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7 シオン、三歳になりました

 朝の光が、レースのカーテン越しにふんわりと差し込んできた。

 薄い金色の陽ざしが、ベッドの白いシーツにそっと広がって、まるで羽毛のように柔らかい。


 私は、顔をふかふかの枕にうずめたまま、小さく息を吐いた。

 まだ夢の名残が、まぶたの裏に残っている。


(……三歳になったんだ、私)


 カーテンの隙間から、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。春の朝は、どこか甘くて、くすぐったい。

 昨日のことが、ぼんやりと浮かんでくる。


 ――お祝いの日。


 お部屋には、たくさんの花が飾られていた。白と桃色の小さな花々が、テーブルの上や窓辺にあふれていて、ふわっと甘い香りに包まれていた。


 アリエッタ母様が選んでくださったドレスは、淡い藤色のレースがついた可愛いもので、背中にリボンもあった。

 リート兄さまは照れたように、少しだけ微笑んで「似合ってるよ」と言ってくれた。

 リリカ姉さまは、「じゃーんっ!」と笑いながら、花冠を持ってきてくれた。


「シオン、これ、似合うと思って作ったの。ほら、つけてごらん!」


 リリカ姉さまが編んでくれた花冠は、白い小花と薄い紫の花が交じりあって、まるで妖精さんみたいだった。

 おでこにそっと載せられたとき、心がぽわっとあたたかくなった。


(嬉しかったな……夢みたいだった)


 甘い匂いのケーキには、三本の小さな蝋燭が立っていた。炎を吹き消すとき、何を願えばいいのかちょっと迷ってしまって、でも最後に、そっと目を閉じて思った。


(歌ってみたいな――ちゃんと、自分の声で)


 その気持ちは、昨日から突然生まれたわけじゃない。ずっと、もっと前から……

 私の中に、眠るように存在していた“憧れ”。


 前の世界――

 体が弱くて、病室の外にも出られない日が続いたあの時間。

 そんな毎日の中で、私を支えてくれたのは、小さなテレビに映っていたあの人だった。


 きらきらと光る舞台。鮮やかなスポットライトの下で、やさしく、強く、まっすぐに歌っていた。

 わたしの胸にまっすぐ届いた、その笑顔と歌声は、どんな薬よりもあたたかかった。


 七瀬ルナさん。


 会ったことも、触れたこともないけれど、ずっと憧れていた。

 あの人のように、誰かに希望を届けられる存在になりたい――それが、わたしのいちばんの夢だった。


(でも……叶わなかった。あの頃の“わたし”には、できなかったから)


 自分の声で誰かに想いを届けること。

 ただの夢物語として終わってしまった“想い”


 だけど、いまの“わたし”には――


(できるかもしれない。この世界でなら)


 ぬいぐるみの「ルナちゃん」が、そっと胸元にあたたかさをくれる。

 小さなその存在を抱きしめながら、わたしはもう一度、胸の奥にそっと火を灯す。


(ちゃんと歌ってみたい。

 誰かに届くように。心の奥まで、ちゃんと届くように――)


