朝の光が、レースのカーテン越しにふんわりと差し込んできた。
薄い金色の陽ざしが、ベッドの白いシーツにそっと広がって、まるで羽毛のように柔らかい。
私は、顔をふかふかの枕にうずめたまま、小さく息を吐いた。
まだ夢の名残が、まぶたの裏に残っている。
(……三歳になったんだ、私)
カーテンの隙間から、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。春の朝は、どこか甘くて、くすぐったい。
昨日のことが、ぼんやりと浮かんでくる。
――お祝いの日。
お部屋には、たくさんの花が飾られていた。白と桃色の小さな花々が、テーブルの上や窓辺にあふれていて、ふわっと甘い香りに包まれていた。
アリエッタ母様が選んでくださったドレスは、淡い藤色のレースがついた可愛いもので、背中にリボンもあった。
リート兄さまは照れたように、少しだけ微笑んで「似合ってるよ」と言ってくれた。
リリカ姉さまは、「じゃーんっ!」と笑いながら、花冠を持ってきてくれた。
「シオン、これ、似合うと思って作ったの。ほら、つけてごらん!」
リリカ姉さまが編んでくれた花冠は、白い小花と薄い紫の花が交じりあって、まるで妖精さんみたいだった。
おでこにそっと載せられたとき、心がぽわっとあたたかくなった。
(嬉しかったな……夢みたいだった)
甘い匂いのケーキには、三本の小さな蝋燭が立っていた。炎を吹き消すとき、何を願えばいいのかちょっと迷ってしまって、でも最後に、そっと目を閉じて思った。
(歌ってみたいな――ちゃんと、自分の声で)
その気持ちは、昨日から突然生まれたわけじゃない。ずっと、もっと前から……
私の中に、眠るように存在していた“憧れ”。
前の世界――
体が弱くて、病室の外にも出られない日が続いたあの時間。
そんな毎日の中で、私を支えてくれたのは、小さなテレビに映っていたあの人だった。
きらきらと光る舞台。鮮やかなスポットライトの下で、やさしく、強く、まっすぐに歌っていた。
わたしの胸にまっすぐ届いた、その笑顔と歌声は、どんな薬よりもあたたかかった。
七瀬ルナさん。
会ったことも、触れたこともないけれど、ずっと憧れていた。
あの人のように、誰かに希望を届けられる存在になりたい――それが、わたしのいちばんの夢だった。
(でも……叶わなかった。あの頃の“わたし”には、できなかったから)
自分の声で誰かに想いを届けること。
ただの夢物語として終わってしまった“想い”
だけど、いまの“わたし”には――
(できるかもしれない。この世界でなら)
ぬいぐるみの「ルナちゃん」が、そっと胸元にあたたかさをくれる。
小さなその存在を抱きしめながら、わたしはもう一度、胸の奥にそっと火を灯す。
(ちゃんと歌ってみたい。
誰かに届くように。心の奥まで、ちゃんと届くように――)
庭に出ると、春風が頬をなでていった。
木々の間からこぼれる日差しが芝生に模様を描き、小さな花々がそよそよと揺れている。
この季節の庭は、まるで絵本の中の風景みたいだった。
「リリカ姉さま、こっち!」
わたしはぱたぱたと足を動かしながら、リリカ姉さまの手を引いていた。
リリカ姉さまは五歳。明るくて元気で、ちょっぴりドジ。でも、とびきり優しい。
「シオン、そんなに走ったら転んじゃうわよー!」
「だいじょうぶだもんっ!」
きらきらと舞い上がる花びら。
芝生の上をくるくると駆け回りながら、わたしたちは声を上げて笑った。
春の空気はやさしくて、笑い声もすっと吸い込まれていくみたいだった。
でも、そのときだった。
「きゃっ!」
ふいに、リリカ姉さまがつまづいた。
片足を滑らせて、バランスを崩し――倒れそうになった、その瞬間。
「……あぶないっ!」
わたしは思わず、叫んでいた。
その声と同時に、胸の奥から何かがふわっと広がる感覚があった。
目に見えない、でも確かに感じた“なにか”。
それは風だった。
そよ風より少しだけ強くて、でも冷たくない。やわらかく包みこむような、そんな風が――リリカ姉さまのまわりにふわっと吹いた。
すると、倒れかけたリリカ姉さまの身体がふんわりと浮いた。
まるで絹のリボンが支えるように、すっと宙でバランスをとって、そのまま芝生の上に静かに着地した。
「……あれ? 今……どうして……?」
リリカ姉さまはきょとんとして、両手を見つめている。
わたしも、息をのんだまま立ち尽くしていた。
(今の……なに?)
自分の手を見下ろす。小さな掌。けれどさっき、その掌の奥から――何かが“出ていった”気がした。
風……だけど、ただの風じゃない。
(あれは……魔法?)
でも、わたしは詠唱なんてしていない。呪文の言葉も、構えもなかった。
ただ、リリカ姉さまが倒れそうになって、「あぶない」と思った――それだけ。
その“想い”が、風を呼んだ?
