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4 祝福の日、神がささやいた(前編)

 春の光はやわらかくて、胸の中がふわふわする。


 その朝は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。


 窓の向こうに広がる空は、まるで今日という日を祝福するかのように澄みわたっていて、光は淡く、風は優しかった。カーテンの隙間から差し込む陽の筋が、天蓋付きの揺り籠の縁を金色に染めている。


 今日は、私の一歳の誕生日。


 エルステリア家の末娘としてこの世界に生まれて、ちょうど一年が経ったということだった。


 この国では、貴族の子どもが一歳になると、教会に赴いて「祝福の儀式」を受けるという古いしきたりがあるのだと、侍女たちが話しているのを聞いたことがある。


 神様に命の感謝を捧げ、この先の加護を祈ってもらう――それは、ただの形式ではなく、貴族として生まれた者が“この世界に生きる”ことを、神と家族、そして社会に認めてもらう大切な儀式。


 お城のように広い屋敷の中でも、この日を迎える空気はどこか特別で。

 侍女たちは朝から忙しそうに準備を進め、廊下では軽やかな足音が交差し、誰もが少しだけ背筋を伸ばしていた。


 私は、自室のクッションに座らされ、目の前に並べられたリボンやドレスの色合いに見惚れていた。


「今日は特別な日ですから、いちばん似合うお召し物を……」

「こちらの真珠の飾りも可愛らしいですね。ああ、どれもお似合いで迷ってしまいますわ」


 そんな声に包まれながら、私はぬいぐるみのルナちゃんを胸に抱きしめていた。

 ふわふわの感触は、今朝もやっぱり安心できる温もりだった。


 そのとき、そっと扉が開き――


「おはよう、シオン。もう起きていたのね」


 優しく微笑むのは、私の母様――アリエッタ。


 その姿は、いつものように清らかで美しかった。けれど今日は特に、まるで祝福の女神のような、静かな光をまとっているように見えた。


「今日は、あなたにとって、そして私たち家族にとって、とても大切な一日なのよ」


 母様は、そう言って私の頬にそっと手を添えてくれる。

 その掌のあたたかさに触れただけで、胸の奥がじんわりと満ちていくような気がした。


「ふふ、きっと神様も、あなたのことを見守っていてくださるわ。ね、うさちゃん?」


 母様がルナちゃんにまで話しかけるものだから、私は思わずくすりと笑った。

 その笑みに、母様も同じように目を細めて微笑んでくれる。


 そうして、私の小さな体に、今日のために仕立てられた白の礼服がひとつひとつ着せられていく。

 袖口には銀糸の刺繍。胸元の飾りは、淡く光る月のかけらのような真珠。


 まだよくわからないけれど、鏡の中の私は、ほんの少しだけ大人びて見えた。


 着替えを終えた私は、再び母様の腕に抱き上げられた。


「ふふ……とっても可愛らしいわ、シオン。今日のあなたは、まるで天の花の精ね」


 母様の声に、侍女たちも思わずくすりと微笑む。

 その瞬間、廊下の奥から足音が聞こえてきた。


「母上、シオンの支度はもうお済みですか?」


 凛とした声がして、扉の前に現れたのは、リート兄さま。

 その後ろからは、ふわりと金髪を揺らしたリリカ姉さまも続く。


「まあ、リートにリリカ。ふたりとも、早くからありがとう」


「大事な妹の祝いの日ですから。私たちにとっても、特別な日です」


 そう言って、リート兄さまはそっと私の額に手を伸ばす。触れないほどのやさしさで、ほんの少しだけその手を浮かせたまま、祝福を贈るように。


「シオン……よくぞ今日まで元気に育ってくれました。神の御加護がありますように」


 低く静かな声に、私の胸の奥が、ぽっとあたたかくなる。


「ほんとに。今日のシオン、すごくきれい。ね、うさちゃんもそう思うでしょ?」


 リリカ姉さまが笑いながら、ぬいぐるみの耳をちょこんとつついた。

 私は思わず小さく声をもらす。


「……ふ……う……」


「ふふ、かわいい」


 リリカ姉さまが目を細めて私の頬にキスをすると、リート兄さまはそっと咳払いをして、窓の外に目をやった。


「そろそろ、出発の時間ですね」


「ええ、準備をお願いしているわ。馬車が中庭に来ているはず」



 教会への道は、石畳の続く静かな街路だった。

 乗り込んだ馬車の窓からは、朝の光がやわらかく差し込んでいて、車輪の音がやさしく耳に響いてくる。


 私は母様の腕に抱かれたまま、兄と姉の向かいに座っていた。

 リート兄さまは、きちんとした紺の礼装を身にまとい、膝の上に手を重ねて座っている。リリカ姉さまは淡い紫のドレスに白のケープを合わせていて、何度も鏡で自分の髪を確認しては、「ちゃんとしてるわよね?」と兄に囁いていた。