 庭に出ると、春風が頬をなでていった。

 木々の間からこぼれる日差しが芝生に模様を描き、小さな花々がそよそよと揺れている。

 この季節の庭は、まるで絵本の中の風景みたいだった。


「リリカ姉さま、こっち!」


 わたしはぱたぱたと足を動かしながら、リリカ姉さまの手を引いていた。

 リリカ姉さまは五歳。明るくて元気で、ちょっぴりドジ。でも、とびきり優しい。


「シオン、そんなに走ったら転んじゃうわよー!」


「だいじょうぶだもんっ!」


 きらきらと舞い上がる花びら。

 芝生の上をくるくると駆け回りながら、わたしたちは声を上げて笑った。

 春の空気はやさしくて、笑い声もすっと吸い込まれていくみたいだった。


 でも、そのときだった。


「きゃっ!」


 ふいに、リリカ姉さまがつまづいた。

 片足を滑らせて、バランスを崩し――倒れそうになった、その瞬間。


「……あぶないっ!」


 わたしは思わず、叫んでいた。

 その声と同時に、胸の奥から何かがふわっと広がる感覚があった。


 目に見えない、でも確かに感じた“なにか”。


 それは風だった。

 そよ風より少しだけ強くて、でも冷たくない。やわらかく包みこむような、そんな風が――リリカ姉さまのまわりにふわっと吹いた。


 すると、倒れかけたリリカ姉さまの身体がふんわりと浮いた。

 まるで絹のリボンが支えるように、すっと宙でバランスをとって、そのまま芝生の上に静かに着地した。


「……あれ? 今……どうして……?」


 リリカ姉さまはきょとんとして、両手を見つめている。

 わたしも、息をのんだまま立ち尽くしていた。


(今の……なに?)


 自分の手を見下ろす。小さな掌。けれどさっき、その掌の奥から――何かが“出ていった”気がした。


 風……だけど、ただの風じゃない。


(あれは……魔法?)


 でも、わたしは詠唱なんてしていない。呪文の言葉も、構えもなかった。

 ただ、リリカ姉さまが倒れそうになって、「あぶない」と思った――それだけ。


 その“想い”が、風を呼んだ?


 芝生に座りこんだリリカ姉さまが、不思議そうな顔でわたしを見た。


「ねえ、シオン。いまの、もしかして……」


 わたしは、何も言えずに首を横に振った。


 だって、わたしにもよくわからなかったから。


 お部屋に戻って、ベッドの上に座ると、わたしはそっと「ルナちゃん」を胸に抱きしめた。

 ふわふわのぬいぐるみは、昨日リリカ姉さまがリボンをつけてくれたばかりで、いつもより少しだけ、おめかししている。


 ぬくもりはないけれど、ぎゅっと抱きしめると、心の奥がすこし落ち着いた。

 わたしは、ぽつりと問いかける。


「……さっきの、やっぱり……魔法、なのかな?」


 この世界では、“魔力”という力が流れていて、“詠唱”とか“加護”とか、“魔法”という仕組みがちゃんと存在している。

 大人たちの会話や侍女たちの話から、わたしは少しずつ、そういうことを覚えてきた。


 でも、さっきのわたしは――なにもしていない。

 呪文も知らないし、魔法陣も描いていない。ただ、ただ強く願っただけ。


(リリカ姉さまが、怪我しませんように……)


 それだけだった。


 だけど、確かに起きた。

 風が吹いて、リリカ姉さまの身体が浮かんで、傷つかずにすんだ。


(わたし、魔法……使えたの? でも、なにかちがう)


 この感覚、どこかで――似たようなものを感じた気がする。


 あのとき。

 テレビに映っていた、七瀬ルナさんの歌。


 彼女が歌っているとき、わたしの胸の中にふわっと何かが届いてきた。

 音じゃない、でも確かに“届いた”と思える何か。


 あれは、きっと“気持ち”だった。

 言葉にできないけれど、心の中があたたかくなるような、やさしい風。


 それと……どこか、似ていた。


「……やっぱり、ちがうのかもしれない」


 わたしは、ルナちゃんの額にそっと口を寄せて、小さくつぶやく。


「この世界の魔法じゃなくて、わたしの中の“なにか”……そういうのかも」


 それが、前の世界の影響なのか、今の“わたし”自身のものなのかは、わからない。

 けれど――どこかで確信していた。


 これは、“まちがい”じゃない。


 わたしはまだ、小さな子ども。

 でも、心の奥にある夢は、ずっとずっと前から変わっていない。


(歌えるようになりたい。ちゃんと、わたしの声で)


 前の世界では、願うだけで叶わなかった。

 病気で、身体が弱くて、ベッドの上で過ごすことしかできなかった“わたし”は、一度も“本当の声”で歌えなかった。


 だからこそ、いまのわたしは願う。


(はじめて、自分の声で――ちゃんと、歌ってみたい)


