鐘の音が、止んだ。
光も、もう差していない。
けれど――教会の中には、なお異様な静寂が残っていた。
まるで、音という概念そのものが消えてしまったかのように、堂内からは気配すら感じられなかった。
天井の高みに吊るされた燭台が、ゆるやかに揺れている。けれど、その鎖が軋む音ひとつさえ、今はなかった。
私は、母様の腕の中にいた。
その胸に顔をあずけたまま、そっとまぶたを開ける。
空気は張りつめていて、息を吸うことさえためらわれるほどだった。
ステンドグラス越しに射し込む光は、もはや穏やかな朝の光に戻っている。けれど、ほんの少し前まで――この場所は、違っていた。
老神官は聖典を胸に抱えたまま動かず、まるで時の流れから切り離されたように佇んでいる。
彼の髭は微かに震えていたが、瞳は光の差し込んだ場所から目を離せずにいた。
その側に控えていた補佐の神官たちも、互いに言葉を交わすでもなく、ただ硬直したまま沈黙を保っていた。
誰もが、何かを恐れていた。
それは、「説明できない何か」に対する本能的な畏れだった。
私の「ひかり」ということば。
それに応えるように響いた鐘の音。
そして、私の周囲だけを照らした、まるで命あるもののような光。
――あれは、神様のしわざだったのだろうか?
理解の及ばない問いが胸の奥に浮かんだそのとき、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……いまの……鐘が?」
低く、震えるような声だった。
それに応じるように、別の神官がかすれた声でこたえた。
「合図は……出していません。鐘楼にも……誰も……」
その言葉は、重く堂内に沈んだ。
けれどそれに続く声はなかった。言葉が、意味を失っていたのだ。
気づけば、堂内に集まったすべての視線が、私に向けられていた。
けれどそれは、責めるような目ではなかった。
ただ――人が理解を越えた現象を前にしたときに浮かべる、ごく自然な反応。
驚き、畏れ、そして、畏敬にも似た感情。
「……風か? 偶然……?」
「風で、あの鐘が鳴るとでも?」
「そもそも……なぜ、あの子の上にだけ、あのような光が……」
低く重ねられる声は、やがてささやきとなって石造りの壁に吸い込まれていく。
私は、母様の腕のぬくもりを感じながら、小さく息を吸い込んだ。
そのぬくもりは、確かにそこにあった。
母様の心臓の鼓動が、そっと私の背に伝わってくる。
とても静かで、けれど力強い、まるで祈りのような音。
母様が顔を上げ、正面の祭壇を見つめた。
あの銀に縁取られた聖典が置かれた祭壇。細かな装飾が施された台座の上には、燃えることのない祈火が静かにゆれている。
その光のゆらめきに、母様はそっと息を重ねた。
「……シオンは、少し疲れたようですわ。今日はこれで、失礼いたします」
凛とした声だった。
静かで、やさしくて――けれど、誰も逆らえない、絶対的な気品を含んだ声音。
その瞬間、老神官が、はっとしたようにまばたきをした。
彼はようやく現実に戻ったように、聖典を抱きしめる腕に力をこめると、深々と一礼を捧げた。
「……神の御加護が、あらんことを」
補佐の神官たちも、それぞれに小さく頭を垂れた。
誰ひとり、この場で起きた“異変”について口にしようとはしなかった。
けれど、だからこそ、その沈黙は重かった。
否定するでも肯定するでもなく、ただ畏れをもって受け止める、聖職者としての姿勢。
そのとき、リート兄さまが一歩、私たちに近づいた。
背筋を伸ばし、深く一礼をして、母様に視線を向ける。
「母上……お疲れではありませんか。私がシオンをお連れいたします」
その言葉には、気遣いと、どこかにある戸惑いと、守ろうとする意思が滲んでいた。
リート兄さまは私の顔をのぞき込むと、小さくほほ笑んでみせる。
「……大丈夫だよ、シオン。疲れただろう? もう帰ろう」
私は、兄さまの声に、少しだけまぶたを閉じる。
その声の響きは、いつもよりやわらかかった。
母様は微笑みを返すと、私をそっと抱き直した。
その仕草はどこまでも自然で、愛にあふれていた。
父様――クラヴィス侯爵が、少し遅れて私たちのもとへと歩み寄ってくる。
その目は何かを深く考えているようで、けれど言葉は発さなかった。
リリカ姉さまは、そのすぐ後ろに控えていた。
彼女の手は胸の前で組まれ、瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
静かな空気をまとったまま、私たちは教会の扉へと向かう。
その一歩一歩が、重かった。
まるで、今しがたこの場所で起きたことの意味を、身体に刻みつけるかのように。
教会の扉が、重々しい音を立てて開かれる。
石畳の外気がふわりと流れ込んでくると、あたたかな春の香りが頬をなでた。
