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3 ことばのはじまり

 春の陽射しが、淡く庭の芝生を照らしていた。レースのカーテン越しに、その光がゆらゆらと揺れながら部屋の奥まで届いてくる。

 私は、自室の窓辺に置かれたクッションの上にちょこんと座っていた。


 胸にはいつものように、ぬいぐるみ――ルナちゃん。

 ふわふわの耳を撫でながら、私はじっと外を見つめていた。


 木々が風に揺れて、小鳥たちが枝の上ではしゃいでいる。

 風の音。鳥の声。木の葉がこすれ合う音。

 そのどれもが、この世界の“やさしさ”のように感じられて、私はその中にそっと心を溶かしていた。


(……きれい)


 そんな言葉すら、まだ私の中に生まれてはいなかったけれど。

 それでも、胸の奥にふわりと浮かぶ気持ちは、たしかに“ことば”になろうとしていた。


 私はまだ、赤ん坊。

 言葉も、歩くことも、思うままにできない。


 けれど、“心”はそこにあった。



「お嬢様、今日もお元気そうですね」

「この頃は本当に、よく笑っていらっしゃる」


 侍女たちのやさしい声が、背中越しに届く。

 誰が何を言っているか、すべてが分かるわけではない。

 でも、声色のやわらかさや、響きの調子だけで、彼女たちの“気持ち”が伝わってくる気がした。


 私はくるりと体を向けて、片方の侍女の指を小さく握った。

 指はほっそりしていて、でもあたたかくて、握っただけで少しだけ胸が明るくなる。


「ふふっ……今日はお手々をにぎにぎしてくれるんですね」

「お嬢様、ご機嫌のご様子です」


 私はその声に答えるように、声にならない小さな音をもらした。


「あ……ん、ふ、あー……」


 まだ言葉にも、歌にもなれないけれど。

 でも、その“音”にこめられた想いを、きっと誰かが受け取ってくれている気がした。



 しばらくして、部屋の扉が音を立てて開いた。


「シオン……」


 その声は、私にとって太陽のようなひと。


 アリエッタ母様。


 金糸のような髪を編み上げ、深い青のドレスを纏った姿は、まるでおとぎ話のお姫様みたいに美しかった。

 でも、その瞳はいつもやさしくて、私のそばに来るたびに、部屋の空気がふわりと変わる。


 私はすぐにルナちゃんを抱きしめたまま、両手を伸ばす。

 この感情を伝えたい。でも、まだ言葉が追いつかない。


「ふふ……どうしたの? そんなに腕を伸ばして」


 母様は私を抱き上げ、頬を寄せてくれる。

 その瞬間、私は胸がいっぱいになって、また小さな音をもらした。



「……ま……ま……」

 舌がもつれて、うまく言えない。でも、なにか言いたい。


 母様の目が見開かれる。けれど、それは“言葉”というには、まだ遠い響きだった。


 それでも母様は、優しく微笑んで――「……シオン、今のは『ママ』……かしら?」


 私は、意味はわからなくても、その響きが好きだった。

 その音にこめられた気持ちを、少しだけ感じた気がした。



 ことばがひとつ生まれるたび、世界がほんの少し広がっていくような気がした。

 「まま」だけでは伝えきれない想いが、胸の内にじんわりと積もっていく。

 目に映る景色、耳に届く音、心を満たすぬくもり……そのすべてを、いつかことばで伝えたい。そう思った。


 ある日、私はまた母様と一緒にいた。窓の外では風がさざめき、庭の花々がゆれる音が、静かに部屋に届いていた。

 その日は特別な日というわけではなかった。でも、私の心には、何かが芽吹き始めていた。


 母様が本を読んでくれている。

 絵本には色とりどりの絵が描かれ、やさしい声がひとつひとつのページに命を吹き込んでいた。

 まだ全部はわからないけれど、物語のリズムや音の響きだけでも心地よくて、私は小さな体を前のめりにして耳を澄ませた。


「……そして、森のうさぎは言いました。『ありがとう』って。……ね、シオンも、いつか“ありがとう”って言えるようになるといいわね」


 “ありがとう”

 その音の並びが、胸の奥でふわりとあたたかく響いた。

 きっとそれは、私がいつか伝えたい、いちばん大切なことば。


(ありがとう、って……)