 ぬいぐるみのルナちゃんが、黙って寄り添ってくれている。

 わたしは小さく笑って、もう一度ぎゅっと抱きしめた。


 扉の向こうから、やわらかくノックの音が響いた。


「シオン様、リリカお嬢様がお迎えにいらしています」


 侍女の声に、わたしは「はーい!」と元気よく返事をして、ベッドから飛び降りる。


 ルナちゃんをそっとベッドに寝かせて、ブランケットをかけてあげると、わたしは小さな手で軽くおでこをなでた。


「ちょっと行ってくるね。あとで、またお話ししようね」


 ぬいぐるみがいるだけで、わたしはなんだか少しだけ強くなれる気がする。


 ぱたぱたと廊下を駆けていくと、リリカ姉さまがニコニコしながら待っていた。


「シオン、お外でおやつにしましょ。今日はクッキーがあるのよ!」


「わーいっ!」


 手をつなぐと、リリカ姉さまの手はあたたかくて、すこし大きい。

 ぎゅっと握り返したら、姉さまはうれしそうに目を細めてくれた。


 そういう瞬間が、わたしはとても好きだった。


 小さな庭に出ると、春の風がまた頬をなでていった。

 昨日と同じ、でもちょっぴり違う。三歳になったわたしの一日は、たぶん今日から、すこしずつ変わっていく。


 歩けるようになった。

 走れるようになった。

 言葉も覚えて、気持ちもちゃんと伝えられるようになってきた。


 それだけじゃない。


 心の中の“夢”に、ほんの少しだけ手が届きそうな気がした。


(この世界で、わたしは……)


 ちゃんと歌ってみたい。

 誰かに、気持ちを届けられるような、そんな歌を。

 大きなステージじゃなくても、スポットライトがなくても――

 目の前の大切な人の心に届くような、あたたかな音を。


 ふと、わたしは口を開く。


「ねえ、リリカ姉さま。わたしね――」


「ん? なあに?」


 わたしは、にこっと笑って、大きく胸を張った。


「わたし、あいどるになるの!」


 一瞬の沈黙。

 リリカ姉さまはぱちくりとまばたきをして、それから小首をかしげた。


「……あいどる?」


 その響きが不思議だったのだろう。

 聞いたこともない単語に、リリカ姉さまは戸惑いながらも、笑みを浮かべて言った。


「ねえ、それ……なに? なんだか呪文みたいね。“あいどる”……って、なにかの魔法?」


「ちがうよ〜。あいどるはね、みんなを笑顔にするおしごとなの!」


 わたしは得意げにそう言って、胸を張った。

 なんとなく聞いた言葉を、まるで宝物みたいに、そっと心の中で握りしめた。

 意味はまだよくわからないけれど、きっと大切な“なにか”なんだと、そう思っていた。


 リリカ姉さまは、ふっと微笑んで、わたしの髪をなでながら言った。


「ふふ……それは、とっても素敵なお仕事ね。

 みんなを笑顔にするだなんて、シオンにぴったりかも」


 やさしい声に、心がふわりとほどけていく。

 大好きな人にそう言ってもらえただけで、夢が少しだけ近くなったような気がした。


「それなら、私がいーっぱい応援してあげる! “あいどる”になるシオンのこと!」


「うんっ!」


 わたしはその手をぎゅっと握りしめて、笑った。

 あたたかい手のぬくもりは、まるで“だいじょうぶだよ”って言ってくれているようだった。


(でも、きっと本当になる。これは、わたしの夢だから)


 春の空は、高くて青くて、どこまでも続いている。

 その先にある未来を、わたしはまだ知らない。けれど――


 今日という日が、またひとつ、夢への小さな一歩になる。

 そんな気がしていた。


――“あいどる”って、きっと、そんなふうに始まるのかもしれない。

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