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6 父の祈り、沈黙の誓い(クラヴィス視点)

 教会へと向かう馬車の中、私は窓の外に広がる穏やかな春の景色を見つめながら、深く静かな呼吸を繰り返していた。

 車輪の揺れが、時折細やかに座席を揺らす。けれどそのわずかな揺れが、今日という特別な一日の重みを際立たせているように思えた。


 向かう先は、エルステリア領の中心にある大教会。

 今日は次女・シオンの“祝福の儀”の日だ。


 けれど私は、ただの父親としてそこに向かっているわけではなかった。

 この地を治めるエルステリア侯爵家の当主として、民の前に立つ者としての覚悟と責任もまた、今日という一日に重ねられていた。


 娘を見やると、彼女はアリエッタの腕の中ですやすやと眠っていた。

 その小さな胸が静かに上下するたび、胸の奥に奇妙な緊張が走る。


(……本当に、これでよかったのだろうか)


 何度問い直しても、その答えは出ない。

 この子が他の子と違うことは、生まれてすぐに感じていた。


 詠唱もなく癒しをもたらす声。

 音に反応するかのように瞬く瞳。

 まだ言葉を話せぬはずの幼子の発する“何か”が、まるで祈りのように人の心を包み込む。


 それは――力か、奇跡か、それとも、神の祝福なのか。


 けれど私にとっては、それ以上にただひとつ、確かなことがあった。

 この子は、私の娘だということ。

 それだけは、どんな力の有無よりも大切な事実だった。


 アリエッタの腕の中で、シオンがわずかに身じろぎをした。

 その動きに、隣に座る長男リートが静かに顔を向けた。年若くして剣の稽古に励み、すでに家の責任の一端を担おうとしている息子。その眼差しには、確かな気遣いと決意が宿っていた。


「母上、寒くはありませんか?」


「ええ、ありがとう。あなたの気遣いは、いつも頼もしいわ」


 アリエッタがそう言って微笑むと、リートは少しだけ照れたように目を伏せた。


 その向かいには、長女のリリカが座っている。

 青い瞳を細め、何かを思案するような顔つきで、静かにシオンを見つめていた。


 彼女もまた、この祝福の儀が“ただの儀式”では済まないかもしれないことを、薄々感じ取っているのかもしれない。


 ――私は、彼女たちの父親だ。


 この家族の誰もが、今のこの時間を無事に迎えられたことに感謝しながらも、どこか言葉にできない緊張を抱えていた。


 馬車がゆっくりと石畳の上に止まり、御者の声が響く。


「エルステリア侯爵家ご一行、ご到着です!」


 扉が開かれると、澄んだ春の風が、ふわりと馬車の中へと流れ込んだ。


 私は最後に一つ、深く息を吸い込む。

 これから始まる“祝福の儀”が、私たち家族にとって、そして娘にとって、どのような意味をもたらすのか。


 それを思いながら、私は静かに馬車を降りた。


 御者の手に導かれて馬車の扉が開くと、外の空気がふわりと流れ込んできた。


 春の風は思ったより冷たく、澄んだ朝の空気には微かな緊張が含まれていた。

 それでも、この場所には確かに「祝福の日」にふさわしい静謐が広がっている。


 私はアリエッタへと視線を送り、彼女が慎重にシオンを抱きかかえ直すのを確認してから、ゆっくりと馬車を降りた。

 石畳の感触が靴の裏を通じて足元に伝わってくる。

 続いてリートとリリカが降り立ち、それぞれ一礼を交えて立ち位置に並んだ。


 正面にそびえるのは、エルステリア領最大の教会。

 歴代の領主と神官が協力して整備し、何世代にもわたって信仰と文化の中心として栄えてきた聖域だ。

 高く伸びた尖塔は空に溶け込むようにそびえ立ち、その麓に広がる白亜の壁面が朝の光をやわらかく反射している。


 荘厳。だが、威圧的ではない。


 この地に住む人々が、日々祈りと共に生きていることが自然に伝わってくる建築だった。

 扉の前には神官たちが並び、私たちの到着を静かに迎えていた。


「ようこそお越しくださいました、侯爵閣下、そしてご家族の皆様」


 先頭に立つ老神官――マレウス師が、深く頭を垂れる。

 神殿に仕えて半世紀を超える老賢者であり、私が幼き日に祝福を受けたときの立会人でもあった人物だ。


 その顔に浮かぶ微かな緊張の影に、私は気づいた。


(……察しているな)


