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5 祝福の日、神がささやいた(後編)

 鐘の音が、止んだ。

 光も、もう差していない。


 けれど――教会の中には、なお異様な静寂が残っていた。

 まるで、音という概念そのものが消えてしまったかのように、堂内からは気配すら感じられなかった。

 天井の高みに吊るされた燭台が、ゆるやかに揺れている。けれど、その鎖が軋む音ひとつさえ、今はなかった。


 私は、母様の腕の中にいた。

 その胸に顔をあずけたまま、そっとまぶたを開ける。

 空気は張りつめていて、息を吸うことさえためらわれるほどだった。


 ステンドグラス越しに射し込む光は、もはや穏やかな朝の光に戻っている。けれど、ほんの少し前まで――この場所は、違っていた。


 老神官は聖典を胸に抱えたまま動かず、まるで時の流れから切り離されたように佇んでいる。

 彼の髭は微かに震えていたが、瞳は光の差し込んだ場所から目を離せずにいた。

 その側に控えていた補佐の神官たちも、互いに言葉を交わすでもなく、ただ硬直したまま沈黙を保っていた。


 誰もが、何かを恐れていた。


 それは、「説明できない何か」に対する本能的な畏れだった。


 私の「ひかり」ということば。

 それに応えるように響いた鐘の音。

 そして、私の周囲だけを照らした、まるで命あるもののような光。


 ――あれは、神様のしわざだったのだろうか?


