩いていけたらいい。


 小さな妹は、わたしに“リリカ姉さま”という名前をくれた。

 その名前に、ちゃんと応えられるように。


 月明かりが、そっと瞼を照らしていた。

 夢の中でも、きっとまたシオンと笑っていられますように――


 そう願いながら、わたしは静かに目を閉じた。


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