春の陽射しが、淡く庭の芝生を照らしていた。レースのカーテン越しに、その光がゆらゆらと揺れながら部屋の奥まで届いてくる。
私は、自室の窓辺に置かれたクッションの上にちょこんと座っていた。
胸にはいつものように、ぬいぐるみ――ルナちゃん。
ふわふわの耳を撫でながら、私はじっと外を見つめていた。
木々が風に揺れて、小鳥たちが枝の上ではしゃいでいる。
風の音。鳥の声。木の葉がこすれ合う音。
そのどれもが、この世界の“やさしさ”のように感じられて、私はその中にそっと心を溶かしていた。
(……きれい)
そんな言葉すら、まだ私の中に生まれてはいなかったけれど。
それでも、胸の奥にふわりと浮かぶ気持ちは、たしかに“ことば”になろうとしていた。
私はまだ、赤ん坊。
言葉も、歩くことも、思うままにできない。
けれど、“心”はそこにあった。
◇
「お嬢様、今日もお元気そうですね」
「この頃は本当に、よく笑っていらっしゃる」
侍女たちのやさしい声が、背中越しに届く。
誰が何を言っているか、すべてが分かるわけではない。
でも、声色のやわらかさや、響きの調子だけで、彼女たちの“気持ち”が伝わってくる気がした。
私はくるりと体を向けて、片方の侍女の指を小さく握った。
指はほっそりしていて、でもあたたかくて、握っただけで少しだけ胸が明るくなる。
「ふふっ……今日はお手々をにぎにぎしてくれるんですね」
「お嬢様、ご機嫌のご様子です」
私はその声に答えるように、声にならない小さな音をもらした。
「あ……ん、ふ、あー……」
まだ言葉にも、歌にもなれないけれど。
でも、その“音”にこめられた想いを、きっと誰かが受け取ってくれている気がした。
◇
しばらくして、部屋の扉が音を立てて開いた。
「シオン……」
その声は、私にとって太陽のようなひと。
アリエッタ母様。
金糸のような髪を編み上げ、深い青のドレスを纏った姿は、まるでおとぎ話のお姫様みたいに美しかった。
でも、その瞳はいつもやさしくて、私のそばに来るたびに、部屋の空気がふわりと変わる。
私はすぐにルナちゃんを抱きしめたまま、両手を伸ばす。
この感情を伝えたい。でも、まだ言葉が追いつかない。
「ふふ……どうしたの? そんなに腕を伸ばして」
母様は私を抱き上げ、頬を寄せてくれる。
その瞬間、私は胸がいっぱいになって、また小さな音をもらした。
「……ま……ま……」
舌がもつれて、うまく言えない。でも、なにか言いたい。
母様の目が見開かれる。けれど、それは“言葉”というには、まだ遠い響きだった。
それでも母様は、優しく微笑んで――「……シオン、今のは『ママ』……かしら?」
私は、意味はわからなくても、その響きが好きだった。
その音にこめられた気持ちを、少しだけ感じた気がした。
◇
ことばがひとつ生まれるたび、世界がほんの少し広がっていくような気がした。
「まま」だけでは伝えきれない想いが、胸の内にじんわりと積もっていく。
目に映る景色、耳に届く音、心を満たすぬくもり……そのすべてを、いつかことばで伝えたい。そう思った。
ある日、私はまた母様と一緒にいた。窓の外では風がさざめき、庭の花々がゆれる音が、静かに部屋に届いていた。
その日は特別な日というわけではなかった。でも、私の心には、何かが芽吹き始めていた。
母様が本を読んでくれている。
絵本には色とりどりの絵が描かれ、やさしい声がひとつひとつのページに命を吹き込んでいた。
まだ全部はわからないけれど、物語のリズムや音の響きだけでも心地よくて、私は小さな体を前のめりにして耳を澄ませた。
「……そして、森のうさぎは言いました。『ありがとう』って。……ね、シオンも、いつか“ありがとう”って言えるようになるといいわね」
“ありがとう”
その音の並びが、胸の奥でふわりとあたたかく響いた。
きっとそれは、私がいつか伝えたい、いちばん大切なことば。
(ありがとう、って……)
その夜。ルナちゃんを抱いて眠りにつくとき、私はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
小さな声で、でも確かに届くように、心の中でそっと、誰かに伝える練習をしていた。
◇
春が過ぎ、夏の気配が近づいてきたある日。