芝生に座りこんだリリカ姉さまが、不思議そうな顔でわたしを見た。
「ねえ、シオン。いまの、もしかして……」
わたしは、何も言えずに首を横に振った。
だって、わたしにもよくわからなかったから。
お部屋に戻って、ベッドの上に座ると、わたしはそっと「ルナちゃん」を胸に抱きしめた。
ふわふわのぬいぐるみは、昨日リリカ姉さまがリボンをつけてくれたばかりで、いつもより少しだけ、おめかししている。
ぬくもりはないけれど、ぎゅっと抱きしめると、心の奥がすこし落ち着いた。
わたしは、ぽつりと問いかける。
「……さっきの、やっぱり……魔法、なのかな?」
この世界では、“魔力”という力が流れていて、“詠唱”とか“加護”とか、“魔法”という仕組みがちゃんと存在している。
大人たちの会話や侍女たちの話から、わたしは少しずつ、そういうことを覚えてきた。
でも、さっきのわたしは――なにもしていない。
呪文も知らないし、魔法陣も描いていない。ただ、ただ強く願っただけ。
(リリカ姉さまが、怪我しませんように……)
それだけだった。
だけど、確かに起きた。
風が吹いて、リリカ姉さまの身体が浮かんで、傷つかずにすんだ。
(わたし、魔法……使えたの? でも、なにかちがう)
この感覚、どこかで――似たようなものを感じた気がする。
あのとき。
テレビに映っていた、七瀬ルナさんの歌。
彼女が歌っているとき、わたしの胸の中にふわっと何かが届いてきた。
音じゃない、でも確かに“届いた”と思える何か。
あれは、きっと“気持ち”だった。
言葉にできないけれど、心の中があたたかくなるような、やさしい風。
それと……どこか、似ていた。
「……やっぱり、ちがうのかもしれない」
わたしは、ルナちゃんの額にそっと口を寄せて、小さくつぶやく。
「この世界の魔法じゃなくて、わたしの中の“なにか”……そういうのかも」
それが、前の世界の影響なのか、今の“わたし”自身のものなのかは、わからない。
けれど――どこかで確信していた。
これは、“まちがい”じゃない。
わたしはまだ、小さな子ども。
でも、心の奥にある夢は、ずっとずっと前から変わっていない。
(歌えるようになりたい。ちゃんと、わたしの声で)
前の世界では、願うだけで叶わなかった。
病気で、身体が弱くて、ベッドの上で過ごすことしかできなかった“わたし”は、一度も“本当の声”で歌えなかった。
だからこそ、いまのわたしは願う。
(はじめて、自分の声で――ちゃんと、歌ってみたい)
ぬいぐるみのルナちゃんが、黙って寄り添ってくれている。
わたしは小さく笑って、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
扉の向こうから、やわらかくノックの音が響いた。
「シオン様、リリカお嬢様がお迎えにいらしています」
侍女の声に、わたしは「はーい!」と元気よく返事をして、ベッドから飛び降りる。
ルナちゃんをそっとベッドに寝かせて、ブランケットをかけてあげると、わたしは小さな手で軽くおでこをなでた。
「ちょっと行ってくるね。あとで、またお話ししようね」
ぬいぐるみがいるだけで、わたしはなんだか少しだけ強くなれる気がする。
ぱたぱたと廊下を駆けていくと、リリカ姉さまがニコニコしながら待っていた。
「シオン、お外でおやつにしましょ。今日はクッキーがあるのよ!」
「わーいっ!」
手をつなぐと、リリカ姉さまの手はあたたかくて、すこし大きい。
ぎゅっと握り返したら、姉さまはうれしそうに目を細めてくれた。
そういう瞬間が、わたしはとても好きだった。
小さな庭に出ると、春の風がまた頬をなでていった。
昨日と同じ、でもちょっぴり違う。三歳になったわたしの一日は、たぶん今日から、すこしずつ変わっていく。
歩けるようになった。
走れるようになった。
言葉も覚えて、気持ちもちゃんと伝えられるようになってきた。
それだけじゃない。
心の中の“夢”に、ほんの少しだけ手が届きそうな気がした。
(この世界で、わたしは……)
ちゃんと歌ってみたい。
誰かに、気持ちを届けられるような、そんな歌を。
大きなステージじゃなくても、スポットライトがなくても――
目の前の大切な人の心に届くような、あたたかな音を。
ふと、わたしは口を開く。
「ねえ、リリカ姉さま。わたしね――」
「ん? なあに?」
わたしは、にこっと笑って、大きく胸を張った。
「わたし、あいどるになるの!」
一瞬の沈黙。
リリカ姉さまはぱちくりとまばたきをして、それから小首をかしげた。
「……あいどる?」
その響きが不思議だったのだろう。
聞いたこともない単語に、リリカ姉さまは戸惑いながらも、笑みを浮かべて言った。
「ねえ、それ……なに? なんだか呪文みたいね。“あいどる”……って、なにかの魔法?」
「ちがうよ〜。あいどるはね、みんなを笑顔にするおしごとなの!」
わたしは得意げにそう言って、胸を張った。
なんとなく聞いた言葉を、まるで宝物みたいに、そっと心の中で握りしめた。
意味はまだよくわからないけれど、きっと大切な“なにか”なんだと、そう思っていた。
リリカ姉さまは、ふっと微笑んで、わたしの髪をなでながら言った。
「ふふ……それは、とっても素敵なお仕事ね。
みんなを笑顔にするだなんて、シオンにぴったりかも」
やさしい声に、心がふわりとほどけていく。
大好きな人にそう言ってもらえただけで、夢が少しだけ近くなったような気がした。
「それなら、私がいーっぱい応援してあげる! “あいどる”になるシオンのこと!」
「うんっ!」
わたしはその手をぎゅっと握りしめて、笑った。
あたたかい手のぬくもりは、まるで“だいじょうぶだよ”って言ってくれているようだった。
(でも、きっと本当になる。これは、わたしの夢だから)
春の空は、高くて青くて、どこまでも続いている。
その先にある未来を、わたしはまだ知らない。けれど――
今日という日が、またひとつ、夢への小さな一歩になる。
そんな気がしていた。
――“あいどる”って、きっと、そんなふうに始まるのかもしれない。