 おそらく、ただの祝福の儀では終わらないだろうと。

 それでも老神官は一言も疑念を口にすることなく、厳かな態度で式の導きを開始した。


「どうぞ、こちらへ」


 神官たちが二列に並んで道を開き、その間を私たちはゆっくりと歩み出す。


 教会の扉が、音もなく開かれた。


 その瞬間、聖域独特の空気が肌に触れた。

 外気とは異なる、澄みきった温もりと静けさ。

 高い天井には銀の燭台が連なり、朝の光を受けてやわらかく輝いている。

 長い回廊を通り抜けていくたびに、家族の足音が静かに石の床に吸い込まれていった。


 私は無意識に娘へ視線を移した。


 シオンはアリエッタの胸の中で目を閉じたまま、まるでこの空間に溶け込むように安らいでいた。

 あどけない寝顔の奥に、何が眠っているのか――誰にも分からない。

 それでも、今はただ、愛おしいとさえ思えた。


 祭壇の前に着くと、神官たちが厳かな所作で儀式の準備を始める。

 聖水をたたえた杯。聖典の開示。銀の香炉が掲げられ、ゆるやかに揺れる香煙が空へと昇っていく。


「エルステリア侯爵家ご夫妻、ならびに御子息、ご息女――これより、祝福の儀を始めます」


 老神官の声が、荘厳な教会堂の中に静かに響いた。


 私は背筋を伸ばし、隣に立つアリエッタへ目を向けた。

 彼女の表情は、穏やかで、しかし一切の迷いがない。


 それは、母としての覚悟の顔だった。


 シオンの人生の門出を迎えるにあたり、この場所に立つことを、彼女は誇りと共に受け止めていたのだろう。


 私もまた、胸の内でひとつ、深く誓った。


 どのような運命がこの娘を待ち受けていようと、私はそれに向き合い続ける。


 シオンが選ばれた存在であるのなら、私は選ばれた父であろう。

 この手が、彼女を支え続ける限り。


 石造りの階段を踏みしめながら、私は家族の一歩一歩を確かめるように後ろから見守っていた。

 教会の正面扉が大きく開かれ、陽光の残滓を浴びて静かに広がる大理石の床が、神聖な白さで私たちを迎えていた。


 先に進むアリエッタは、堂内の空気に飲まれることなく、落ち着いた足取りで進んでいく。

 その腕に抱かれたシオンの小さな姿は、白い礼服と同じほどに繊細で、けれど確かな命の灯火がその胸の内に宿っていた。


 老神官が祭壇前で待っていた。

 銀糸で縁取られた法衣を身にまとい、荘厳な表情のまま我々の到着を静かに受け止める。

 堂内には十数名の補佐神官が控え、すでに儀式の準備は整っているようだった。


 アリエッタが歩みを止め、私も彼女の隣に立つ。

 リートとリリカも左右に並ぶように進み出た。

 四人が一直線に並び、家族として娘の祝福を見守るための布陣が静かに整う。


 堂内の空気は、まるで一枚の氷の膜に包まれているかのようだった。

 言葉にすれば崩れてしまいそうな、緊張と静謐が張り詰めている。

 私は内心で小さく息を吐き、家族の表情を順に確かめた。


 アリエッタの横顔は凛として美しく、神々しいほどの静けさを湛えている。

 リートは唇を一文字に引き結び、父の役割と兄の責任を胸に据えたような面持ちだ。

 そして、リリカ――彼女の瞳だけが、ほんの少し揺れていた。


 神官が一歩進み出て、深く一礼を捧げた。


「ようこそおいでくださいました、エルステリア侯爵家の皆さま。儀式の準備は整っております」


 私は軽く頷き、代わってアリエッタが礼儀正しく応じる。


「どうぞ、娘の祝福を……神の御前にて」


 言葉少なに交わされたやり取りのあと、儀式が始まった。

 神官が祭壇前へと向かい、アリエッタがシオンを連れてゆっくりと進み出る。


 私たちはその後ろに控え、沈黙のまま見守る。

 堂内に響くのは、神官の唱える古の祈詞と、燭台の火が小さく揺れる音のみ。


 ――そして、その瞬間だった。


 鐘の音が、鳴り響いた。


 誰一人、鐘楼へ合図を出した者はいない。

 それでも、音は確かに降ってきた。


 私は、無意識に前へ出ようとして、足を止めた。

 その音に、教会全体が凍りついたようだった。

 神官も、侍女も、私も――皆が息を呑み、ただその音に耳を傾けていた。


 そして――娘が、言葉を発したのだ。


「……ひ、かり……」


 私の心が、大きく揺れた。


 それは確かに、言葉だった。

 意味を持ち、意志を伴った、最初の“ことば”だった。


 その場にいた誰もが、信じられないという顔でシオンを見つめていた。

 だが私は、ただ確信していた。


 ――これは、神が娘を選んだという、しるしだ。


 儀式の空気は変わり、祈りの場は、奇跡の証人としての沈黙に包まれた。

 それでも私は、声を発することなく、その小さな背中を見守っていた。


 私はただ、心の奥で静かに誓っていた。


(……シオン。お前が選ばれたのなら、父である私が、その背を守る)


 たとえ、何があろうとも。


 それが、私の――父としての祈りだった。

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