教会へと向かう馬車の中、私は窓の外に広がる穏やかな春の景色を見つめながら、深く静かな呼吸を繰り返していた。
車輪の揺れが、時折細やかに座席を揺らす。けれどそのわずかな揺れが、今日という特別な一日の重みを際立たせているように思えた。
向かう先は、エルステリア領の中心にある大教会。
今日は次女・シオンの“祝福の儀”の日だ。
けれど私は、ただの父親としてそこに向かっているわけではなかった。
この地を治めるエルステリア侯爵家の当主として、民の前に立つ者としての覚悟と責任もまた、今日という一日に重ねられていた。
娘を見やると、彼女はアリエッタの腕の中ですやすやと眠っていた。
その小さな胸が静かに上下するたび、胸の奥に奇妙な緊張が走る。
(……本当に、これでよかったのだろうか)
何度問い直しても、その答えは出ない。
この子が他の子と違うことは、生まれてすぐに感じていた。
詠唱もなく癒しをもたらす声。
音に反応するかのように瞬く瞳。
まだ言葉を話せぬはずの幼子の発する“何か”が、まるで祈りのように人の心を包み込む。
それは――力か、奇跡か、それとも、神の祝福なのか。
けれど私にとっては、それ以上にただひとつ、確かなことがあった。
この子は、私の娘だということ。
それだけは、どんな力の有無よりも大切な事実だった。
アリエッタの腕の中で、シオンがわずかに身じろぎをした。
その動きに、隣に座る長男リートが静かに顔を向けた。年若くして剣の稽古に励み、すでに家の責任の一端を担おうとしている息子。その眼差しには、確かな気遣いと決意が宿っていた。
「母上、寒くはありませんか?」
「ええ、ありがとう。あなたの気遣いは、いつも頼もしいわ」
アリエッタがそう言って微笑むと、リートは少しだけ照れたように目を伏せた。
その向かいには、長女のリリカが座っている。
青い瞳を細め、何かを思案するような顔つきで、静かにシオンを見つめていた。
彼女もまた、この祝福の儀が“ただの儀式”では済まないかもしれないことを、薄々感じ取っているのかもしれない。
――私は、彼女たちの父親だ。
この家族の誰もが、今のこの時間を無事に迎えられたことに感謝しながらも、どこか言葉にできない緊張を抱えていた。
馬車がゆっくりと石畳の上に止まり、御者の声が響く。
「エルステリア侯爵家ご一行、ご到着です!」
扉が開かれると、澄んだ春の風が、ふわりと馬車の中へと流れ込んだ。
私は最後に一つ、深く息を吸い込む。
これから始まる“祝福の儀”が、私たち家族にとって、そして娘にとって、どのような意味をもたらすのか。
それを思いながら、私は静かに馬車を降りた。
御者の手に導かれて馬車の扉が開くと、外の空気がふわりと流れ込んできた。
春の風は思ったより冷たく、澄んだ朝の空気には微かな緊張が含まれていた。
それでも、この場所には確かに「祝福の日」にふさわしい静謐が広がっている。
私はアリエッタへと視線を送り、彼女が慎重にシオンを抱きかかえ直すのを確認してから、ゆっくりと馬車を降りた。
石畳の感触が靴の裏を通じて足元に伝わってくる。
続いてリートとリリカが降り立ち、それぞれ一礼を交えて立ち位置に並んだ。
正面にそびえるのは、エルステリア領最大の教会。
歴代の領主と神官が協力して整備し、何世代にもわたって信仰と文化の中心として栄えてきた聖域だ。
高く伸びた尖塔は空に溶け込むようにそびえ立ち、その麓に広がる白亜の壁面が朝の光をやわらかく反射している。
荘厳。だが、威圧的ではない。
この地に住む人々が、日々祈りと共に生きていることが自然に伝わってくる建築だった。
扉の前には神官たちが並び、私たちの到着を静かに迎えていた。
「ようこそお越しくださいました、侯爵閣下、そしてご家族の皆様」
先頭に立つ老神官――マレウス師が、深く頭を垂れる。
神殿に仕えて半世紀を超える老賢者であり、私が幼き日に祝福を受けたときの立会人でもあった人物だ。
その顔に浮かぶ微かな緊張の影に、私は気づいた。
(……察しているな)
おそらく、ただの祝福の儀では終わらないだろうと。
それでも老神官は一言も疑念を口にすることなく、厳かな態度で式の導きを開始した。
「どうぞ、こちらへ」
神官たちが二列に並んで道を開き、その間を私たちはゆっくりと歩み出す。
教会の扉が、音もなく開かれた。
その瞬間、聖域独特の空気が肌に触れた。