あの神聖な静けさと、今ここに満ちる空気とが、まるで別世界のように感じられた。
教会の正面階段を降りる頃には、日差しはやわらかく、空は澄んでいた。
けれど、そのまばゆさでさえ――ほんの少し、さっきまでの神秘に霞んでしまう。
中庭の片隅には、乗ってきた馬車が静かに待機していた。
白と銀を基調としたそれは、今日の儀式にふさわしく、飾り金具が光を受けて輝いていた。
扉が開かれ、母様は私を抱いたままゆっくりと乗り込む。
その背をリート兄さまが静かに支え、段差を越えるたびに足元をさりげなく確認していた。
「気をつけて、母上」
「ええ、ありがとう。……リート、あなたの手、とても頼もしいわ」
母様がやさしくそう言うと、リート兄さまは少しだけ照れたように目をそらした。
その背後からリリカ姉さまが続き、最後に父様が乗り込んだ。
馬車の扉が閉じると、空間は再びひとつの静けさに包まれる。
がたん、と車輪が動き出す。
馬の足音と、石畳を踏みしめるリズムが、しばらくの間、車内の沈黙を包んだ。
私は母様の腕に抱かれたまま、目を閉じていた。
けれど耳は、すべてを聞いていた。
リート兄さまの静かな呼吸。
リリカ姉さまの、ふと息を呑むような音。
そして母様の、私の背をやさしくとんとんと叩く、一定のぬくもり。
それは、今この時間を、家族がひとつにしてくれている証だった。
「……まさか、あのようなことが起こるとは……」
父様が小さく、ほとんど独り言のようにつぶやいた。
その言葉に、誰も返答はしなかった。
静かな時間が流れる。
母様は少しだけ目を伏せて、私の頬に指先でそっと触れた。
「……神の奇跡か、それとも、祝福か。どちらにせよ……」
その先を言葉にせず、母様はわずかに息をつく。
「――あなたが、無事でいてくれてよかった」
それは、心の底からにじみ出た本音だった。
装飾でも、理屈でもない。ただ、母としての感情。
リート兄さまが、それに応えるように、静かに口を開いた。
「……私も、同じです。シオンが、あの場で……『ひかり』と、口にした時――この胸に、言葉にできぬ何かが、込み上げました」
そう言ってリート兄さまは、手のひらを見つめた。
儀式の間中、強く握りしめていたその指先には、うっすらと爪の跡が残っていた。
「……自分が、妹を守らねばならないと、そう感じたのです。たとえ、この出来事が、どれほど不思議であったとしても」
その声には、迷いがなかった。
まだ若くても、彼がすでに“守る者”としての責任を自覚していることが、はっきりと伝わってきた。
母様はその横顔を静かに見つめると、やわらかく目を細める。
「リート……あなたがそう思ってくれたこと、それだけで、私はどれほど救われるかわからないわ」
その言葉に、リート兄さまは何も言わず、ただうなずいた。
そのとき――
リリカ姉さまが、そっと私の手を包みこんだ。
指先は、すこし冷たかった。けれど、その手は震えていた。
私を怖がっているのではない。リリカ姉さまは、何かを堪えていた。
「……あのとき、光に包まれたシオンの顔が見えたの」
ぽつりと、言葉が零れた。
「……とても綺麗で、まぶしくて……だけど、それだけじゃなかった。私……すこし、怖かったの。あなたが、遠くに行ってしまうんじゃないかって」
その声は、どこまでも素直で、どこまでもやさしかった。
「でも……いま、こうして抱かれてるあなたを見て、安心したの。あぁ、やっぱりシオンは、私たちの妹なんだって……ちゃんと、ここにいるんだって」
母様が、その言葉に、静かに目を細めた。
「リリカ……ありがとう。きっとシオンにも、届いているわ」
リリカ姉さまは、小さく微笑んだ。
そして私の額にそっと口づけを落とすと、囁くように言った。
「……おかえり、シオン」
そのひとことは、あたたかく、私の心の奥まで届いた。
リリカ姉さまは、ふと窓の外に目をやる。
「……春の風、まだ少し冷たいね」
それは話題を変えるための、小さなささやきだったかもしれない。
けれど、その声に、母様がやさしく返す。
「春は、目覚めの季節ですもの。いろいろなものが動き出すのよ。……目には見えないものも、ね」
私は、母様の言葉に、心の中でうなずいた。
――そう。たしかに、何かが始まった。
私の中で、何かが動き始めたのだ。
それが何かはまだ分からない。
けれど、さっきの鐘の音と、あの光と、そして私が口にした言葉――すべてがその証だった。
風が、馬車の窓の隙間からふわりと吹き込む。
やさしく、どこか懐かしい香りを運んできて、頬をくすぐった。
その香りの中に、ほんの一瞬、教会で聞いた鐘の音が混じったような気がして――
私は、そっと目を閉じた。
これは、はじまりの音。
その響きが、未来で静かに答えをくれるような――そんな気がした。
けれど今はただ、このぬくもりに包まれて、そっと眠りに落ちた。