 その夜。ルナちゃんを抱いて眠りにつくとき、私はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。

 小さな声で、でも確かに届くように、心の中でそっと、誰かに伝える練習をしていた。



 春が過ぎ、夏の気配が近づいてきたある日。

 その日、私は初めて“外の空気”に触れた。ふわふわの帽子に、淡いクリーム色のワンピース、小さな靴を履かせてもらって、侍女に抱かれながら中庭へと連れ出された。


 そこには、初めて触れる風の匂い、光の粒、木漏れ日の影があった。

 胸の中が、いっぺんに色づいたような、そんな気がした。


「どう? シオン。気持ちいいかしら?」


 母様の問いかけに、私は目を細め、小さな声で「んー……」と応えた。

 それだけで、母様は嬉しそうに笑い、私の頬にそっと手を添えてくれる。

 日差しの中に立つ母様の姿は、青いドレスの裾が風にそよぎ、まるで空そのものをまとっているようだった。


 そのとき、庭の奥から、ふたつの足音が聞こえてきた。

 振り返った侍女が一礼し、やがて姿を見せたのは、リート兄さまと、リリカ姉さま。

 並んで歩いてくるふたりは、まるで絵本の中から出てきたようだった。


 リリカ姉さまは、ふわりと揺れる金色の巻き髪に春色のリボンを添えていて、どんな時もおとぎ話の中の登場人物のようだった。

 私のすぐそばにしゃがみこむと、やわらかな声でささやく。


「今日のワンピース、とてもよく似合ってるわ」


 にこりと微笑むその顔を見た瞬間、胸の奥がふわっとあたたかくなる。


 隣のリート兄さまは、変わらず静かな面持ちで私を見つめていた。

 目元にはやわらかな光が宿っていて、私がその視線に気づくと、小さくうなずいてくれる。

 膝の上には一冊の本があって、きっと庭で読むつもりだったのだろう。


(ふたりとも、やさしい……)


 まだ声に出すことはできないけれど、心の中でそうつぶやきながら、私はルナちゃんをぎゅっと抱きしめた。


 その様子を、少し離れたベンチに座った母様が静かに見守っていた。

 日差しに髪が照らされて、黄金のように輝いている。

 やわらかな微笑みをたたえたその姿が、私の中で“安心”という言葉の形をくれる。


 リリカ姉さまは、私の頬をそっとつつきながら微笑んだあと、ふと口元に手をあて、くすりと笑った。


「そうだわ、シオンに、ちょっとだけ歌ってあげてもいいかしら?」


 その問いかけに、母様がそっと目を細めてうなずく。


「ええ、きっと喜ぶわよ」


 リリカ姉さまは、春風のように軽やかな声で、短いメロディを口ずさみはじめた。

 それは幼い子どもに向けた子守唄。やさしくて、あたたかくて、どこか懐かしい旋律だった。


 私の胸が、きゅっとなった。


 わからない言葉。でも、音の重なりが、とても愛おしい。


 私は思わず、声にならない声をもらした。


「あ……あ……ん……」


 リリカ姉さまが、驚いたように目を見開いた。


「……今、歌に応えたのかしら?」


 その言葉に、母様もそっと私を見つめる。

 その瞳は、最初に“まま”とつぶやいたときと同じように、深いやさしさで満ちていた。


 私はもう一度、小さく声を漏らした。


「……ふ……ん……」


 言葉にはならない。

 でも、胸の奥に生まれたあたたかな波が、喉を通って、小さな音になっていく。


(うた……)


 それは、私が前の世界でずっと憧れていたもの。

 その“輝き”のひと欠片に、ほんの少しだけ、指先が触れたような気がした。



 そうして少しずつ、私は“ことば”の形を覚えていった。


 ある日は、空を見上げて「そら」と。

 ある日は、ルナちゃんを見つめて「るな」と。


 そのひとつひとつが、私にとっては宝石のように大切で、ひとつずつ心を込めて発していた。


 伝える喜び。伝わる喜び。

 それがどれほど温かいものかを知った私は、言葉という“光”に夢中になっていた。


 そして、心の奥で静かに願う。


(いつか、この声で、誰かの心を照らせたら――)


 まだ“歌”にはならない。

 でも、“ことば”のはじまりは、きっとその先へと続いている。

 私の夢の、その先へ。



 夜。

 窓の外には星が瞬いていた。


 私はルナちゃんを抱きながら、小さな声で音をもらした。


「あ……ま、ま……ん、う……」


 それは、まだ言葉とは呼べない音の連なり。

 けれど、胸の奥に浮かぶ大切な気配――母様、兄さま、ルナちゃん。

 “好き”や“ありがとう”といった想いを、まだ知らない舌で、精一杯なぞっていた。


 その音を胸に抱いて、私はまた、夢の中へと旅立っていった。

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