 その隣には、父様――クラヴィス侯爵の姿もあった。

 凛としたその横顔は、いつもどおり厳格に見えたけれど、どこか柔らかな光を湛えているようにも感じられた。

 私がそっと父様を見つめると、ほんのわずかに目元を和らげて、静かにうなずいてくれる。


 教会の塔が見えてくると、空気がすうっと張りつめていく。


 この空の下で、何百年も人々の祈りを受け止めてきた場所。

 誰かが歌を歌うように、心を澄ませるように、重くて静かな気配があった。



 大きな扉の前で、馬車が止まる。


 白い石造りの教会は、光に照らされてほんのりと温かみを帯びていた。

 高くそびえる塔の先端には、金の十字架が輝いていて、その下では厳かな鐘がまだ沈黙を守っている。


 扉が開き、家族そろって降り立つ。

 母様に抱かれたままの私は、ふわりとした春風とともに、教会の石段を見上げた。


 リート兄さまが先に一歩を踏み出す。その背中を追って、父様、母様、リリカ姉さま。

 そして、私。


 扉の向こうからは、澄んだ光がこちらへと差し込んできていた。



 内部は静かだった。まるで音すら祈っているかのように。

 高い天井から下がる燭台。ステンドグラスを通して差し込む虹の光。

 大理石の床が、私たちの足音をゆっくりと反響させる。


 中央には祭壇。銀に縁取られた聖典が置かれ、その奥には老神官が佇んでいた。

 白金の髭を持つ彼は、私たちが近づくのを見ると、静かに一礼した。


「お集まりいただき、感謝いたします。神の祝福と導きが、この幼き魂の上にありますように」


 母様が一歩前に出て、私を抱きかかえたまま頭を下げる。

 その瞬間、空気が一層凛とする。


 祭壇の前に立ち、儀式が始まった。


 老神官の手にある聖典が、ゆっくりと開かれる。

 その動作一つひとつが、まるで儀式そのものの一部のように、静かで、重みがあった。


「では、これより――祝福の儀式を執り行います」


 その声が堂内に響いた瞬間、教会の扉が背後でそっと閉じられた。

 私たちはもう、この聖なる空間の中に包み込まれていた。


 リート兄さまとリリカ姉さまは、母様の後方に立ち、静かに見守っている。

 リート兄さまの瞳はいつも以上に澄んでいて、まるで一言一句を心に刻みつけるように神官の言葉に耳を傾けていた。

 リリカ姉さまは両手を胸の前で組み、小さく祈るように目を閉じていた。


 そのとき、父様――クラヴィス侯爵が前に進み、厳かに口を開いた。


「この子の名は、シオン・エルステリア。神のもとに、その名を捧げ、導きを願います」


 父様の声は静かで、しかし揺るぎなく、堂内にすうっと溶け込んでいく。

 まるで、長い年月を生きてきた石の壁にさえ、その響きが染み渡るかのようだった。


 神官は深くうなずくと、聖水をたたえた銀の杯を手に取り、祈りの言葉を紡ぎ始めた。


「命の始まりに祝福を。魂に清めの光を。未来に加護と導きを。主の名において――この子に声を与えたまえ」


 銀杯の中で聖水がきらりと光った。

 その一滴が、私の額へと垂れ落ちる瞬間――


 カァァン……


 天井の高みから、澄んだ鐘の音がひとつ、降ってきた。


 その音は確かに鐘の響きだった。けれど、誰も鐘楼へ向かった者はいない。

 合図も、手振りもないままに、ただ音だけが響きわたる。


 カラン……カァァン……コォン……


 まるで空の向こうで、誰かが鐘を鳴らしているようだった。

 それも、ただ打ち鳴らすのではなく、音楽のように、旋律を奏でるように。


 その瞬間、ステンドグラスの光が教会の中央に集まり――一本の光の柱となって私たちを包んだ。


 それは光だった。

 でもただの光ではなかった。

 色を持ち、あたたかさを宿し、胸の奥に懐かしさを運んでくる、不思議な光。


 私は思わず、母様の腕の中で、小さな声を漏らしていた。


「……ひ、かり……」


 それは、私自身も気づかぬうちに口をついて出た、ことば。

 かすれていて、小さくて、けれど確かに“意味”を持っていた、私の“はじめて”の言葉。


 ――瞬間、堂内の空気が、ふっと止まったような気がした。


 母様が、はっと息をのむ。

 リリカ姉さまは目を見開き、リート兄さまの表情も一瞬だけ揺れる。

 そして父様は、何かを感じ取ったように、ゆっくりと視線を伏せた。


 誰も声を出さなかった。

 老神官でさえ、祈りの言葉を続けることなく、沈黙のまま立ち尽くしている。


 教会の中には、鐘の音の余韻がまだかすかに揺れていて、

 ステンドグラスを通った光も、まるで静かに息をひそめるように淡くなっていく。


 ただ、私の胸の奥には、たしかに――

 なにかが宿った感覚が、じんわりと残っていた。


 言葉にできない、でも確かにここにあるもの。

 それが、この一瞬に生まれたことだけは、私自身が知っていた。


 母様は、そんな私をそっと抱きしめ直す。


 その腕のぬくもりの中、私は静かに目を閉じた。

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