外気とは異なる、澄みきった温もりと静けさ。
高い天井には銀の燭台が連なり、朝の光を受けてやわらかく輝いている。
長い回廊を通り抜けていくたびに、家族の足音が静かに石の床に吸い込まれていった。
私は無意識に娘へ視線を移した。
シオンはアリエッタの胸の中で目を閉じたまま、まるでこの空間に溶け込むように安らいでいた。
あどけない寝顔の奥に、何が眠っているのか――誰にも分からない。
それでも、今はただ、愛おしいとさえ思えた。
祭壇の前に着くと、神官たちが厳かな所作で儀式の準備を始める。
聖水をたたえた杯。聖典の開示。銀の香炉が掲げられ、ゆるやかに揺れる香煙が空へと昇っていく。
「エルステリア侯爵家ご夫妻、ならびに御子息、ご息女――これより、祝福の儀を始めます」
老神官の声が、荘厳な教会堂の中に静かに響いた。
私は背筋を伸ばし、隣に立つアリエッタへ目を向けた。
彼女の表情は、穏やかで、しかし一切の迷いがない。
それは、母としての覚悟の顔だった。
シオンの人生の門出を迎えるにあたり、この場所に立つことを、彼女は誇りと共に受け止めていたのだろう。
私もまた、胸の内でひとつ、深く誓った。
どのような運命がこの娘を待ち受けていようと、私はそれに向き合い続ける。
シオンが選ばれた存在であるのなら、私は選ばれた父であろう。
この手が、彼女を支え続ける限り。
石造りの階段を踏みしめながら、私は家族の一歩一歩を確かめるように後ろから見守っていた。
教会の正面扉が大きく開かれ、陽光の残滓を浴びて静かに広がる大理石の床が、神聖な白さで私たちを迎えていた。
先に進むアリエッタは、堂内の空気に飲まれることなく、落ち着いた足取りで進んでいく。
その腕に抱かれたシオンの小さな姿は、白い礼服と同じほどに繊細で、けれど確かな命の灯火がその胸の内に宿っていた。
老神官が祭壇前で待っていた。
銀糸で縁取られた法衣を身にまとい、荘厳な表情のまま我々の到着を静かに受け止める。
堂内には十数名の補佐神官が控え、すでに儀式の準備は整っているようだった。
アリエッタが歩みを止め、私も彼女の隣に立つ。
リートとリリカも左右に並ぶように進み出た。
四人が一直線に並び、家族として娘の祝福を見守るための布陣が静かに整う。
堂内の空気は、まるで一枚の氷の膜に包まれているかのようだった。
言葉にすれば崩れてしまいそうな、緊張と静謐が張り詰めている。
私は内心で小さく息を吐き、家族の表情を順に確かめた。
アリエッタの横顔は凛として美しく、神々しいほどの静けさを湛えている。
リートは唇を一文字に引き結び、父の役割と兄の責任を胸に据えたような面持ちだ。
そして、リリカ――彼女の瞳だけが、ほんの少し揺れていた。
神官が一歩進み出て、深く一礼を捧げた。
「ようこそおいでくださいました、エルステリア侯爵家の皆さま。儀式の準備は整っております」
私は軽く頷き、代わってアリエッタが礼儀正しく応じる。
「どうぞ、娘の祝福を……神の御前にて」
言葉少なに交わされたやり取りのあと、儀式が始まった。
神官が祭壇前へと向かい、アリエッタがシオンを連れてゆっくりと進み出る。
私たちはその後ろに控え、沈黙のまま見守る。
堂内に響くのは、神官の唱える古の祈詞と、燭台の火が小さく揺れる音のみ。
――そして、その瞬間だった。
鐘の音が、鳴り響いた。
誰一人、鐘楼へ合図を出した者はいない。
それでも、音は確かに降ってきた。
私は、無意識に前へ出ようとして、足を止めた。
その音に、教会全体が凍りついたようだった。
神官も、侍女も、私も――皆が息を呑み、ただその音に耳を傾けていた。
そして――娘が、言葉を発したのだ。
「……ひ、かり……」
私の心が、大きく揺れた。
それは確かに、言葉だった。
意味を持ち、意志を伴った、最初の“ことば”だった。
その場にいた誰もが、信じられないという顔でシオンを見つめていた。
だが私は、ただ確信していた。
――これは、神が娘を選んだという、しるしだ。
儀式の空気は変わり、祈りの場は、奇跡の証人としての沈黙に包まれた。
それでも私は、声を発することなく、その小さな背中を見守っていた。
私はただ、心の奥で静かに誓っていた。
(……シオン。お前が選ばれたのなら、父である私が、その背を守る)
たとえ、何があろうとも。
それが、私の――父としての祈りだった。