 理解の及ばない問いが胸の奥に浮かんだそのとき、誰かがぽつりとつぶやいた。


「……いまの……鐘が?」


 低く、震えるような声だった。

 それに応じるように、別の神官がかすれた声でこたえた。


「合図は……出していません。鐘楼にも……誰も……」


 その言葉は、重く堂内に沈んだ。

 けれどそれに続く声はなかった。言葉が、意味を失っていたのだ。


 気づけば、堂内に集まったすべての視線が、私に向けられていた。


 けれどそれは、責めるような目ではなかった。


 ただ――人が理解を越えた現象を前にしたときに浮かべる、ごく自然な反応。

 驚き、畏れ、そして、畏敬にも似た感情。


「……風か? 偶然……?」


「風で、あの鐘が鳴るとでも?」


「そもそも……なぜ、あの子の上にだけ、あのような光が……」


 低く重ねられる声は、やがてささやきとなって石造りの壁に吸い込まれていく。


 私は、母様の腕のぬくもりを感じながら、小さく息を吸い込んだ。

 そのぬくもりは、確かにそこにあった。


 母様の心臓の鼓動が、そっと私の背に伝わってくる。

 とても静かで、けれど力強い、まるで祈りのような音。


 母様が顔を上げ、正面の祭壇を見つめた。


 あの銀に縁取られた聖典が置かれた祭壇。細かな装飾が施された台座の上には、燃えることのない祈火が静かにゆれている。


 その光のゆらめきに、母様はそっと息を重ねた。


「……シオンは、少し疲れたようですわ。今日はこれで、失礼いたします」


 凛とした声だった。

 静かで、やさしくて――けれど、誰も逆らえない、絶対的な気品を含んだ声音。


 その瞬間、老神官が、はっとしたようにまばたきをした。

 彼はようやく現実に戻ったように、聖典を抱きしめる腕に力をこめると、深々と一礼を捧げた。


「……神の御加護が、あらんことを」


 補佐の神官たちも、それぞれに小さく頭を垂れた。

 誰ひとり、この場で起きた“異変”について口にしようとはしなかった。


 けれど、だからこそ、その沈黙は重かった。

 否定するでも肯定するでもなく、ただ畏れをもって受け止める、聖職者としての姿勢。


 そのとき、リート兄さまが一歩、私たちに近づいた。

 背筋を伸ばし、深く一礼をして、母様に視線を向ける。


「母上……お疲れではありませんか。私がシオンをお連れいたします」


 その言葉には、気遣いと、どこかにある戸惑いと、守ろうとする意思が滲んでいた。

 リート兄さまは私の顔をのぞき込むと、小さくほほ笑んでみせる。


「……大丈夫だよ、シオン。疲れただろう? もう帰ろう」


 私は、兄さまの声に、少しだけまぶたを閉じる。

 その声の響きは、いつもよりやわらかかった。


 母様は微笑みを返すと、私をそっと抱き直した。

 その仕草はどこまでも自然で、愛にあふれていた。


 父様――クラヴィス侯爵が、少し遅れて私たちのもとへと歩み寄ってくる。

 その目は何かを深く考えているようで、けれど言葉は発さなかった。


 リリカ姉さまは、そのすぐ後ろに控えていた。

 彼女の手は胸の前で組まれ、瞳はどこか遠くを見つめているようだった。


 静かな空気をまとったまま、私たちは教会の扉へと向かう。


 その一歩一歩が、重かった。

 まるで、今しがたこの場所で起きたことの意味を、身体に刻みつけるかのように。


 教会の扉が、重々しい音を立てて開かれる。


 石畳の外気がふわりと流れ込んでくると、あたたかな春の香りが頬をなでた。

 あの神聖な静けさと、今ここに満ちる空気とが、まるで別世界のように感じられた。


 教会の正面階段を降りる頃には、日差しはやわらかく、空は澄んでいた。

 けれど、そのまばゆさでさえ――ほんの少し、さっきまでの神秘に霞んでしまう。


 中庭の片隅には、乗ってきた馬車が静かに待機していた。

 白と銀を基調としたそれは、今日の儀式にふさわしく、飾り金具が光を受けて輝いていた。


 扉が開かれ、母様は私を抱いたままゆっくりと乗り込む。

 その背をリート兄さまが静かに支え、段差を越えるたびに足元をさりげなく確認していた。


「気をつけて、母上」


「ええ、ありがとう。……リート、あなたの手、とても頼もしいわ」


 母様がやさしくそう言うと、リート兄さまは少しだけ照れたように目をそらした。


 その背後からリリカ姉さまが続き、最後に父様が乗り込んだ。

 馬車の扉が閉じると、空間は再びひとつの静けさに包まれる。


 がたん、と車輪が動き出す。

 馬の足音と、石畳を踏みしめるリズムが、しばらくの間、車内の沈黙を包んだ。


 私は母様の腕に抱かれたまま、目を閉じていた。

 けれど耳は、すべてを聞いていた。


 リート兄さまの静かな呼吸。

 リリカ姉さまの、ふと息を呑むような音。

 そして母様の、私の背をやさしくとんとんと叩く、一定のぬくもり。


 それは、今この時間を、家族がひとつにしてくれている証だった。


「……まさか、あのようなことが起こるとは……」


 父様が小さく、ほとんど独り言のようにつぶやいた。

 その言葉に、誰も返答はしなかった。


 静かな時間が流れる。


 母様は少しだけ目を伏せて、私の頬に指先でそっと触れた。


「……神の奇跡か、それとも、祝福か。どちらにせよ……」


 その先を言葉にせず、母様はわずかに息をつく。


「――あなたが、無事でいてくれてよかった」


 それは、心の底からにじみ出た本音だった。

 装飾でも、理屈でもない。ただ、母としての感情。


 リート兄さまが、それに応えるように、静かに口を開いた。


「……私も、同じです。シオンが、あの場で……『ひかり』と、口にした時――この胸に、言葉にできぬ何かが、込み上げました」


 そう言ってリート兄さまは、手のひらを見つめた。

 儀式の間中、強く握りしめていたその指先には、うっすらと爪の跡が残っていた。


「……自分が、妹を守らねばならないと、そう感じたのです。たとえ、この出来事が、どれほど不思議であったとしても」


 その声には、迷いがなかった。

 まだ若くても、彼がすでに“守る者”としての責任を自覚していることが、はっきりと伝わってきた。


 母様はその横顔を静かに見つめると、やわらかく目を細める。


「リート……あなたがそう思ってくれたこと、それだけで、私はどれほど救われるかわからないわ」


 その言葉に、リート兄さまは何も言わず、ただうなずいた。


 そのとき――


 リリカ姉さまが、そっと私の手を包みこんだ。


 指先は、すこし冷たかった。けれど、その手は震えていた。

 私を怖がっているのではない。リリカ姉さまは、何かを堪えていた。


「……あのとき、光に包まれたシオンの顔が見えたの」

 ぽつりと、言葉が零れた。

「……とても綺麗で、まぶしくて……だけど、それだけじゃなかった。私……すこし、怖かったの。あなたが、遠くに行ってしまうんじゃないかって」


 その声は、どこまでも素直で、どこまでもやさしかった。


「でも……いま、こうして抱かれてるあなたを見て、安心したの。あぁ、やっぱりシオンは、私たちの妹なんだって……ちゃんと、ここにいるんだって」


 母様が、その言葉に、静かに目を細めた。


「リリカ……ありがとう。きっとシオンにも、届いているわ」


 リリカ姉さまは、小さく微笑んだ。

 そして私の額にそっと口づけを落とすと、囁くように言った。


「……おかえり、シオン」


 そのひとことは、あたたかく、私の心の奥まで届いた。


 リリカ姉さまは、ふと窓の外に目をやる。


「……春の風、まだ少し冷たいね」


 それは話題を変えるための、小さなささやきだったかもしれない。

 けれど、その声に、母様がやさしく返す。


「春は、目覚めの季節ですもの。いろいろなものが動き出すのよ。……目には見えないものも、ね」


 私は、母様の言葉に、心の中でうなずいた。


 ――そう。たしかに、何かが始まった。


 私の中で、何かが動き始めたのだ。

 それが何かはまだ分からない。

 けれど、さっきの鐘の音と、あの光と、そして私が口にした言葉――すべてがその証だった。


 風が、馬車の窓の隙間からふわりと吹き込む。


 やさしく、どこか懐かしい香りを運んできて、頬をくすぐった。

 その香りの中に、ほんの一瞬、教会で聞いた鐘の音が混じったような気がして――


 私は、そっと目を閉じた。


 これは、はじまりの音。

その響きが、未来で静かに答えをくれるような――そんな気がした。


 けれど今はただ、このぬくもりに包まれて、そっと眠りに落ちた。

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