その日、私は初めて“外の空気”に触れた。ふわふわの帽子に、淡いクリーム色のワンピース、小さな靴を履かせてもらって、侍女に抱かれながら中庭へと連れ出された。
そこには、初めて触れる風の匂い、光の粒、木漏れ日の影があった。
胸の中が、いっぺんに色づいたような、そんな気がした。
「どう? シオン。気持ちいいかしら?」
母様の問いかけに、私は目を細め、小さな声で「んー……」と応えた。
それだけで、母様は嬉しそうに笑い、私の頬にそっと手を添えてくれる。
日差しの中に立つ母様の姿は、青いドレスの裾が風にそよぎ、まるで空そのものをまとっているようだった。
そのとき、庭の奥から、ふたつの足音が聞こえてきた。
振り返った侍女が一礼し、やがて姿を見せたのは、リート兄さまと、リリカ姉さま。
並んで歩いてくるふたりは、まるで絵本の中から出てきたようだった。
リリカ姉さまは、ふわりと揺れる金色の巻き髪に春色のリボンを添えていて、どんな時もおとぎ話の中の登場人物のようだった。
私のすぐそばにしゃがみこむと、やわらかな声でささやく。
「今日のワンピース、とてもよく似合ってるわ」
にこりと微笑むその顔を見た瞬間、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
隣のリート兄さまは、変わらず静かな面持ちで私を見つめていた。
目元にはやわらかな光が宿っていて、私がその視線に気づくと、小さくうなずいてくれる。
膝の上には一冊の本があって、きっと庭で読むつもりだったのだろう。
(ふたりとも、やさしい……)
まだ声に出すことはできないけれど、心の中でそうつぶやきながら、私はルナちゃんをぎゅっと抱きしめた。
その様子を、少し離れたベンチに座った母様が静かに見守っていた。
日差しに髪が照らされて、黄金のように輝いている。
やわらかな微笑みをたたえたその姿が、私の中で“安心”という言葉の形をくれる。
リリカ姉さまは、私の頬をそっとつつきながら微笑んだあと、ふと口元に手をあて、くすりと笑った。
「そうだわ、シオンに、ちょっとだけ歌ってあげてもいいかしら?」
その問いかけに、母様がそっと目を細めてうなずく。
「ええ、きっと喜ぶわよ」
リリカ姉さまは、春風のように軽やかな声で、短いメロディを口ずさみはじめた。
それは幼い子どもに向けた子守唄。やさしくて、あたたかくて、どこか懐かしい旋律だった。
私の胸が、きゅっとなった。
わからない言葉。でも、音の重なりが、とても愛おしい。
私は思わず、声にならない声をもらした。
「あ……あ……ん……」
リリカ姉さまが、驚いたように目を見開いた。
「……今、歌に応えたのかしら?」
その言葉に、母様もそっと私を見つめる。
その瞳は、最初に“まま”とつぶやいたときと同じように、深いやさしさで満ちていた。
私はもう一度、小さく声を漏らした。
「……ふ……ん……」
言葉にはならない。
でも、胸の奥に生まれたあたたかな波が、喉を通って、小さな音になっていく。
(うた……)
それは、私が前の世界でずっと憧れていたもの。
その“輝き”のひと欠片に、ほんの少しだけ、指先が触れたような気がした。
◇
そうして少しずつ、私は“ことば”の形を覚えていった。
ある日は、空を見上げて「そら」と。
ある日は、ルナちゃんを見つめて「るな」と。
そのひとつひとつが、私にとっては宝石のように大切で、ひとつずつ心を込めて発していた。
伝える喜び。伝わる喜び。
それがどれほど温かいものかを知った私は、言葉という“光”に夢中になっていた。
そして、心の奥で静かに願う。
(いつか、この声で、誰かの心を照らせたら――)
まだ“歌”にはならない。
でも、“ことば”のはじまりは、きっとその先へと続いている。
私の夢の、その先へ。
◇
夜。
窓の外には星が瞬いていた。
私はルナちゃんを抱きながら、小さな声で音をもらした。
「あ……ま、ま……ん、う……」
それは、まだ言葉とは呼べない音の連なり。
けれど、胸の奥に浮かぶ大切な気配――母様、兄さま、ルナちゃん。
“好き”や“ありがとう”といった想いを、まだ知らない舌で、精一杯なぞっていた。
その音を胸に抱いて、私はまた、夢の中へと旅立っていった。